遺す言葉

つぶやき日記

遺す言葉 247 新宿物語(4) ナイフ 他 時間

2019-06-16 13:46:08 | 日記

          時間(2019.6.3日作)

 

   待つ時間は長い

   保ちたい時間は短い

   歳と共に時間は速く過ぎて逝く

   その感覚

   大きくなったら

   あれもしたい これもしたい

   大人になるのを待つ時間

   子供の時間は過ぎる速度が

   遅い

   見晴らしの良い峠を脳裡に

   苦難の道を歩くのにも似た時間

   だが

   峠を登り切り

   人生全般を視界に収め得た時

   待つもの 期待するものは無くなり

   終わりの時間だけが見えて来る

   峠を下るのにも似た時間

   峠を下り切る時間を回避し

   "今"を保ちたい一日一日の時間は

   瞬く間に過ぎて逝く

 

 

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 (2) ナイフ

 

          2

 

 

 良次が少年院送りの処分を受けた直接の原因は、義父を刺した事にあった。母と義父と暮らすようになってから一年と少しののちだった。良次が十四歳の時だった。

 良次は今でも思い出す事が出来た。母より一つ年下で、当時、三十五歳だった義父は、明らかに良次を嫌っていた。

 母が義父と再婚したのは、三年前だった。その時、良次は養護施設にいた。良次の中学進学を迎えて母は、良次を引き取る決心をした。

 義父は郵便局に勤める、小心で神経質な男だった。池袋のキャバレーで働いていた母と知り合い、一緒に暮らすようになった。結婚の遅れた義父は、内縁関係とはいいながら、母との生活を大切にした。

 母にとっても、良次が八歳の時に離婚して以来の家庭生活を大事にしたいという思いが強かった。年齢的にもこれが最後かも知れないという気持ちが母を卑屈にした。良次はこれ程までに自分を嫌う義父が、なぜ母の申し出に賛成したのか、不思議に思った。

 良次は母の最初の離婚と共に、母方の祖父母の家に預けられ、以来、心の奥でいつも母の愛情を求め、飢えていた。

 祖父母の家は沼津にあった。離婚した母は東京の夜の世界で働き、十日に一度の割合で良次のいる祖父母の家へ戻って来た。

 良次は母が東京へ出て行く度に、別れが哀しくて幼い心を荒ませた。

 良次は次第に、年老いた祖父母の手には負えなくなっていた。母が東京へ行ったあと、二日も三日も黙ったまま、口を開こうともしなかった。祖父母が勧める食事にも手を付けないで、盗み食いをしたり、よその家のものに手を出したりしていた。                    

 九歳の時に空腹から、近所の店のアンパンを盗んで見つかった。その夜、祖父に厳しく咎められると良次は刃向かい、取り押さえようとした祖父の手に噛み付き、怪我をさせて家を飛び出した。

 二日目の夕方、空腹を抱えたまま、沼津駅のベンチにいる所を補導された。

 祖父母は良次の引取りを拒んだ。

 東京にいる母が呼び寄せられ、事情が伝えられた。

 母にはだが、東京での、馴れない夜の仕事をしながら、良次を養育してゆくだけの自信が持てなかった。自分が生きて行くだけで精一杯だった。

 良次は養護施設に入る事になった。

「ごめんね。お母ちゃん、きっと、近いうちに迎えに行くからね。それまで我慢していてね」

 母は良次を抱き締め、頬ずりしながら言った。

 良次はなぜか、母が憎めなかった。幼い心にも母が可哀想に思えて、そんな風に思う自分がまた、悲しくもあった。

 良次は養護施設でも心を閉ざしたまま、口を開かなかった。他人のものに手を付ける事だけはしなかったが、誰とも打ち解けなかった。ひたすら母の言葉を信じ、母が迎えに来る日を待っていた。

