遺す言葉

つぶやき日記

遺す言葉(387) 記憶 東京大空襲

2022-03-13 12:22:39 | つぶやき
          記憶 東京大空襲(2009.7.21日作)
              (この文章は2015年3月8日 №36に
               掲載したものですが 今現在 遠い国
               ウクライナに於いて 同じような状況が
               展開されていますので 抗議の意味を込め
               改めて掲載します)

          なお この文章が少し長いため 今回 
             「再び 故郷に帰れず」は休みます
              次回より 改めて掲載したいと思います


 わたしと弟 妹と母は ラジオの空襲警報と共に
 四畳半の部屋の床下に掘られた防空壕に入った
 東京深川 福住町での事だ
 隣り組の班長をしていた父は 町内の様子を見るため外に出ていた
 昭和二十年 千九百四十五年 三月十日未明
 わたしが国民学校に入学するその年 東京本所 深川方面は
 アメリカ軍 B二十九による空襲で 火の海と化した
 母は父が戻るまでの間 わたしたち三人を抱え
 防空壕を出る事が出来ずにいた
 ようやく父が戻って来た
 じりじりとあせる心が焼き尽くされるような 長い時間だった
「近所の人たちはどうしたの ?」
 母は急き込んで父に聞いた
「みんな避難した」
 近所の人たちを誘導していた父は言った
「それじゃあ わたしたちもこんな所に居ないで 早く逃げようよ」
 母に促されて わたしたち三人は防空壕を出た
 急いで寝巻の上に服を着て 外へ出た
 その時すでに 火の勢いは三 四軒先の隣りまで来ていた・・・・
「あのまま防空壕を出ないでいたら わたしたちは今頃 丸焦げになっていたよ」
 母はあの時を思い出すたびに言った
 わたしたち一家は 火の手が迫って来るのとは反対側の大通りへ逃げた
 母が妹を背負い 父がわたしと弟の手を引いていた
 すでに 家を焼かれた大勢の人たちが まだ燃えていない
 倉庫群の建ち並ぶ川岸の方へ走っていた
 無数の焼夷弾(しょういだん)がその間にも わたしたちの背後で
 暗黒の夜空を明るく照らし出しながら火の海と化した街の上に落下していた 
 川に架かった橋を渡ると 暗い大きな倉庫に逃げ込んだ
 中は大勢の人たちでいっぱいだった 
 後にして来た街の燃える様子が暗い川の水面に赤く映えて揺れていた
 程なくして誰かが
「ここも危ない」
 と言い出した
「学校へ逃げたらどうかしら ?」
 他の誰かが言った
「あっちへは大勢の人が逃げていて 学校へは入れない」
 その方面から逃げて来た人が言った
 火の手はわたしたちが逃げて来た 対岸の街を焼き尽くそうとしていた
 みんなが新たな避難所を求めて倉庫を出た
 直後に 倉庫は火の海に包まれた
「もう 燃えてしまった跡へ逃げれば狙われない」
 誰かが言った
 みんなが追い掛けて来る火の中を逃げ惑いながら
 安全な場所を求めて右往左往していた
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ようやく空襲警報解除の知らせを聞いた時には 何処かの街の
 焼け残った映画館の暗闇の中に 大勢の人たちと一緒に立って居た
 外へ出た時には まだ太陽の昇らない朝になっていた
 街は一面の焼け野原に変わっていた
 黒焦げになった家々の残骸が まだ 煙りを立ち昇らせながら散乱していた
 わたしたち一家は大勢の人たちに混じって
 コンクリートの破片だけが残る一隅に身を寄せた
 隣り組の親しくしていた三軒の家の人たちとも そこで顔を合わせた
 父や母は その人たちと一緒にわが家の様子を見に行った
 家は跡形もなく焼き尽くされていた
 日ごろ 弟が乗っていた赤い三輪車だけがポツンと一台
 共同水道のそばの焼け跡に残っていた
「まったく不思議だねえ 何もかもが灰になってしまった中で あの三輪車だけが焦げ跡一つなく 無事に残っていたんだからねえ」
 後年 母はそんな驚きの言葉を何度も口にした
 わが家の焼け跡から戻った母たちは 何かの容器に入れた幾つものお握りを手にしていた
「ゆうべ お米を研いで釜に入れて置いたら こんなにふっくらと炊けていたのよ」
 そのお握りを口にした母たちはだが すぐに吐き出してしまった
「焦げ臭くて食べられないわ」
 残った幾つものお握りを捨てようとした時
「それ 戴けませんか」
 と 近くにいた知らない人たちが疲れ切った顔で言って来た
 母たちは全部を何人もの知らない人たちにあげてしまった
 焼け跡に朝日が昇った
「すぐそこの道路に 黒焦げになった人の死骸がある」
 そんな話しが広がった
 母たちは見に行った
 子供たちは行くのを止められた
 次第次第に昨夜の情報が入って来た
「学校へ逃げた人たちは全員が焼け死んだ 屋上には大勢の人たちが折り重なって死んでいる」
「わたしたちは学校に入れなくて良かったんだねえ」
 母たちは安堵の思いを滲ませながら話し合った
 その日のうちにわたしたち一家は 三軒の家の人たちと一緒に焼け跡に奇跡のように残っていた 一軒の二階家を見付けて移り住んだ
 父たちは当面の生活道具を揃えるために 焼け跡の倉庫街に足を運んだ
 食器類(今でもわたしは その食器の一つを使っている)炊事道具 布団 大きな袋に入った米などを 焼け跡を掘り返して探し出して来た
 それでも そのまま 焼け跡での生活が続けられるわけではなかった
 街の機能は消滅していた
 それぞれの家族が故郷や親戚を頼って その家を出て行った
 わたしたち一家が最後に残された
 母の実家へ帰るための汽車が不通になっていた
 父の実家はその先だった
 一週間が過ぎてようやく わたしたちも九十九里の海に近い 祖母が一人で住んでいる 母の実家へ帰る事が出来た

