遺す言葉

つぶやき日記

遺す言葉 249 新宿物語4 ナイフ 他 ガラスの天井

2019-06-30 15:35:47 | つぶやき
          ガラスの天井(2019.6.25日作)

   眼には見えない ガラスの天井
   この言い訳で
   自身の力の無さを 他人のせいにするな
   そこに及ばなかったのには
   及ばなかった 理由 訳がある はずだ
   その理由 訳の解明も せず
   安易な風潮 安易な俗説に流されている限り
   ガラスの天井は 破り得ない
   ガラスの天井は 永遠に 存在し 続ける
   一つの事 一つの仕事を成し遂げる 道に
   安易な道など 有り得ない
   すべてを引き受ける すべてを
   自分の責任として 受け入れる
   その覚悟なくして
   新たな道など
   開けるはずがない 開けない
   一つの事 など 成し得ない
   ガラスの天井 など
   破り得ない


     ----------

 (4)

       4

 良次はその朝、いつものように新宿駅で電車を降りると、歌舞伎町へ足を延ばした。一昨日、昨日と、何度か食事をした二十四時間営業の牛丼屋で朝食の牛丼をかき込んだ。そのあと、当ても無く街の中を歩いた。心の中が妙に空っぽで乾いていた。何をしたらいいのか、よく分からなかった。
 良次が歩いて行く午前九時前の歌舞伎町には、昨夜の熱気はなかった。ネオンサインと夜の闇に埋もれていた街が、汚れた絵看板や煤けた暖簾などの醜い顔をあからさまに朝の光りの中に晒していた。
 良次はシャッターを降ろしたままの建物が目立つ通りを、所在のないままに歩いて行った。デパートへでも行ってみようかと考えた。
 靖国通りを横切り、路地の間を抜けて行ったデパートは、まだ開いていなかった。閉ざされたシャッターに午前十時からの開店が、休日や閉店時刻と共に大書されていた。仕方なく良次は、近くのガードレールのそばへ行くとそこに腰を下ろした。明治通りと新宿通りの交差する角で、地下鉄への出入り口を上り下りする人々の忙しげな姿を見つめていた。なんとなく、藤木幸造はもう、あのアパートへ行っただろうか、と考えた。自分の部屋と言うには余りに短い期間で、心に残るものは何もなかった。それでも、そこが安心して体を横たえる事の出来る場所であった事を思うと、多少の感慨が残った。
 気が付くとデパートのシャッターが上がっていた。良次はガードレールから離れると、通りを横切り歩いて行った。新宿へ通い始めて三日目になるとはいえ、幼い頃から施設や少年院で過ごして来た良次には、デパートの売り場内に見る、物のすべてが新鮮で華やかなもの見えて、微かな心の昂ぶりをさえ覚えていた。
 良次は一階から二階、二階から三階へとエスカレーターを乗り継ぎ、売り場内の隅から隅まで、物珍しさに誘われるままに見て歩いた。
 六階の売り場を歩いている時だった。世界のナイフフェアーという白地に赤い文字の横断幕が眼に入って来た。ナイフフェアーってなんだろう、と思いながら好奇心と共に近寄って行った。
 そこでは世界各国の色とりどりのナイフが展示され、それぞれが覇を競い合うかのように魅力的、かつ魅惑的な形態を誇示しながら、即売されていた。
 良次は陳列棚の中で様々に魅惑的な形態を見せながら、鋭く研ぎ澄まされた刃の輝きを見せているナイフに圧倒されながら、ただ、息を呑む思いで見て歩いた。それぞれに高額の値段を付けられたナイフは、いずれにしても、良次には手の届かない世界のものだった。
 いったい、誰がこんな値段の高いナイフを買うんだろう・・・・
 数万円、数十万円のナイフはざらにあった。
 良次はそんなナイフを自分には関係の無い遠い世界のもののように思いながら、陳列棚を離れると、今度は平台の上にむき出しで並べられたナイフの方へ移って行った。
 そこには、さすがに陳列棚に並べられたような高価なナイフはなかったが、それでも、それぞれに数千円の値段が付けられていた。
 これなら俺にも買えるかな、良次は心の中で呟きながら、なお、熱心にナイフを見て廻った。何がそんなに自分の気持ちを引き付けるのか、良次自身にも分からなかった。ただ見て歩いている事に少しも飽きなかった。
 その時、ふと、一本のナイフが眼に留まった。思わず心を動かされ、良次は手を伸ばしていた。
 何かの骨で出来た褐色の柄に、二匹の蛇が絡み合う彫刻の施されたナイフだった。手に取った瞬間のずしりと重みがたちまち良次の心を虜にした。良次は、そのナイフをそっと両手に包み込むようにすると、静かに刃を開いてみた。
 刃は白い鮮やかな輝きと共に、薄っすらと蒼みを帯びたハガネの波型模様を浮かび立たせていて、見事な調和の美を演出していた。良次はただ、食い入るように見入っていた。体の中が熱くなるような感覚だった。
 良次は値札を見た。
 五千八百円。
 買って買えない値段ではなかった。
 だが、藤木幸造のもとを飛び出した今の良次には、明日の食事の為にも惜しい金額だった。諦めの思いだけが強くなった。
 良次は一旦は手に握ったナイフを元の場所に戻す気になった。ナイフをその場所に置こうとした瞬間、良次の心の中ではだが、ためらい、気迷う気持ちが働いた。なんとしても、ナイフを手放したくなかった。
 良次はナイフの並んだ台の上に手を伸ばしたまま、素早く周囲の気配をうかがった。
 誰も見ている者はいないか ? 
 いつの間にか増えていた人の群れが幸いしたのかも知れなかった。
 それぞれに自分の世界に没頭している人たちの誰もが、良次を気にしている気配はなかった。店員たちもそれぞれの仕事に掛かっていた。  
 ナイフを握った手はその時、素早く引き戻され、ジャンパーのポケットの中に押し込まれていた。
 心臓が胸の筋肉を突き破るかと思われる程に激しく波打った。息が詰まりそうだった。それでも良次は、一刻も早くこの場を離れなければ、という思いに突き動かされ懸命に足を運んだ。
 エスカレーター乗り場へ向かうと、そのままエスカレーターに身を委ねた。
 誰かが後を追って来るのではないか。
 エレベーターの動きが限りなく遅く感じられてエレベーターの上を走り下った。
 一階では店内を走り抜けて外へ出ると、人込みの中で後ろを振り返り振り返り、駅の方角へ小走りに歩いた。ビルの建物の時計が午後一時近くを指しているのが眼に入った。
 足は自然に歌舞伎町へけ向かっていた。
 歌舞伎町のようやく増して来た人込みの中に紛れると、初めて湧き上がる安心感と共に、歓喜の感情に捉われて小躍りしたい気持ちになった。ナイフが紛れもなく自分のものになっていた。
 一つの行為が完全に成功した事を思うと誇らしくなって、意気揚々と人込みの中を歩いた。込み上げて来る満足感と共に空腹を覚え、マクドナルドでハンバーガーを買うと口にしながら歌舞伎町の人込みを歩いた。
 そのあと、気持ちの大きくなった余裕で、見境もなくゲームセンターに入っていた。