神は何処に ? (2022.3.20日作)
ウクライナ ロシアに於ける理不尽な侵攻
ウクライナ国民の 見るも気の毒な現在の状況
ロシア大統領を名乗るプーチン おまえには 日毎
世界の多くの人々が眼にする ウクライナ国民の悲惨な姿 その
状況が眼に入らないのか ?
眼に入らない訳はないだろう ウクライナ国民に限らず
ロシア おまえの国 自国でも 無謀な侵攻に駆り出された
数多くの兵士達が死亡 この世を去っている おまえ一人の
勝手な思い込み 無謀な行為のために 命を落とさなくてもいい
数多くの人々が死んでいる この世を去っている
なぜ 彼等は死ななければならないのか ?
なぜ プーチン おまえの為にたった一つの命を
捨てなければならないのか ? おまえはおまえの浅はかな自己顕示欲
権力欲 野望の為に 取り返しの付かない過ちを今現在 犯している
その為に たった一つの大切な命が日毎 ウクライナのあちこちで
奪われてゆく 一度失われた命の再び 戻る事はない その事の
自覚の出来ない人間の愚かしさ そんな人間が国を治める資格はない
そんな指導者を持った国の国民の不幸は計り知れない
それにしても バチカン ロシア正教会 そこに坐(ましま)す" 神 "たちは
一体 何をしているのか ? 日頃 いとも安易に神の恵みを口にする人々は
いったい この事態をどのように受け止めているのか 一言も言葉が漏れ
伝わって来ない 神は一体 何処へ行ってしまったのか 何処に居るのか ?
この見るも無残な状況を見ても神は心を動かされないのか ? 人々の苦境の
中でその実態を見る事も出来ないのなら そんな神など必要ない 日頃 口
にする神の恵みは口先だけのまやかし 体のいい詐欺なのか バチカン ロ
シア正教会 今 この時こそ 神の力を発揮 人々に示して見せる時だ
その力 神の力を見せて欲しいものだ 愚図愚図している暇はない 一刻の
猶予 もないのだ
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再び 故郷に帰れず(7)
竹藪を抜けると赤い花と黄色い花の咲き乱れる花壇に足を踏み入れ、その小さな花を踏み潰さないように気を付けながら庭に出た。そこから家の正面に向かい、十畳の間の前に立つと座敷では今、家族みんなが集まって明るい電燈の下、大きな食卓を囲んで食事をしていた。
父と母がこちらに顔を向け、兄が父の隣りに座っていた。兄嫁がその横にいて、子供達の差し出す茶碗に飯を盛ったりしていた。わたしはその一家の団欒に限りない懐かしさを覚えると思わず、
「今晩は」と言っていた。
その声で兄が顔を上げて庭の暗闇を透かすようにしてこちらを見た。それからすぐにわたしを見付けて、
「おお、悟か」
と、茶碗と箸を手にしたまま、その手を止めて言った。
「うん。今、帰った」
わたしは庭先に立ったままで言った。
「誰だ ?」
父が兄に尋ねた。
「悟だよ」
と、兄は言った。
「悟 ?」
父は訝し気に兄に問い返した。
「うん。悟だ」
と、兄は言った。
「おめえ、悟がね。悟なら、そんなとごろさ立ってねえで、早ぐこっちさ来う」
母が言った。
兄嫁が席を立って来た。廊下に出るとわたしを見て、
「早く上がって来なさいよ。今、ちょうど夕飯を食べてたところだから、一緒に食べるといいわ」
と言った。
「うん、今日一日歩いて、歩き疲れちゃった」
わたしの口からは思わず本音が漏れ出した。
「なに ? 裸足なの ?」
兄嫁はわたしの足元を見て言った。
「うん」
わたしは言った。
「じゃあ、そこの井戸端で洗って来なさいよ。すぐに御飯の用意をするから」
兄嫁は言った。
わたしは昔のままの井戸端の傍へ行くと、子供の頃、毎日、遊び疲れて帰って来ては、砂にまみれて真っ黒になった手や足を洗い流した事を思い出した。
井戸水は昔のままに冷たかった。夏になると子供達が近くの川遊びへの行き帰りに必ずこの井戸端へ来ては、「水、くっだい(下さい)」と言っては汲み上げ、そのまま釣る瓶に口を押し当ててゴクゴク呑みながら口々に、
「うんめえ(うまい)水だなあ」
と言っていた風景が蘇った。
足を洗い、体の汚れも拭って玄関から土間に入ると上がり框に腰を下ろした。
一度にどっと、今日一日の疲れが吹き出す感じを覚えて思わず、
「ああ、あ」と溜息を漏らしていた。
