人はなぜ 人を殺してはいけないのか(2011.1.25日作)
-殺人に関する三つの観点ー
すでに大分以前のことになるが
テレビの深夜番組で 中学生だか高校生だかに
人はなぜ 人を殺してはいけないのか と問われ
居並ぶコメンテーターの誰もが 明快に答えられなかった
という事で 話題になった事がある しかし
この問い掛けには次の三つの観点から答える事が出来る
Ⅰ 権利論的観点
生き物はすべて 生きる権利を持つ
あの命も一つなら この命も一つ
この世に生まれた限りに於いて 命はすべて平等だ
俺にはこの世を生きる権利があるが
あいつにはない などとは 誰にも言えない
わたしにこの世を生きる権利があるのなら
あの人にも生きる権利がある
あいつは気に食わないから殺してしまえ
もし そう思っているあなたがいて
その殺人を正当化するのなら
そう思っているあなた自身
あいつは気に食わないから殺してしまえ
そう思われ 殺されても仕方がない
という事になる
人は そんな事の連鎖を防ぐために
法律を作り 人を殺す行為を
防止しようとして来たのではないか
人は人であり この世界に生きる限りに於いて
その法律を守り 従うのは
当然の義務であり 従って
人は人を殺してはならない
という事になる
Ⅱ 道徳論的観点
しかし 人は究極 何かを殺さなければ
生きては行けない
世の中の生き物すべてには生きる権利がある・・・・
だからといって人が 動物 植物 あるいは他の
すべての生き物の命を絶つ事をためらうのなら
人自身が生きてはゆけない
人は自身が生きるために 他の生き物の命を絶つ
人に限らず 生きる物すべては
他者の命を犠牲にしなければ
自身が生きてはゆけない そして
それを自覚出来るのは この世界で
人間しかいないであろうし それが人間 人の
知的生物としての証しであり
それを自覚出来る人間は せめて
自身と同じ種に属す人を殺す事だけは
避けなければならない それでなくても人は
他の多くの生き物の命の犠牲の上に生きている
生き物なのだ
Ⅲ 存在論的観点
そうして人が生きるとい事は
自身一人ではどうにもならない とい事だ
人は一人では生きられない
他者がいて始めて 自身の生が可能になる
他者無くして自己はない 自己があるとい事は
最小限 二人の人間 その存在を
必要とするという事だ さらにまた
二人の人間はそれぞれに 二人の人間
その存在を必要とする この人間社会は
そんな連鎖の中で 始めて可能になる
連鎖が途絶えた時 人の社会は崩壊する
人の社会の崩壊
人を殺すとい行為は
崩壊への道を自ら歩む行為であり
人の社会が崩壊してもかまわない
もし そう考える人間がいるとしたら それは
そう考える人間の勝手な思い込みであり
そう考える人間の 傲慢さ以外のなにものでもない
他者にその考えを強いる権利など 誰にもない
自己は他者ではない
人はそれぞれに独立した存在
他者になり得るなど
誰にも出来ない
他者に自己の考えを強制する事など
誰にも出来ない