 戦争はその年の八月十五日に終わった
 わたしは四月に匝瑳郡白浜村国民学校に入学した
 空襲がなければ 東京の深川で入学式を迎えたはずだった
 三月九日 わたしはその日まで祖母と二人で 白浜村に暮らしていた
 学校へ入学する準備のために母は 親しくしていた三軒の家の人たちを伴って わざわざわたしを迎えに来たのだった
 空襲はそうして わたしが東京へ戻ったその日の夜 明け方に起こった
 わたしは母が入学のために買い揃えて置いた真新しい靴を履かずに 父の手造りの粗末な下駄を履いて逃げた
「入学式のためにと思って買い揃えて置いた新しい靴を履かないで 選りによって手造りの粗末な下駄を履いて逃げたんだからねえ」
 母は後年 その夜の自分たちの慌てふためきぶりを自嘲してよく言った
「わざわざ迎えに行って その夜のうちに空襲に会うなんて 運が悪いというかなんていうか」
 母たちはその日 東京では物資も乏しいだろうからと言って 祖母が持たしてくれた 祖母が蓄えて置いた食料品のあらかたを持って来てしまっていた
「焼くために おばあさんが大事に取って置いた物を わざわざ持って来たようなもんだよ」
 母の嘆きは後年 長く続いた
 そんな祖母は 一週間が過ぎてもなんの連絡もないわたしたち一家の無事を諦めかけていた
「こんなに日にちが経っても あんの連絡もねえところばみるど はあ 死んでしまったんでしょうよ」
 近所の人たちから 本所 深川方面の空襲の様子を聞かされていた祖母は そう言っていたという
 
 わたしたち一家が帰った日 祖母は門を出た家の横の槙塀に沿った小道で 近所の人と話していた
 わたしが父や母より先に  走って
「ばあちゃん !」
 と叫びながら近付いて行くと 祖母は驚きの表情で私を見て 息を呑んだ  それからようやく
「おお けえって来たが」
 と言って 走り寄るわたしを抱き寄せた
 それはわたしの脳裡に深く刻まれて消える事のない光景となった

 昭和二十年 千九百四十五年三月十日未明 東京大空襲
 死者おおよそ十万
 そんな状況下 誰一人怪我をする事もなく無事に生き延びる事の出来たわたしたち一家にはいったい 何があったのだろう ? どんな力が働いたのだろう?
 一夜のうちに人の生死を分け 隔てたものはなんであったのか ?
 人の力では計り得ないもの もし それが神の力によるものだとしたら 神は何処で 人の幸不幸 運不運 を 選別するのだろう ?
 