「これで拭くといいわ」
兄嫁が洗面タオルを出してくれた。
わたしは丁寧に濡れた首筋や足を拭って、板の間から座敷に上がった。
食卓を囲んでいたみんながわたしを見た。
「おめえ、悟が ?」
父が言った。
「うん、そうだ」
わたしは言った。
「父ちゃんも母ちゃんもすっかり年ば取ってしまって、眼が悪ぐなって、おめえがよぐめえねえ(見えない)だよ」
と、母が愚痴のように言った。
「うん、でも、見た目は昔とそんな変わってないよ」
わたしは口調のすっかり年寄じみてしまった母に向かって言った。
「おめえの顔がよぐめえねえ」
父が言った。
「俺もすっかり、年を取ってしまったよ」
わたしは言った。
「悟が ?」
父はまた兄に聞いた。
「うん。悟だよ。多分、悟に違げえねえ」
兄は言った。
「ところで、あんでまだ、突然に ?」
兄は不審気な眼差しをわたしに向けて言った。
「うん、それが、俺にもよく分からないんだけど、ある日、突然、俺は自分が刑務所に入れられている事に気が付いたんだ。それで、毎日毎日そこで、自分の墓穴を掘っていた。それに気付くと急に苦しくなって来て、呼吸も出来なくなってしまったんだ。このままでは自分が駄目になってしまう。なんとかここを抜け出さなければと考えると居ても立ってもいられなくなって、ある日、決心すると思い切って鉄の重い扉を突き破って、柵の外へ飛び出したんだ。そして夢中で歩いているうちにいつの間にか、ここに帰って来ていたってゆうわけなんだよ。ここは俺に取っちゃあ故郷だし、心の故郷でもあるんだ。だから、この心の故郷からもう一度、新しい自分を見つめ直して生きてみようかと考えているんだ」
わたしは言った。
「そうが。そういう事が」
兄は言った。
「俺にはよぐ分かんねえけっど、でも、無駄な事だっぺえ。無駄だよ、無駄」
達観したように兄は言った。
「そんな事はないよ」
わたしはムキになって言った。
「故郷ってあんだ ?」
兄は言った。
「自分の生まれ故郷さ。心の原点さ」
「そごへ戻ればむがし(昔)の自分にけえ(帰)れるのが ?」
「帰れると思うよ。少なくとも俺に取っては現実の自分を離れてもう一度、心の原点、子供の心に戻って自分というものを見つめ直してみたいと考えているんだ」
「現実の自分を離れるって、どういう事ったあ」
「今、生きている生活の場を離れるっていう事さ」
「そうすっど俺あには、故郷はねえって事が ? 現実に生きてる場所が故郷だもんな。現実も故郷も一緒くただ」
「つまり、兄貴は故郷の中で現実を生きているのさ。現実が故郷なのさ」
「そんな事あねえよ。現実なんてもんは、常々、毎日変わるもんだ。いぐら故郷、故郷って言っても、昔の故郷なんてもんはありゃしねえだよ。毎日、違った日々ば生きてる、これが現実ってもんさ。故郷なんてものは自分の頭のなかにしかねえもんだよ。ここにだって、昔の故郷なんてありゃしねえだよ」
「でも、兄貴はこの故郷の土地に生き、現実の日々に満足しているんだろう。それなら幸せさ」
「幸せもあにも、呼吸してる以上、毎日、生きるしかあんめえ。あにも難しぐ考げえる事なんてねえだよ。毎日毎日、一生懸命生きる、そっでいいだ。人が生ぎるなんてそんなもんさ。あに(何)不自由のねえ生活なんてありゃしねえよ」
「でも、俺にはそれが達観出来ないんだよ。もっといい人生が何処かにある。自分自身の道がある、そんな気がしてならないんだ」
「そんなもんあっても無くてもいいがら、早く飯ば食って寝ろ。疲れでっだっぺえ」
兄は言った。
四
眼が覚めると朝だった。
太陽はまだ昇っていなかった。わたしは奥座敷の八畳の部屋の雨戸を開けて外へ出ると、井戸のある庭の片隅に行った。
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takeziisan様
コメント 有難う御座います
どうか わたくしの書くこの欄に付いては
お気になさらないで下さい わたくしの詰まらない
文章に何時も 暖かい応援をしていて下さる
桂蓮様と共に お二方に感謝の気持ちを込めて
御礼を申し上げているものですので 気楽に
お受け止め戴けたらと思っています この欄に
充てる時間をどうぞ週に何通も発信する御自身の
ブログにお当て下さい 長い歳月 一位 二位を保つ
その努力と力に敬服しております わたくしなどは
