傾かない天秤(3)
十年一日の如し。同じく天秤の両端にもある感想として、ときは走馬灯のように。
わたしは調査と観察をしている。虫かごでうごめく物体のようなものとして。輝ける蛍。小うるさいセミたち。優雅なトンボたち。人間も自分より微細なものに関心がある。だが、当の人間はずっと複雑な生き物だ。身体という容器も成長にともない容貌を変え、服装や髪形も異なっていく。暮らす場所も変容する。ここ数年の間にビルも多くなった。飛行機も無数に飛び交い、地球を狭い場所にわざわざした。だが、それでも待ち合わせには相手はなかなかやってこないのだ。スピードを重視する社会なのに。
十八才の女性たちが五年という月日を経過した。きょうは意図しないのにふたりはばったりと再会してしまうことになる。わたしは主任というささやかな地位を与えられ、ひさびさに望遠鏡をのぞく。根っからの下っ端なのだ。こういう作業がいちばん楽しい。
みゆきという女性はあるお店で甘いコーヒーを飲んでいる。彼女は若き日のデートのことを思い出していたが、相手の名前は忘れてしまっている。そこでドアが開く。重い戸を押したのはさゆりという女性だった。わたしは若さというものに感激して直視することすら恥ずかしくなっている。だが、そんな気持ちでは業務にならないので、監視をつづける。東ドイツの熟練したスパイのように。
ふたりは目が合う。どこかで会ったことがあるひとだと理解したが、両者ともそれがいつで、どこでということをなかなか思い出せないでいた。
さゆりという女性もコーヒーを注文している。彼女のものは苦さが売りだった。彼女はここの常連であり、店員が名前を呼んだ拍子にみゆきという女性の顔がぱっと華やいだ。
「あ、あのときの?」
「ふたりは知り合い?」店員が間に入る。みゆきは母校の名前を告げる。ここから数時間、電車で北に向かうとある地域だ。
「あ、彼を取り合った」さゆりも合点して、納得する。この数年間を帳消しにして、あの過去のひとときのことをなつかしがった。
「物騒な間柄だね」ハンサムな店員は危険を察知するかのように奥にもどる。
ふたりはあれほど恋焦がれていた男性の名を思い出せないでいる。一瞬だけ険悪な気持ちになったが、それでも、地元の同年代に会ったことで、こころを綻ばせていく。
「この近くで働いているの?」近況を語り合うことがスタートだ。ふたりは業務内容を教える。わたしは報告書のページをめくる。どちらにも嘘はない。突然、虚構を間に挟むのを厭わないひともいる。見栄なのか、プライドなのか。あるがままの真実こそが美しいが、そう簡単にはいかないときもあるらしい。
「彼とは? 名前、なんだっけ?」みゆきはあっけらかんとしていた。「さゆりさんが本命だったのよね」
「あの日から、会っていない」
「ごめん」
「謝ることないよ、だいぶ、むかしの思い出だから」
わたしはあの日にふたりを遭遇させるというミスを注意され、謹慎になったのだ。わたしたちも未来のすべてを分かっているわけではない。業務をこなすだけでへとへとになり、大きな希望も、壮大な願いもなく、淡々と働いている末端の存在なのだ。
ふたりは電話番号を交換している。ふたつの手の平のうえの小さな機械のメモリーに名前と数字が貯えられる。その会社の株価はあがり、研究者と独創家は新たな発明を強いられる。コーヒー豆にも特許を。
人間は友情という美しいものをもっている。その萌芽がふたりにはあった。わたしという意識だけの存在の涙腺もゆるみだしている。わたしの失敗は容易く揉みつぶされる。
共通の時間と言語がふたりには介在して、隙をつくる。油断があるのが青少年の美しさであり、信頼こそがもっとも貴き美徳だった。疑念や裏切りは大人の領域だった。
わたしは木山くんという青年の更新された情報を入手しようとしたが、厳重に管理され手が届かなかった。わたしがもし見てしまったら、またミスを誘発してしまうかもしれない。何度か、その垣根を掻い潜ろうと苦労するも、不正なパスワードで引っ掛かり部屋のブザーがなる。優秀なる同僚が設定を変えてくれ、安全な状態にもどる。
ふたりは木山くんのその後のことなど知りたくない。だが、わたしには下司な興味がある。研修を繰り返しても高貴な存在になるのはなかなかむずかしい。わたしは机を離れ、ベルリンの壁の報告書を手にする。明日の朝まで交代の仲間がいる。夜勤の観察者。わたしは退出のハンコを押す。一度、なくしたらこっぴどく叱られた。統制とか管理がすすんだ世界はきびしいものだ。
わたしは部屋で人間と同じ気持ちで壁を破壊する。わたしは勇気と感動を追体験する。人間は、ときに素晴らしいものだ。欠点が完全に拭いきれないからこそ、美しくもなり得る。
二十代前半の美しい、輝ける女性たち。わたしは夢を見る。壁をこわして、低くなったものを跳び越える。いつの間にか、わたしも人間の姿となっている。目覚ましが鳴り、ゆっくりと起き直る。次の勤務のため、定かではないハンコを探す。
