ピクニック(2010.7.6日作)
草原が広がっていた
小高い丘の連なりがあった
バッタが跳んでいた
空いっぱいに晴れ渡った夏の日の1日
草の上に座して弁当を広げた人たちの上を
草原の風が吹きわたっていった
すべてが穏やかに 幸福な時間が流れていた
母に連れられたわたしは何歳だったのだろう
帰り道 草深い川沿いの道を歩いていた
途中 せまい川幅いっぱいに張りわたされた網が架かっていた
流れは その辺りで急に速くなっていた
「--この上流だったのでしょう ?」
だれか 女の人が言った
まわりにいた人たちがうなずいた
一瞬 重い空気が流れた
幼いわたしの心に なぜか その言葉が深く刻み込まれた
人生に垂れ込める暗雲を
初めて心が捉えた瞬間に違いなかった
女の人の言った言葉の意味を わたしは知らない
しかし なぜかその言葉の暗さを帯びた響きが強く
幼いわたしの心に刻み込まれた記憶だけが
今でも鮮明に心に残っている
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赤いつつじと白いふじの花(完)
「ああ・・・」
わたしは言った。
久美子は微笑みながら頷いてみせた。
「おばさん、大変だったわね」
と言って、母の労をねぎらった。
「うん」
わたしは言って、それから
「分からなかった」
と、曖昧な微笑みと共に続けた。
「そう。もう何年ぐらい会わなかったかしら」
久美子は言った。
「さあ、小学生の時以来じゃないかなあ」
「わたしは、すぐに分かったわ。宗ちゃんとは親戚の中でも一番近い間柄だったから」
と、久美子は言った。
「今朝、来たんだって ?」
「ええ」
雨は止んでいた。
砂の道がぬかるんでいた。
柩の後に従う人々は水溜まりの足元に気を付けなければならなかった。
野辺送りの老人達が鳴らす念仏の鐘の音と太鼓の音が、灰色の雨曇りの空の下で物憂く響いた。
「この辺りは土葬なのかしら ?」
久美子は言った。
「うん」
わたしには物珍しい眺めではなかった。
わたしたちは並んで歩いていた。
「結婚するんだって ?」
わたしは聞いた。
「どうしようかと思うの」
久美子は呟くように、重い口調で言った。
「どうして ?」
久美子は答えなかった。
いかにも疲れた様子が垣間見えた。
わたしたちは無言のまま歩いた。
わたしは母から久美子に関する大雑把な事は聞いていた。
「久美ちゃん、まだ結婚してないの ?」
わたしが聞いた時、母は、
「うん、そういう話しもあるらしいんだけど」
と言って、言葉を濁した。それから、
「あれも、いろいろ大変だから、悩んでいるらしいよ」
と付け加えた。
わたしは、久美子が幼い頃から病身の母親を抱えて、苦労して来た事を知っていた。
久美子の父親は、病身の妻と、当時、六年生の久美子と三歳下の久美子の弟を残して何処かへ行ってしまい、未だに消息が分からなかった。母の話しによると、今度の久美子の縁組の相手は、かなりの家柄の息子だという事らしかった。久美子を見初めた相手が、是非にと言って来たのだというが、久美子にしてみれば、病身の母親が気懸かりだった。母の面倒もみる、と相手は言っているという事だったが、男の両親は荷物を背負い込むという事で、いい顔をしなかった。となると、良家の坊ちゃん育ちの三人兄弟の長男が、何処まで頼りになるのか、久美子に取っては心もとない話しだった。少なくとも現在のままでいれば、五年前に苦労して取った美容師の資格を活かして始めた美容院で、病身の母親を抱えても日々の生活には困らないだけのものが得られるのだ。
墓地への道は長かった。
「宗ちゃんは、まだ結婚しないの」
「うん」
わたしは気乗りのしない返事をした。
「どうして ? 早く結婚して、おばさんを安心させてやらなくちゃあ」
わたしは無言の微笑みでごまかした。
わたしにも、それなりの理由があったのだ。
わたしには夢があった。夢というよりも悲願と言えるかも知れなかった。わたしたち一家も、戦争で父を亡くしていて、恵まれていた訳ではなかった。わたしは義務教育が終わると、母や教師の反対を押し切って、飛び出すようにして東京へ出ていた。四人兄妹の長男のわたしは、一家の為にも早く働きたいと思ったのだ。その一方でわたしは学歴のない負い目から、自分が義務教育だけで終わるに相応しい人間だった訳ではないのだ、という証明の為にも、一つの学問で身の証を立てたいと思っていた。独学でそこに挑んだわたしは試行錯誤を繰り返しながら、なかなか目的地に到達出来ないでいた。
わたしはだが、そんな胸の内は久美子には話さなかった。話したくなかった。自分の弱さをさらけ出すような気がして厭だった。
