神よ(2009年2月20日作)で
(この文章は2014年7月13日 2回目に
掲載したものですが 現在 不穏な空気が
充満している世界の情勢を思い 再度 掲載する
事にしました)
神よ 哀れなわたしに あなたのお力をお貸し下さい
神よ あなたのお力で この苦しみからお救い下さい
神よ 全能の神よ われわれ人類のすべてに幸福と平和を
神よ 生きとし生けるものすべてを あなたの御光りで御包み下さい
もし 神というものがいるのなら
神はなんと不公平なのか
もし 神というものがいるのなら
なぜ神は 一人を愛し 一人を苦しめるのか
もし 神というものがいるのなら
なぜ神は 一人に幸福を与えて 一人を不幸に陥れるのか
もし 神というものがいるのなら
なぜ神は この苦難に満ちた時代に
否 いつの時代に於いても 苦難に満ちたその時 その場所で
沈黙を続けているのか
神という存在が もし 居るとしたら
神はなんの為に存在しているのか
人を救う為にか
あるいは 差別をする為にか
神が目差しているものは いったい なんなのか
神が存在する事にどんな意味があるのか
われわれには知り得ない深い叡智が
その存在の裏には隠されているのか
もし 神の存在に深い叡智が隠されているとしたら
隠されたその叡智の扉はいつ開かれるのか
神よ 明日では遅い 今この時 この瞬間こそが大切なのだ
この時 この瞬間に 何人 何十人 何百人 何千人
あるいは 何万何十万もの人間が理不尽に苦しみながら
苦悩の中で命を落としてゆく
神よ 命こそが この世界では至上のものではないのか
命こそが 人々が生きるこの世界に於いて 最も尊ばれ 総ての価値の
基準となるべきものではないのか
神よ もし 神というものがこの世に存在するのなら
その神は 絶え間なく勃発する人間同士の醜い争いや
その果ての 人間社会の悲惨に眼を向ける事は出来ないのか
その解決に 力を貸す事は出来ないのか
それとも神は われわれへの見せしめの為に
一人の人間の不幸を 黙って見過ごしているとでも言うのだろうか
万人の幸福の為には 一人の人間の不幸が必要だとでも言うのだろうか
そして神よ 人類全体への見せしめの為に犠牲になった一人の人間の
不幸の報われる日はあるのか
神よ もし 神といものがこの世に存在するのなら
その神は この世界の悲惨 人間社会に満ちた愚行を
どのように見ているのか
今こそ 信仰薄い一人の人間に あなたの真実を お伝え下さい
神よ われわれ人間には 今生きているこの時こそが大切なのだ
今この時にこそ あなたのお力が必要なのだ 僅かばかりのものでいい
苦悩のない 平穏な生活を恵んで欲しいのだ
願わくば 全知全能の神よ 生きとし生けるものすべてに平等に
あなたの御力と御光りを あの世ではない この世で御恵み下さい
" 何日か前にロシア正教会の復活祭とかなんとかの
祭典が行われたとテレビが報じていた その中で華やかに
着飾った祭司だかなんだかぞろぞろと群れて 如何にも神妙
厳かな様子で練り歩いていた 司祭達は世界の平和の為に
とかなんとか口にしていた
これが噴飯もの お笑いでなくて何であろう
世界の平和を乱し 人々の生活を混乱に陥れている張本人は
司祭様たちよ
あなた方のお膝元にいるのだ よくもぬけぬけと
世界の平和を祈るーーなどと言えたものだ
この現実からみても 教会 宗教などというものの 如何に
誤魔化しの世界であるかという事が分かる "
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引き金(3)
三杉は多美代への自分でも思ってもみなかった、胸の裡に沸き起こる疑惑に苦悩の日々を送った。
三杉にはだが、多美代を問い詰めるだけの勇気はなかった。多美代の変身の因が自分自身にある事を三杉は理解していた。その上、多美代を問い詰めて事実を確認する事への恐れもあった。
三杉にはただ、苦悩に悶々としながら、自分の妻をそんなにまで変える事の出来る男への、心を焼かれるような嫉妬の感情を深める事しか出来なかった。
そんな日々の中でのある夜の事であった。三杉は帰宅途中の高速道路で渋滞に巻き込まれた。大型トラックの横転事故の為に百メートルを走るのに十分も要するという状態だった。平常通りに走っていればとっくに自宅に着いている時間になっていた。煙草も禁じられている三杉は、待ち時間による思わぬ疲労感に苛々しながら、車窓のガラス越しにあっちを見たり、こっちを見たりして疲労感と退屈を紛らしていた。
その時、つと、一台の車が三杉の車の横へにじり寄るように近付き、そのまま、また、ゆっくりと動いて車両後部を見せて行った。その間、二分か三分にしか過ぎなかった 。
しかし、その時、三杉の眼ははっきりと、一人の若い男の隣り、助手席に座って居て、何かをその男に話し掛けている妻の多美代の姿を、高速道路を照らす明かりの中で捉えていた。
三杉は思わぬ光景に息を呑むのと同時に、途端に沸き起こる激しい胸の締め付けられるような痛みを覚えて、思わず握ったハンドルに力を込めるとそこに額を押し付け、痛みに耐えていた。
二人を乗せた車はその間、少しずつ三杉の車から離れていった。