週一のこの欄でさえ 四苦八苦です
今週も美しい写真の数々 楽しませて戴きました
すみれの花 子供の頃に野山を駆け回った記憶が
甦りました 本当に春を告げる花ですね
御当地に越して四十年 わが家も昭和四十年に
ここに来ましたが当地も変わらず 畑と田圃
庭にはガマガエルが顔を出した事もありました それが
今では立派な都市の顔を見せています 道路を一つ
隔てた向こうに ある会社の大きな工場があった
のですがそれも今では市の防災公園に変わっていて
春などは桜の花などが咲き誇っています 周囲に
田圃や畑の影を見る事も出来なくなりました
砂に消えた涙 弘田三枝子もピーナツの一人の方も
安西マリヤも亡くなりましたね この人たちが唄って
いたのもついこの間のような感覚ですが 歳月は
確実に過ぎているのですね
何時まで続く事やらーー実感です
白い花の咲く頃 ラジオ歌謡ですね
この歌には思い出があるのです 当時は空襲で
家を無くして祖母の家に身を寄せていて 父一人が
仕事の関係上 東京に居ました 当然ながら生活は
苦しく ラジオを買う余裕もなくて 東京にいた母の
弟 叔父に中古のラジオを送って貰いました 近 くの
畑などにいる時 そのラジオの放送が聞こえて来ると
夢のような気がしたものでした そしてラジオで聞いた
最初のラジオ歌謡が 白い花の咲く頃 でした
ラジオの聞ける嬉しさで 一所懸命に覚えた事を
思い出します でも 岡本敦郎も亡くなり 総てが遠い
昔の思い出です
出来るところまでーー 実感です
どうぞ お体を大切にこのブログを一日も長く
お続け下さいますよう
再び 故郷に帰れず 多分 お読み戴く方には
訳の分からない物語だと思われると思います
主人公の頭の中に浮かんだ思いを現実の世界に
仮託して書いていますので ストーリーはあっちへ飛ん
だり こっちへ飛んだり 滅茶苦茶になります
総ては主人公の頭の中に浮かんだ世界で実世界では
ないのです ですから これから先 わたくし自身にも
どうなるかは分かりません その時々を写し取って行く
だけですので 実際にその場に向き合ってみないと
分かりません
何時も こんな詰まらない文章にお眼をお通し戴き
感謝 御礼申し上げます
有難う御座いました
桂蓮様
コメント お忙しい中 何時も有難う御座います
今回 新作がなく 旧作を拝見しました
バレーに付いての作品です
考えないようになるには知識や学識がいる
やるべき事をやれば結果は付いて来る
余計な雑念を切り落とす
良い言葉が並んでいます 本当にその通りだと
思います 禅の世界です 坐禅の気持ちで
バレーに向き合う 良いですね 何事にも
雑念を差し挟む事は良い結果に結びつく事はないですし
バレーで得たものは総て実生活の上にも反映される
事ではないでしょうか
NHKバレー放送見まし た二時間半が瞬く間に
過ぎました 久しぶりの放送で堪能しました
三団体の出演でジゼル アルルの女 それにバッハの
題名は見落としてしまったのですが作品でした
時間の関係でそれぞれ作品の一部を切り取った
ものでしたがそれぞれに舞台構成も良かったです
それにしてもテレビなどでこうして 大きく
映し出されると小さな欠点が如実に見えてしまいます
恐ろしい事だと思いました ポワントの時の僅かな
体の揺れも見えてしまいます 群舞の時の手先や
体の線の並びなども美しさに関係して来ますし
その団体の実力が明瞭に映し出されます
踊る人達は本当にたいへんだなあ とつくづく
感じ入りました 日本舞踊などもそうです
生の舞台などでは見逃されがちな体の線の小さな動きが
はっきりと映し出されます 本当に上手な人は踊りを
踊っているようには見せないものです 自然に体が動い
ている「踊りを踊っている」ようではまだ駄目だ と
いう事ですね「踊らないで踊る」そこに至るまでが
また大変な努力を要する事だとは思いますが
それにしてもバレーダンサーのあの体のしなやかさ
並みの努力では出来るものではないと思います
桂連様もどうぞ あまり御無理をなさらないようにし
て下さい バレーダンサーを目差すのならともかく
趣味や体 健康のためなら 無理をした結果
何処かを痛めてしまったというのでは 元も子も
ありません お気を付け下さい
今回もコメント楽しく読ませて戴きました
有難う御座いました