雨曇りの空の下、黒い喪服の行列はゆっくりと進んでいた。
墓地は薄暗い杉木立の中に開け、雨に濡れた雑草に覆われていた。
柩を収める墓は既に掘られていた。
野辺送りの老人たちの鳴らす鐘と太鼓の音が、杉木立の静寂の中に物憂く響き、念仏を唱える声がそれに和した。
行列は墓の前に到着した。
手引き車は柩を納めるのに格好な場所を探した。
「よし、よし。そこでいいだろう。その辺りでいいよ」
埋葬を宰領する若い衆達は事務的な乾いた声で言った。
「もう少し、後ろさ下げなくて大丈夫が ?」
「うん、大丈夫だ。丁度いい」
車は止められた。
続いて柩が車から降ろされた。
降ろされた柩には、若い衆達の手によって二本の太い麻縄が二か所に掛けられた。
「おい、新宅、天神前。その棺ば穴の方さ押してくれ。俺達がこうして縄ば支えてっがらよう」
四人の男達がそれぞれ二人ずつ縄を握り、別の二人の男達が祖母の死体の入った柩を穴の近くへ押しやった。
穴の縁が柩の重みで崩れた。
「いいが。しつかり押せえでろよ」
柩を押しやる男達が言った。
柩は少しずつ縁の土を崩しながら穴の中に沈んでいった。
縄を支えている男達が足を踏ん張って沈んでゆく柩の重みを支えていた。
柩を押していた男達が自分達の役目を済ますとすぐに、縄を握った男達を手伝った。
柩は二本の太い麻縄に支えられてなおも、ゆっくりと沈んでいった。
やがて柩は穴の底に納まった。
柩を支えていた二本の太い麻縄が引き上げられた。真新しく、真っ白だった麻縄は泥で一面に汚れていた。
「よし。これでよし」
柩か穴の底に納まった事を確認した男が言った。
「御親族の皆さん、どうぞ、土を掛けてやって下さい。その後で、わたし等が埋葬します」
わたしたちはそれぞれ、雨に濡れた土を一握りずつ手にして柩の上に投げ掛けた。
その度に柩に掛かる土の音がした。
それが済むと今度は男達が手にしたシャベルで、掘られて山盛りになっていた土を穴の中に戻し始めた。
白木の柩はたちまち、投げ入れられた土に埋まり、見えなくなった。
祖母は完全に穴の中に埋められた。
土を掛ける男達は穴が塞がると次には、周辺の土を削り取って土盛りを始めた。
小高い山が出来るとその上に芝生を載せて、卒塔婆が建てられた。
それが済むと母が言った。
「さあ、みんな。線香を立ててやっておくれよ」
真新しい祖母の墓はたちまち線香で埋め尽くされた。
そうして葬儀は終わった。
野辺送りの老人達の唱える念仏の声がまだ続いていた。
親族の者達はそれぞれに、真新しい墓を後にした。
滅多に足を踏み入れる事のない墓地の雨に濡れた雑草が、喪服の裾や履物を濡らした。幼い頃の姿しか知らなかった久美子も喪服の似合う年頃になっていた。
墓地に入って来た時とは違う反対側の出口に向かっている時、杉木立と雑木が密生する林の中に、真っ白な藤が幾つもの大きな房を垂らしているのが眼に飛び込んで来た。
「ああ、あんな所に藤の花が」
わたしは言った。
「ふじ ?」
久美子が顔を上げた。
「本当、白い藤の花ね。白い藤の花なんて珍しいわ」
久美子は眼を向けたままで言った。
白い藤の花は薄暗い木立の中で雨に濡れ、夢のように浮かんでいた。
三
家に戻ると葬儀の後始末が近所の人達の手によって行われていた。
野辺送りの人達が雨の中で待機する為に張られたテントが取り払われ、花輪が片づけられていた。
わたしたちは働く人達の邪魔をしないように、ひと先ず隣家に行った。
「久美ちゃんはすぐ帰るの ?」
病身の母を抱えて泊まってゆく事など出来ない相談だと分かっていても、わたしは、久し振りに久美子に会った懐かしさから言っていた。
「ええ」
久美子は言った。
「宗ちゃんは ?」
「僕も今日、帰らなければならない。明日はもう、仕事だから」
「今、何やってるの ?」
「レストランで働いている」
「コックさんになるって言ってたわね。おばさんに聞いたわ」
「うん」
「夜なんか、やっぱり遅くなるんでしょう」
「うん、何時もアパートへ帰ると十二時を過ぎている」
「大変なのね」
久美子は言ったが、大変なのは久美子も同じ事だった。美容院をやりながら病床に伏す母も看なければならなかった。結婚する為には、その美容院も止めなければならないという事だった。久美子にしてみれば、せっかくここまでにして来たのに、という思いもあったが、一方で、年頃の娘としての結婚に揺れる気持ちもまた、あった。
わたしは、その事に関しては何も言わなかった。なんと言ったら良いのか分からなかった。ただ、幸せになって欲しいという気持だけが、切ない程に強くわたしの胸の内にはあった。
