記憶 東京大空襲(2009.7.21日作)
わたしと弟 妹と母は ラジオの空襲警報発令と共に
四畳半の部屋の床下に掘られた防空壕に入った
東京 深川区福住町での事だ
隣り組の班長をしていた父は 町内の様子を見るために外に出ていた
昭和二十年 一九四五年三月十日未明
わたしが国民学校へ入学するその年 東京 本所 深川方面は
アメリカ軍 B29による空襲で 火の海と化した
母は父が戻るまでの間 わたしたち三人を抱え
防空壕を出る事も出来ずにいた
ようやく父が戻って来た
じりじりと焦る心が焼き尽くされるような長い時間だった
「近所の人たちはどうしたの?」
母は急き込んで父に聞いた
「みんな避難した」
近所の人たちを誘導していた父は言った
「それじゃあ わたしたちもこんな所にいないで 早く逃げようよ」
母に促されて わたしたち三人は防空壕を出た
急いで寝巻きの上に服を着て 外へ出た
その時すでに 火の勢いは三 四軒先の隣りまで来ていたーー
「あのまま 防空壕を出ないでいたら わたしたちは今頃
丸焦げになっていたよ」
母は あの時を思い出すたびに言った
わたしたち一家は 火の手が迫って来るのとは反対側の大通りへ逃げた
母が妹を背負い 父がわたしと弟の手を引いていた
すでに 家を焼かれた大勢の人たちが まだ燃えていない
倉庫群の建ち並ぶ川岸の方へ走っていた
無数の焼夷弾がその間にも わたしたちの背後で
暗黒の夜空を明るく照らし出しながら
火の海と化した街の上に落下していた
川に架かった橋を渡ると 暗い大きな倉庫の中に逃げ込んだ
大勢の人たちで中はいっぱいだった 後にして来た街の燃える様子が
暗い水面に赤く映って揺れていた
程なくして誰かが
「ここも危ない」
と言い出した
「学校へ逃げたらどうかしら」
他の誰かが言った
「あっちへは大勢の人が逃げていて 学校へは入れない」
その方面から来た人が言った
火の手は対岸の街を焼き尽くそうとしていた
みんなが新たな避難所を求めて倉庫を出た
直後に 倉庫は火の海に包まれた
「もう燃えてしまった跡へ逃げれば狙われない」
誰かが言った
みんなが追いかけて来る火の中を逃げ惑いながら
安全な場所を求めて右往左往していた
-----
ようやく空襲警報解除の知らせを聞いた時には 何処かの街の
焼け跡に残った映画館の中の暗闇に 大勢の人たちと一緒にいた
外へ出た時には まだ太陽の昇らない朝になっていた
街は一面の焼け野原に変わっていた
黒焦げになった家々の残骸が まだ 煙りを立ち上らせながら散乱していた
わたしたち一家は 大勢の人たちに混じって
コンクリートの建物の破片だけが残る一隅に身を寄せた
隣り組の親しくしていた三軒の家の人たちとも そこで顔を合わせた
父や母は その人たちと一緒にわが家の様子を見に行った
家は跡形もなく焼き尽くされていた
日頃 弟が乗っていた赤い三輪車だけがポツンと一台
共同水道のそばの焼け跡に残っていた
「まったく不思議だね なにもかもが灰になってしまった中で
あの三輪車だけが 焦げ跡一つなく無事に残っていたんだからね」
後年 母はそんな驚きの言葉を何度も口にした
わが家の焼け跡から戻った母たちは 何かの容器に入れた
幾つものオニギリを手にしていた
「ゆうべ お米をといで釜に入れておいたら
こんなにふっくらと炊けていたのよ」
そのオニギリを口にした母たちはだが すぐに吐き出してしまった
「焦げ臭くて食べられないわ」
残った幾つものオニギリを捨てようとした時
「それ戴けませんか」
と そばにいた知らない人たちが 疲れ切った顔で言って来た
母たちは全部を何人もの人たちにあげてしまった
焼け跡に朝日が昇った