 良次を迎えに来た母から新しい父の事を聞かされた時には、よく事情が飲み込めなかった。

 その夜、初めて夕食の席で義父と向き合ってようやく理解した。

 母との新しい暮らしを前に、良次の心は冷えていた。自分のものとばかり思っていた母との間に障害物が入って来ていた。

 良次はその時も口を噤んだまま、一言も発しなかった。うつむき加減に頑なに黙っていた。

「良ちゃんの新しいお父さんだよ。ほら、挨拶して」

 母は懸命に取り成した。

 良次はだが、母に言われれば言われるほど、頑なに悲しみを募らせるかりだった。

 義父は気まずそうに、不機嫌な顔で良次を見つめた。

 

 

 良次は義父を憎んだ。義父は良次と母の間に割り込んで来た邪魔者だった。

「あんなひねくれ者じゃあ、こっちが参っちゃうよ」

 義父が事あるごとに母に不満をぶちまけるのを良次は知っていた。

 良次はそれでも義父に心を開く事はなかった。義父が良次を嫌えば嫌う程に義父を憎んだ。

「そんな事言わないでよ。そのうちにきっと、打ち解けるからさ。まだ、馴れないだけなのよ」

 母は義父の居丈高な言葉の前でいつもおろおろしていた。何かに付けて母が義父に気を使っている事が幼い良次にもはっきり分かった。

「良次はお義父さんにもっと素直にならなければ駄目よ。これからずっと、一緒に暮らしてゆくんだから」

 母は義父のいないところで良次を諭して言った。

 良次はそれでも、母を憎む事は出来なかった。母と自分に要らぬ苦しみをもたらして来る義父だけを憎んだ。

 母はキャバレー勤めを止めなかった。自分が働き、稼ぐ事で、良次を抱えた負い目を少しでも償おうとしているかのようだった。

 

 

 良次が義父を刺した時、母は良次の発熱で看病に明け暮れ、三日、キャバレーを休んだ。

 その夜、義父は酔って帰ると、

「今夜もまた、お休みか。おまえの一人息子だ、せいぜい大事にしてやれよ」

 と、厭味を言った。

 母は黙っていた。

「くそ面白くもない。何もかもが滅茶苦茶だ。俺もえらい荷物を背負い込んだもんだ」

 義父は畳の上に転がると言った。

「そんな意地の悪い事を言わないでよ。この子が病気なんだもの、仕方がないでしょう」

 母は半分泣きながら抗議した。

「俺には関係ないよ。おまえの息子なんだから、おまえ一人で面倒みろよ」

 義父はそう言うと、寝返りを打って背中を向けた。

 酔った義父はそのまま鼾をかいて寝入った。

 母は暫くは放心したように座り込んでいたが、気を取り直すと、

「あんた、あんた。こんな所に寝ていたら風邪を引くわよ」

 義父をゆり起こした。

「うるさいな。大きなお世話じゃねえか。風邪ならとっくに坊主に移されているよ」

 義父は乱暴に母を突き飛ばした。

 母はそれ以上、言わなかった。ただ、泣いていた。

 布団の中で薄目を開けて一部始終を見ていた良次は、その夜、母と義父が寝静まった頃合を見計らうと、台所へ行った。

 薄刃包丁を手にすると、寝静まっている義父に馬乗りになって、顔から喉元にかけて滅多切りにしていた。

 

 義父の傷は生命に係わるものではなかった。

 だが、七箇所に及ぶ切り傷は家庭裁判所に於ける良次の印象を一際、悪いものにしていた。義父の狡知にたけた申し立てで、良次は手に負えない家庭内暴力少年として少年院へ送られた。

 母が亡くなったのは、良次が少年院に入って十一ヶ月目の事であった。義父との不和によるアル中で、マンションの二階から転落死したのだった。

 葬儀の日、良次は少年院の係官の監視の下、母の遺骸を見送った。

 良次は泣きながら母を呼び続け、棺の傍を離れなかった。棺の中には母の生前の姿が鮮やかに、母への様々な記憶と共に息づいていた。