隣家に行くと先に帰った人達がおばさんの出してくれたお茶を飲みながら話し込んでいた。久し振りに顔を合わせた親類たちも、年相応に老け込んでいて、祖母の葬儀の後だというのに笑い声が絶えなかった。
「今年の夏は、家にお出でよ。三、四日、泊りがけで来て、ゆっくり海で遊んでいくといいよ」
母の兄妹たちも安定の時期を過ごしていたのだ。
母が来た。
「久美ちゃん、あんた、何時のバスで帰る ?」
母は言った。
「何時のバスがあるのかしら」
「この次のバスは、二時三十四分があるんだけど」
「じゃあ、それで帰ろうかしら」
「そうかい。それなら、早いとこ御飯を食べておしまいよ」
「わたし、いいわ。なんだか、何も入りそうにないから」
「でも、少しぐらい食べないと毒だよ。・・・・本当に今日は忙しい思いをさせちゃって済まなかったねえ」
母は言った。
「ううん。ゆうべ、お通夜に来ようと思ったんだけど」
「母さんの具合はどうかね」
「なんだか、このところ、すっかり元気がなくなっちっゃて。おばあちゃんが亡くなったって言ったら、がっかりしていたわ」
「本当にあんたも大変だよ。それから結婚の事は、あんた自身が一番いいと思う道を選ぶんだよ。母さんの事を心配しすぎて、あんた自身の幸福を逃がしてしまってもいけないからね」
「ええ」
「かと言って、焦って取り返しの付かない事になってもいけないしねえ」
久美子は黙っていた。
大勢の人達のざわめきの中で、そこだけが妙に淋しかった。
「宗ちゃんは、どの汽車で帰るんだい ?」
母はわたしに言った。
「そうだなあ。みんなが居るのに、一人だけ帰っちゃあ悪いからなあ」
「休みは取れないのかい」
「うん」
休みの取れない事もなかったが、なんとなく、わたしの胸の内では空虚な想いだけが強かった。
母に関しては、祖母の死に対してもそれほど気落ちのした様子もなくて、安心していた。それに母の兄姉達も泊まってくという事だったし、わたしの弟も妹もいた。
東京でのわたしの生活は決して、気楽なものではなかった。午前七時半にアパートの部屋を出て、夜半過ぎに帰る毎日の生活は、わたしには一種の苦行とも言えるものだった。
だが、わたしはこの時何故か、早くその自分の部屋へ帰りたいという気持だけを強く感じ取っていた。
久美子は昼食も取らないで帰って行った
わたしはバスの停留所まで母と一緒に行って見送った。
「じゃあ、気を付けてね。よく考えてさ」
母は久美子に言った。
「ええ」
久美子は言った。
「じゃあ」
わたしは言った。
「どうも有難う。さよなら」
そう言うと久美子はバスに乗った。
「すっかり変わってしまって分からなかった」
わたしは走り出したバスを見送りながら母に言った。
「あれも大変なんだよ」
母は言った。
完
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takeziisan様
いつも有難う御座います
スイミング 拝見しながら全く同じだなと
思わず笑い出してしまいました
一年は速いですねえ わたくしも八十二歳になった今年
急に体力の衰えを感じるようになっています
筋肉の衰えが顕著です
老齢者に取っては若い者の二年三年が一年ですね
検査結果 良好との事 他人事ながら
何故かホットしました ブログを親しく
拝見させて戴いているせいか 他人事とは
思えない気がするのです 先ずはビールで
乾杯といきましょうか !
桂蓮様
いつも有難う御座います
「自分 他分への認識」
とても面白く 興味深く
拝見させて戴きました
リスが私になり 私がリスになった
この瞬間 そこには私自身の「無」「が
介在して来ているのではないでしょうか
無の私ーー禅で言う「在るけど無い 無いけど在る」
そんな私がそこに居たのではないでしょうか
禅では「無」を大切にしますね
リスが私になり 私がリスになった瞬間
桂蓮様はその極地に到達し得た瞬間では
なかったのでしょか エゴとは無関係で
そんな「私」に出会えた事は桂蓮様に取っても
大きな収穫だったのではないでしょうか
その経験を手放さない私ーそれはエゴではなく
桂蓮様の心身奥深く刻み込まれた一つの経験として
桂蓮様御自身の深化 心の豊かさに繋がり 寄与
して来るものではないのでしょうか
桂蓮様が得た経験は他者の誰に迷惑を掛ける
訳でもなく 御自身の心の宝 宝玉として
桂蓮様御自身の中に蓄積されてゆくものでは
ないのでしょうか ちょっとわたくしの感想まで
と思い余計な事をお書き致しました
「理想の背面 現実の後ろ側」もいいですね
なにしろ 余り数をこなせませんので
少しずつ 拝読させて戴いております
有難う御座います