十年一日の如し。同じく天秤の両端にもある感想として、ときは走馬灯のように。
わたしは調査と観察をしている。虫かごでうごめく物体のようなものとして。輝ける蛍。小うるさいセミたち。優雅なトンボたち。人間も自分より微細なものに関心がある。だが、当の人間はずっと複雑な生き物だ。身体という容器も成長にともない容貌を変え、服装や髪形も異なっていく。暮らす場所も変容する。ここ数年の間にビルも多くなった。飛行機も無数に飛び交い、地球を狭い場所にわざわざした。だが、それでも待ち合わせには相手はなかなかやってこないのだ。スピードを重視する社会なのに。
十八才の女性たちが五年という月日を経過した。きょうは意図しないのにふたりはばったりと再会してしまうことになる。わたしは主任というささやかな地位を与えられ、ひさびさに望遠鏡をのぞく。根っからの下っ端なのだ。こういう作業がいちばん楽しい。
みゆきという女性はあるお店で甘いコーヒーを飲んでいる。彼女は若き日のデートのことを思い出していたが、相手の名前は忘れてしまっている。そこでドアが開く。重い戸を押したのはさゆりという女性だった。わたしは若さというものに感激して直視することすら恥ずかしくなっている。だが、そんな気持ちでは業務にならないので、監視をつづける。東ドイツの熟練したスパイのように。
ふたりは目が合う。どこかで会ったことがあるひとだと理解したが、両者ともそれがいつで、どこでということをなかなか思い出せないでいた。
さゆりという女性もコーヒーを注文している。彼女のものは苦さが売りだった。彼女はここの常連であり、店員が名前を呼んだ拍子にみゆきという女性の顔がぱっと華やいだ。
「あ、あのときの?」
「ふたりは知り合い?」店員が間に入る。みゆきは母校の名前を告げる。ここから数時間、電車で北に向かうとある地域だ。
「あ、彼を取り合った」さゆりも合点して、納得する。この数年間を帳消しにして、あの過去のひとときのことをなつかしがった。
「物騒な間柄だね」ハンサムな店員は危険を察知するかのように奥にもどる。
ふたりはあれほど恋焦がれていた男性の名を思い出せないでいる。一瞬だけ険悪な気持ちになったが、それでも、地元の同年代に会ったことで、こころを綻ばせていく。
「この近くで働いているの?」近況を語り合うことがスタートだ。ふたりは業務内容を教える。わたしは報告書のページをめくる。どちらにも嘘はない。突然、虚構を間に挟むのを厭わないひともいる。見栄なのか、プライドなのか。あるがままの真実こそが美しいが、そう簡単にはいかないときもあるらしい。
「彼とは? 名前、なんだっけ?」みゆきはあっけらかんとしていた。「さゆりさんが本命だったのよね」
「あの日から、会っていない」
「ごめん」
「謝ることないよ、だいぶ、むかしの思い出だから」
わたしはあの日にふたりを遭遇させるというミスを注意され、謹慎になったのだ。わたしたちも未来のすべてを分かっているわけではない。業務をこなすだけでへとへとになり、大きな希望も、壮大な願いもなく、淡々と働いている末端の存在なのだ。
ふたりは電話番号を交換している。ふたつの手の平のうえの小さな機械のメモリーに名前と数字が貯えられる。その会社の株価はあがり、研究者と独創家は新たな発明を強いられる。コーヒー豆にも特許を。
人間は友情という美しいものをもっている。その萌芽がふたりにはあった。わたしという意識だけの存在の涙腺もゆるみだしている。わたしの失敗は容易く揉みつぶされる。
共通の時間と言語がふたりには介在して、隙をつくる。油断があるのが青少年の美しさであり、信頼こそがもっとも貴き美徳だった。疑念や裏切りは大人の領域だった。
わたしは木山くんという青年の更新された情報を入手しようとしたが、厳重に管理され手が届かなかった。わたしがもし見てしまったら、またミスを誘発してしまうかもしれない。何度か、その垣根を掻い潜ろうと苦労するも、不正なパスワードで引っ掛かり部屋のブザーがなる。優秀なる同僚が設定を変えてくれ、安全な状態にもどる。
ふたりは木山くんのその後のことなど知りたくない。だが、わたしには下司な興味がある。研修を繰り返しても高貴な存在になるのはなかなかむずかしい。わたしは机を離れ、ベルリンの壁の報告書を手にする。明日の朝まで交代の仲間がいる。夜勤の観察者。わたしは退出のハンコを押す。一度、なくしたらこっぴどく叱られた。統制とか管理がすすんだ世界はきびしいものだ。
わたしは部屋で人間と同じ気持ちで壁を破壊する。わたしは勇気と感動を追体験する。人間は、ときに素晴らしいものだ。欠点が完全に拭いきれないからこそ、美しくもなり得る。
二十代前半の美しい、輝ける女性たち。わたしは夢を見る。壁をこわして、低くなったものを跳び越える。いつの間にか、わたしも人間の姿となっている。目覚ましが鳴り、ゆっくりと起き直る。次の勤務のため、定かではないハンコを探す。