老女は言った(2010.3.24日作)
その老女はわたしに言った
「相手の方が 宜しくお願いします
と言ったら
こちらこそ 宜しくお願いします
と答えるのです
相手の言葉をおうむ返しに ただ
宜しくお願いします
と同じ言葉を繰り返すだけでは
会話に深みも余韻も生まれて来ません」
その老女はわたしに言った
「注(そそ)ぐなどと言ってはいけません
お酒などは注(つ)ぐと言うのです
ビールを注(そそ)ぐ
お茶を注(そそ)ぐ
そんな言い方には
言葉に対する繊細さが まったく感じられません
大海に注(そそ)ぐ川
原野に降り注(そそ)ぐ雨
そそぐ という言葉の響きには
どこかに大きな景色があり
注(つ)ぐという言葉とは違って
別の響きが感じられて
ビールの味も お茶の味も濁って来ます」
その老女はテレビを観ていて言った
「あの政治家はやたらに
させて戴きます
なんて言ってるけど あれは本来
やります と言うべきなんです
政治家は国民一人一人に代わって
物事を実行するために選ばれたのです
それをやたらに
させて戴きます なんて言うのは
政治家としての自覚も 覚悟も 責任も
忘れているとしか思えません
政治家は させて戴きます と言う前に
やらなければならない立場にいる人間なんです」
その老女はわたしに言った
「そんなに語尾を上げて話をするものではありません
日本語には 語尾が小さく自然に消えてゆくところに
話し言葉としての美しさがあるのです
それをやたらに 「があ」とか「でえ」などと
語尾を持ち上げ 強調して言うのは
日本語が持つ 言葉の響きの美しさを
忘れているとしか思えません
そんな言い方は下手な演説家や
下品な煽動家などに任せておけばいいのです」
その老女は テレビの歌番組を観ていて言った
「なんで あの人は <か>を<クワ>と言ったり
さを<スア>と言ったり
崩れて 濁った言い方をするのかね
外国人の覚束ない日本語の言い方を真似して
それが格好がいいとでも思っているのかしら
あんな言葉の使い方をすると その人の教養が疑われるね
もっと教養のある大人たちが
どうして 直してやらないのかしら」
-----
言葉に対して妙にうるさかった老女は
もう いない 同時に
この国の言葉はますます乱れて
かつての日常会話の中にもあった
小津安二郎の映画や
川端康成などの文章に見られる
美しい言葉遣いは もはや幻となって
この国から失われてゆくだけのものなのか
日々 変転 時代の移り変わりと共に
言葉もまた 変わりゆくのが
言葉の持つ宿命なのだ と言って
済まされるものなのだろうか?
その老女はわたしに言った
「相手の方が 宜しくお願いします
と言ったら
こちらこそ 宜しくお願いします
と答えるのです
相手の言葉をおうむ返しに ただ
宜しくお願いします
と同じ言葉を繰り返すだけでは
会話に深みも余韻も生まれて来ません」
その老女はわたしに言った
「注(そそ)ぐなどと言ってはいけません
お酒などは注(つ)ぐと言うのです
ビールを注(そそ)ぐ
お茶を注(そそ)ぐ
そんな言い方には
言葉に対する繊細さが まったく感じられません
大海に注(そそ)ぐ川
原野に降り注(そそ)ぐ雨
そそぐ という言葉の響きには
どこかに大きな景色があり
注(つ)ぐという言葉とは違って
別の響きが感じられて
ビールの味も お茶の味も濁って来ます」
その老女はテレビを観ていて言った
「あの政治家はやたらに
させて戴きます
なんて言ってるけど あれは本来
やります と言うべきなんです
政治家は国民一人一人に代わって
物事を実行するために選ばれたのです
それをやたらに
させて戴きます なんて言うのは
政治家としての自覚も 覚悟も 責任も
忘れているとしか思えません
政治家は させて戴きます と言う前に
やらなければならない立場にいる人間なんです」
その老女はわたしに言った
「そんなに語尾を上げて話をするものではありません
日本語には 語尾が小さく自然に消えてゆくところに
話し言葉としての美しさがあるのです
それをやたらに 「があ」とか「でえ」などと
語尾を持ち上げ 強調して言うのは
日本語が持つ 言葉の響きの美しさを
忘れているとしか思えません
そんな言い方は下手な演説家や
下品な煽動家などに任せておけばいいのです」
その老女は テレビの歌番組を観ていて言った
「なんで あの人は <か>を<クワ>と言ったり
さを<スア>と言ったり
崩れて 濁った言い方をするのかね
外国人の覚束ない日本語の言い方を真似して
それが格好がいいとでも思っているのかしら
あんな言葉の使い方をすると その人の教養が疑われるね
もっと教養のある大人たちが
どうして 直してやらないのかしら」
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言葉に対して妙にうるさかった老女は
もう いない 同時に
この国の言葉はますます乱れて
かつての日常会話の中にもあった
小津安二郎の映画や
川端康成などの文章に見られる
美しい言葉遣いは もはや幻となって
この国から失われてゆくだけのものなのか
日々 変転 時代の移り変わりと共に
言葉もまた 変わりゆくのが
言葉の持つ宿命なのだ と言って
済まされるものなのだろうか?