 神など存在しない
 全知全能の神など 何処にもいない
 人それぞれが持つ運命 それだけが人の命を左右するもの
 それのみが真実 それのみが真理 多分 人はそう信じ 人それぞれが持つ
 運命 その運命を精一杯生きるより外に 出来る事はないのではないか
 人それぞれが持つ運命 命こそが この世では
 最も貴重なものであり 至上のものであるのに違いないのだから
 
 
  
        人の心が負う傷というものはなかなか
        抜けないものです わたしは あの戦災体験から
        ほぼ二十年間 ちょっとした火事の現場を見ると
        無意識の内に膝がガクガくとふるえてしまって
        抑える事が出来ませんでした あの空襲の中を
        必死に逃げた時の恐怖の体験が 脳裡に深く染み付き
        消えなくなっていたのだと思います





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         桂蓮様

         有難う御座います
         御主人様のコロナは良くなりましたでしょうか
         アメリカでは大分 状況が良くなっているような
         報道がありますが どうぞ お大事にして下さいませ
          本当に一人の人間の愚行の為 ロシアの人々に限らず
         世界中の人が苦労します 愚かな人間の存在を許す
         そんな体制ーーその味を知った人間はなかなか
         それを手放さないのでしょうね 困ったものです この
         愚かな人間の存在には 世界中が迷惑します
          自身と自惚れ 以前にも拝見した記憶がありますが
         改めて拝見して とても面白く読ませて戴きました
         何事にも消極的では何も出来ないし 自信過剰もまた
         困りものですが でも 何時かは出来る 必ず出来る
         そんな前向きな自信はやはり 何事に於いても
         必要なものだと思います 
          自信と自惚れ 紙一重だと思います
         自信過剰 自惚れの怖いのは 正しく 宝の持ち腐れに
         なってしまう事ですね 面白く 拝見せて戴きました
          何時も有難う御座います コメント 飾りがなく日常が  
         そのまま伺われてとても楽しく読ませて戴いております




                                 takeziisan様

          有難う御座います
         花はどこへ行った
         懐かしい曲ですね
         コメント感銘を受けました
          ボケ=モッケ なるほど 了解
         学生寮の話し わたくしは経験がありませんが
         御文章もとても良く 郷愁を誘われます
         バンカラ 豪気 懐かしい響きです 今では
         消えてしまっているようですね
          ヨゴレネコノメソウ 初めて知りました
         ネコと入れるとネコノメソウと出ました
          カワウとサギ 面白い構図
          鈴懸の径 鈴木章冶とリズムエース
         懐かしいですね 優しい響きが想い出されます 
          ドペッタ 面白い すべった という意味でしょうか
          オマンタ この言葉ずっと以前 三波春夫の歌で
         聞いた覚えがあり 面白い表現もあるものだなあ と
         思った記憶があります お住まいの地方の言葉
         だったのですね
          それにしても地方それぞれの方言には それぞれに
         特徴があって楽しく 優しい気持ちにさせられます
          赤ふんどしも懐かしい 物語も楽しい
          ハナイカダ こんな花があったのですね
         水の上を流れる桜の花びら あの光景の事だとばかり
         思っていました 珍しいものを見せて戴きました
          当地ではフキノトウはとっくに終わりました
         ジャガイモ タマネギ 普段は安いこんな野菜が今年は
         高いです 畑仕事をする特権 自分の好みの物を作れる
         羨ましいです
          今回もいろいろ 楽しませて戴きました
         有難う御座います