「すぐそこの道路に 黒焦げになった人の死骸がある」
そんな話が広がった
母たちは見に行った
子供たちは行くのを止められた
次第次第に昨夜の情報が入って来た
「学校へ逃げた人たちは全員が焼け死んだ
屋上には 大勢の人たちが折り重なって死んでいる」
「わたしたちは 学校へ入れなくてよかったんだね」
母たちは安堵の思いを滲ませながら話し合った
その日のうちに わたしたち一家は 三軒の家の人たちと一緒に
焼け跡に奇跡のように残っていた 一軒の二階家を見つけて移り住んだ
父たちは 当面の生活道具を揃えるために 焼け跡の倉庫街へ足を運んだ
食器類(今でもわたしは その食器の一つを使っている)炊事道具 布団
大きな袋に入った米などを
焼け跡を掘り返して探し出して来た
それでも そのまま焼け跡での生活が続けられるはずはなかった
街の機能は消滅していた
それぞれの家族が故郷や親戚を頼って
その家を出て行った
わたしたち一家が最後に残された
母の実家へ帰るための 汽車が不通のためだった
一週間が過ぎて ようやくわたしたちも
九十九里の海に近い 祖母が一人で住んでいる
母の実家へ帰る事が出来た
-----
戦争は その年の八月十五日に終わった
わたしは四月に千葉県匝瑳(そうさ)郡白浜村国民学校に入学した
空襲がなければ 東京の深川で入学式を迎えていたはずだった
三月九日 わたしはその日まで祖母と二人で 白浜村に暮らしていた
学校へ入学する準備のために母は 親しくしていた三軒の家の人たちを伴って
わざわざ わたしを迎えに来たのだった
空襲はそうして わたしが東京へ戻ったその日の夜
明け方に起こった
わたしは母が入学式のために買い揃えて置いた 真新しい靴も履かずに
父の手造りの粗末な下駄を履いて逃げた
「入学式のためにと思って買い揃えて置いた 新しい靴を履かないで
選りに選って 手造りの粗末な下駄を履いて逃げたんだからねえ」
母は後年 その夜の自分たちの慌てふためきぶりを自嘲して よく言った
「わざわざ迎えに行って その夜のうちに空襲にあうなんて
運が悪いっていうか なんていうか」
母たちはその日 東京では物資も乏しいだろうから と言って
祖母が持たしてくれた 祖母が蓄えて置いた食料品の粗方を
持って来てしまっていた
「焼くために おばあさんが大事に取って置いた物を
わざわざ持って来たようななものだよ」
母の嘆きは後年 長く続いた
そんな祖母は 一週間になると言うのになんの連絡もない
わたしたち一家の無事を諦めかけていた
「こんなに日にちが経っても あんの連絡もねえところをみると
はあ 焼け死んでしまったんでしょうよ」
近所の人たちから 本所 深川方面の空襲の様子を聞かされていた祖母は
そう言っていた という
-----
わたしたち一家が帰った日 祖母は
門を出た横の 槙の木の塀に沿った小道で
近所の人と話しをしていた
わたしが父や母より先に 走って
「ばあちゃん」
と叫びながら近付いて行くと 祖母は
驚きの表情でわたしを見て 息を呑んだ
それからようやく
「おお けえって来たか」
と言って 走り寄るわたしを抱きしめた
それはわたしの脳裡に深く刻まれて
消える事のない光景となった
-----
昭和二十年 一九四五年 三月十日未明 東京大空襲
死者おおよそ十万人
そんな状況下 誰一人怪我をする事もなく無事
生き延びる事の出来たわたしたち一家には いったい
何があったのか?
一夜のうちに人の生死を分け 隔てたものはなんであったのか
人の力では計り知れないもの もし それが神の力によるものだとしたら
神は何処で 人間の幸不幸 運不運を選別するのだろう?
