十二代目 団十郎の死(2013.2.8日作)
松竹は今年一月十四日市川海老蔵さんが
2020年五月に十三代目市川団十郎を襲名すると
発表しました。この文章は十二代目が亡くなって
間もなくに書いたものです
歌舞伎の世界にとって わたしは
最良の観客とは言えない
特別の誰彼の贔屓を持つわけでもない
何かと理屈を付けて外出も控える昨今
劇場に足を運ぶ機会も ほとんどない
それでも時おり 眼にする
テレビの画面での芝居や舞踊に
ふと 魅せられ 眼を向ける好奇の心は
まだ 失っていない
そんなわたしに於いても
記憶に新しい十八代目
中村勘三郎の訃報に続く
平成二十五年(2013)二月三日午後九時五十八分逝去
十二代目 市川団十郎の訃報には 一瞬 息を呑み
歌舞伎の世界での心柱 一本の
太い柱の失われた喪失感を
瞬時に感じ取らざるを得なかった
かねてからの難病を危惧する思いの 常に
意識の中から消える事のなかった事実は存在したにせよ
逞しくそこに立ち向かい いささかも
脆弱さ ひ弱さを見せる事のなかった
見事な舞台姿
成田屋十八番の荒事に於ける
天性 身に備わった役者としての骨格
実在感と共に この失われた太い柱
それに代わり得る役者の姿の今現在
眼に見えて来ない闇 暗黒の空間
その心柱の失われた瞬間と共に生じた
深い闇の空間を かつて存在した
心柱の持つ堅固な実在感とまったく違わない感覚の
深い喪失感を今 心の痛みと一緒に
感じ取っている
夜明けが一番哀しい(9)
「画伯が乗って行っちゃったのかしら?」
「ピンキー、あんた、車どこへやったの?」
トン子は聞いた。
ピンキーは寒そうに背中を丸めながら、
「知らねえよ」
と、ボソボソした声で呟いた。
ようやく辺りには、夜明けの仄明るさが漂い始めて来た。開港記念公園に突き当たる一直線の道もはっきりと見通せた。
「チェッ、画伯の野郎が乗って行っちゃったんだよ、きっと。あいつ、なんの心算なんだろう」
ノッポが悔しそうに言った。
「気が狂っちゃったんじゃないの」
安子が答えた。
「そうかも知れないなあ。アンパンで頭がおかしくなっちゃったんだよ、きっと」
ノッポが言った。
「どうしょう、どうやって帰るの ? フー子、あんたお金持ってる?」
トン子が泣き出しそうな声になって聞いた。
「あるわ」
フー子は小さな声で言うと、早速、尻ポケットからクチャクチャになった千円札を何枚か掴み出した。
「ありがとう、これだけあれば、みんな電車で帰れるわ」
「だけど、まだ、電車なんか動いてないよ」
ノッポが言った。
「動いてるわよ、もう」
東京駅のキヨスクで働いている安子が言った。
「今、何時 ?」
トン子がノッポに聞いた。
「五時ちょっと 前だ」
「じゃあ、もう動いてるわよ。わたしが新宿駅からいつも帰るのは四時過ぎなんだから」
トン子が夜明けの一番電車で帰る時の時刻を基準にして言った。
「だけど俺、腹へっちゃったよ。何か食いに行こうよ。それだけあれば、何か食えるだろう?」
ノッポがトン子の手に握られた数枚の千円札を見て意地汚く言った。
「それこそ、食べ物屋なんかまだ開いてないわよ」
安子が言った。
「山下公園の方へ行けば、なんかあるんじゃない ?」
トン子が言った。
「屋台ならともかく、店が開いてるわけないでしょ。こんな時刻にさあ」
安子はトン子をやり込めろように突堅貪に言った。
「ホテルのスナックなんかやってない ?」
トン子は言った。
「あたしたちみたいなのがホテルに入って行ったら、追い出されるに決まってるわよ」
安子は言った。
山下公園通りへ曲がる反対側の角に、数件の飲食店の看板が見えたが、どの店もドアを閉ざしたままだった。
「みんな、まだ開いてないね」
トン子が疲れた声で言った。
誰も答えなかった。
公園通りへ入ると、右手には豪華なビルやホテルが軒を連ねていた。
ホテルの前には何台かのタクシーが停車していた。どのタクシーも運転手が仮眠を取っているのか、顔が見えなかった。
五人はすっかり葉を落としたイチョウ並木の公園通りを、当てもないままに歩いて行った。
公園入り口まで来た時、彼等は奇妙な光景を眼にした。
一匹のさして大きくはない茶色の中型犬が、公園入り口の舗道で直径一メートル程の円を描きながら、しきりにぐるぐる廻っていた。
「なに、あの犬。あんな所でなにやってんの ?」
安子が言って、みんなの注意をそこに向けた。
犬は一心不乱といった様子で、同じ場所をただ、ぐるぐる廻っていた。思い詰めたような、何かに取り憑かれでもしたかのような犬の行動は、その一途さゆえに不気味でさえあった。五人は自ずと足を止めて見入っていた。
犬はやがて五人に気付くと、ふと立ち止まって顔を上げ、彼等を見詰めていた。しばらくそうして見詰めていたが、あとは何事もなかったかのように何食わぬ顔で、すたすたと車道を横切り、ビルの陰に消えて行ってしまった。
「なに、あの犬、バカみたい」
トン子が可笑しそうに言った。
「頭がおかしいんじゃないのかい ?」
ノッポが言った。
「犬にも気の違った犬ってあるのかしら ?」
トン子が言った。
「気違い犬か ?」
ノッポが可笑しそうに笑った。
「狂犬病ってのがあるだう」
ピンキーが唐突に口を挟んだ。
「あれは気が違うって言うのとは別でしょう」
安子が言った。
「犬のそんな専門病院なんかがあったら、面白いだろうな。ワンワン、わたしはアンパンにラりッて、頭がおかしくなりました。何処かいい病院を知りませんか、なんてさ」
ノッポが犬の格好を真似て言った。
フー子はいつの間にかいなくなっていた。
他の四人はその事に気付きもしなかった。犬の話しに夢中になっていた。
少し行って彼等は更に、別の異様な光景に息を呑んでいた。
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