-----
神など存在しない 全知全能の神など 何処にもいない
人それぞれが持つ運命 それだけが人の命を左右するもの
それのみが真実 それのみが真理 多分 人はそう信じて
人それぞれが持つ運命 その運命を精一杯生きる事より外に
出来る事はないのではないか
人それぞれが持つ運命 命こそが この世では
最も貴重なものであり 至上のものであるのに違いないのだから
わたしと弟 妹と母は ラジオの空襲警報発令と共に
四畳半の部屋の床下に掘られた防空壕に入った
東京 深川区福住町での事だ
隣り組の班長をしていた父は 町内の様子を見るために外に出ていた
昭和二十年 一九四五年三月十日未明
わたしが国民学校へ入学するその年 東京 本所 深川方面は
アメリカ軍 B29による空襲で 火の海と化した
母は父が戻るまでの間 わたしたち三人を抱え
防空壕を出る事も出来ずにいた
ようやく父が戻って来た
じりじりと焦る心が焼き尽くされるような長い時間だった
「近所の人たちはどうしたの?」
母は急き込んで父に聞いた
「みんな避難した」
近所の人たちを誘導していた父は言った
「それじゃあ わたしたちもこんな所にいないで 早く逃げようよ」
母に促されて わたしたち三人は防空壕を出た
急いで寝巻きの上に服を着て 外へ出た
その時すでに 火の勢いは三 四軒先の隣りまで来ていたーー
「あのまま 防空壕を出ないでいたら わたしたちは今頃
丸焦げになっていたよ」
母は あの時を思い出すたびに言った
わたしたち一家は 火の手が迫って来るのとは反対側の大通りへ逃げた
母が妹を背負い 父がわたしと弟の手を引いていた
すでに 家を焼かれた大勢の人たちが まだ燃えていない
倉庫群の建ち並ぶ川岸の方へ走っていた
無数の焼夷弾がその間にも わたしたちの背後で
暗黒の夜空を明るく照らし出しながら
火の海と化した街の上に落下していた
川に架かった橋を渡ると 暗い大きな倉庫の中に逃げ込んだ
大勢の人たちで中はいっぱいだった 後にして来た街の燃える様子が
暗い水面に赤く映って揺れていた
程なくして誰かが
「ここも危ない」
と言い出した
「学校へ逃げたらどうかしら」
他の誰かが言った
「あっちへは大勢の人が逃げていて 学校へは入れない」
その方面から来た人が言った
火の手は対岸の街を焼き尽くそうとしていた
みんなが新たな避難所を求めて倉庫を出た
直後に 倉庫は火の海に包まれた
「もう燃えてしまった跡へ逃げれば狙われない」
誰かが言った
みんなが追いかけて来る火の中を逃げ惑いながら
安全な場所を求めて右往左往していた
-----
ようやく空襲警報解除の知らせを聞いた時には 何処かの街の
焼け跡に残った映画館の中の暗闇に 大勢の人たちと一緒にいた
外へ出た時には まだ太陽の昇らない朝になっていた
街は一面の焼け野原に変わっていた
黒焦げになった家々の残骸が まだ 煙りを立ち上らせながら散乱していた
わたしたち一家は 大勢の人たちに混じって
コンクリートの建物の破片だけが残る一隅に身を寄せた
隣り組の親しくしていた三軒の家の人たちとも そこで顔を合わせた
父や母は その人たちと一緒にわが家の様子を見に行った
家は跡形もなく焼き尽くされていた
日頃 弟が乗っていた赤い三輪車だけがポツンと一台
共同水道のそばの焼け跡に残っていた
「まったく不思議だね なにもかもが灰になってしまった中で
あの三輪車だけが 焦げ跡一つなく無事に残っていたんだからね」
後年 母はそんな驚きの言葉を何度も口にした
わが家の焼け跡から戻った母たちは 何かの容器に入れた
幾つものオニギリを手にしていた
「ゆうべ お米をといで釜に入れておいたら
こんなにふっくらと炊けていたのよ」
そのオニギリを口にした母たちはだが すぐに吐き出してしまった
「焦げ臭くて食べられないわ」
残った幾つものオニギリを捨てようとした時
「それ戴けませんか」
と そばにいた知らない人たちが 疲れ切った顔で言って来た
母たちは全部を何人もの人たちにあげてしまった
焼け跡に朝日が昇った
「すぐそこの道路に 黒焦げになった人の死骸がある」
そんな話が広がった
母たちは見に行った
子供たちは行くのを止められた
次第次第に昨夜の情報が入って来た
「学校へ逃げた人たちは全員が焼け死んだ
屋上には 大勢の人たちが折り重なって死んでいる」
「わたしたちは 学校へ入れなくてよかったんだね」
母たちは安堵の思いを滲ませながら話し合った
その日のうちに わたしたち一家は 三軒の家の人たちと一緒に
焼け跡に奇跡のように残っていた 一軒の二階家を見つけて移り住んだ
父たちは 当面の生活道具を揃えるために 焼け跡の倉庫街へ足を運んだ
食器類(今でもわたしは その食器の一つを使っている)炊事道具 布団
大きな袋に入った米などを
焼け跡を掘り返して探し出して来た
それでも そのまま焼け跡での生活が続けられるはずはなかった
街の機能は消滅していた
それぞれの家族が故郷や親戚を頼って
その家を出て行った
わたしたち一家が最後に残された
母の実家へ帰るための 汽車が不通のためだった
一週間が過ぎて ようやくわたしたちも
九十九里の海に近い 祖母が一人で住んでいる
母の実家へ帰る事が出来た
-----
戦争は その年の八月十五日に終わった
わたしは四月に千葉県匝瑳(そうさ)郡白浜村国民学校に入学した
空襲がなければ 東京の深川で入学式を迎えていたはずだった
三月九日 わたしはその日まで祖母と二人で 白浜村に暮らしていた
学校へ入学する準備のために母は 親しくしていた三軒の家の人たちを伴って
わざわざ わたしを迎えに来たのだった
空襲はそうして わたしが東京へ戻ったその日の夜
明け方に起こった
わたしは母が入学式のために買い揃えて置いた 真新しい靴も履かずに
父の手造りの粗末な下駄を履いて逃げた
「入学式のためにと思って買い揃えて置いた 新しい靴を履かないで
選りに選って 手造りの粗末な下駄を履いて逃げたんだからねえ」
母は後年 その夜の自分たちの慌てふためきぶりを自嘲して よく言った
「わざわざ迎えに行って その夜のうちに空襲にあうなんて
運が悪いっていうか なんていうか」
母たちはその日 東京では物資も乏しいだろうから と言って
祖母が持たしてくれた 祖母が蓄えて置いた食料品の粗方を
持って来てしまっていた
「焼くために おばあさんが大事に取って置いた物を
わざわざ持って来たようななものだよ」
母の嘆きは後年 長く続いた
そんな祖母は 一週間になると言うのになんの連絡もない
わたしたち一家の無事を諦めかけていた
「こんなに日にちが経っても あんの連絡もねえところをみると
はあ 焼け死んでしまったんでしょうよ」
近所の人たちから 本所 深川方面の空襲の様子を聞かされていた祖母は
そう言っていた という
-----
わたしたち一家が帰った日 祖母は
門を出た横の 槙の木の塀に沿った小道で
近所の人と話しをしていた
わたしが父や母より先に 走って
「ばあちゃん」
と叫びながら近付いて行くと 祖母は
驚きの表情でわたしを見て 息を呑んだ
それからようやく
「おお けえって来たか」
と言って 走り寄るわたしを抱きしめた
それはわたしの脳裡に深く刻まれて
消える事のない光景となった
-----
昭和二十年 一九四五年 三月十日未明 東京大空襲
死者おおよそ十万人
そんな状況下 誰一人怪我をする事もなく無事
生き延びる事の出来たわたしたち一家には いったい
何があったのか?
一夜のうちに人の生死を分け 隔てたものはなんであったのか
人の力では計り知れないもの もし それが神の力によるものだとしたら
神は何処で 人間の幸不幸 運不運を選別するのだろう?
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神など存在しない 全知全能の神など 何処にもいない
人それぞれが持つ運命 それだけが人の命を左右するもの
それのみが真実 それのみが真理 多分 人はそう信じて
人それぞれが持つ運命 その運命を精一杯生きる事より外に
出来る事はないのではないか
人それぞれが持つ運命 命こそが この世では
最も貴重なものであり 至上のものであるのに違いないのだから