三杉はだが、暫くは車を動かす事も出来ないでいた。
渋滞が幸いした。
三杉は暫くたってから、ようやく体を起こすと急いで上着の内ポットに忍ばせてある舌下錠を取り出し、口に含んだ。
三杉が眼にした妻を乗せた車はその間に見えなくなっていた。
その夜、三杉がようやく自宅に辿り着いた時には、何時もなら三十分程で帰れる道程を一時間半もの時間を要していた。
多美代は既に帰っていた。
「随分、遅かったのね」
居間に居て三杉の姿を眼にした多美代は言った。
「うん」
とだけ三杉は言った。
「わたしも、少しちょっと前に帰ったところなの。道が渋滞で混雑していて」
多美代は言った。
普段と変わらなかった。あの僅かな時間の出来事を三杉が眼にしていなければ何事も変わらなかった。
「お風呂にしますか」
光枝が三杉に聞いた。
「いや、風呂はいい」
三杉は答えると、多美代と顔を合わせるのを避けるように、怒りの感情を押し殺してすぐに二階の自分の部屋へ向かった。
顔面が引きつり、蒼白になっているのが自分でも判断出来た。多美代にその顔を見せたくなかった。
部屋へ入ると三杉はベッドの上に鞄を放り出し、そのまま腰を下ろして暫くはじっと動かないままでいた。
息苦しかった。何時また心臓の痛みが襲ってくるのか、不安に怯えた。
眼をつぶり、苦痛に耐えるその頭の中に浮かんで来るのは、つい先程眼にした、妻と若い男の姿だった。
狭い車の中で肩を並べ、言葉を交わし合う姿は、日常、ありふれた行為に違いなかった。妻が車でカルチャーセンターの若い男性講師に帰りついでに送って貰う、そこに、取り立てて目くじらをたてる要素はないように思えた。それは三杉にも理解出来た。
しかし、それでいながらなお、三杉の胸の中には波立つものがあった。
それがなんであるのか、理屈を超えた勘と言うより外なかった。
三杉は今、多美代の胸の中で自分はどれ程の意味を持っているのだろうか、と自身を顧みざるを得なかった。もし、車の中に居たあの男が多美代に嘗ての生気を取り戻させた張本人だったとしたら。・・・・
三杉はあの若い男に嫉妬と嫌悪の感情を抱いた。
屍と化したような今の自分という存在。総ての行動に付き纏う制約。今の自分に生きている価値はあるのか ?
三杉は自分の存在への絶望感と共に、果たしてあの男が自分の妻に生気を吹き込み、取り戻させた張本人なのだろうか、と心の奥にくすぶる嫉妬の感情と共に、知ってどうなるものでもない事への興味に突き動かされていた。
偶然、車の中で眼にした若い男と妻の寄り添う姿への悶々とした思いは、日が経ってもなお、消えなかった。
三杉はとうとう決心すると、二人を見た夜から一カ月半ほど経ったある夜、新宿にあるカルチャーセンターにへ車を走らせた。
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takeziisan様
コメント 有難う御座います
お忙しい中 どうぞお気になさらぬようお願いします
何時もお励まし戴き わたくしの方こそ御礼申し上げます
今回も美しい写真の数々 楽しませて戴きました
雑木林公園のある環境 羨ましい限りです
ビリー ヴォーン 灰田勝彦 水島道太郎 それに
「地獄の顔」懐かしいです 地獄の顔 この映画の
広告が中学校のすぐそばにあった小さな雑貨店の
店先に掛かっていたのを今でもはっきりと覚えています
水島道太郎の名前もその広告の中で知りました
映画そのものは後に見ましたが
昔の女優さんの写真 懐かしく眼を通しました
何人か 眼にした人達も居て 感慨ひとしおでした
今回も野菜作りの現場 楽しく拝見しました
それにしてもジャガイモ タマネギ 例年なら安いものが
今年は高いです
フキ わが家の庭でも大きくなってきました
連休中には採るつもりでいます
買い物も足トレ 情景を思い浮かべ 自ずと
微笑んでいました 歳を重ねると日々の一瞬一瞬が
貴重なものに思えて来ます
古い写真の数々 貴重な想い出ですね それにしても
良く旅をしていますね 旅は年老いて来ると貴重な
財産になります わたくしなども あちこち 数は少ないですが
旅をした想い出があって テレビなどでその地方の画を
見ると懐かしく 感慨を覚えます
今回も様々な記事 お写真 堪能させて戴きました
有難う御座いました
桂蓮様
有難う御座います
無理をなさらないように 失礼ですが
年齢と共に体力の衰えは顕著になり 総ての事の
回復が遅くなります 慢性になっては怖いので
くれぐれも御用心を
新作 拝見しました
春になれば花が咲き 秋になれば葉が落ちる
悟りの世界です 他人は他人 自分は自分
坐禅はそんな世界を会得するための修行
その坐禅で得た経験を日常に活かさなければ
坐禅をした意味がない 白隠禅師は言っています
それが日常に生かされないならば 坐禅をしても
古狸が穴の中で居眠りをしているようなものだと
禅 悟りは日常のものです 特別 変わった世界が
ある訳ではありません 道元も一休禅師も言っています
経を読んではならない 坐禅しろ
掃除をしてはならない 坐禅しろ
商いをするな 坐禅しろ
馬に乗るな 坐禅しろ
畑を耕すな 坐禅しろ
これは坐禅が特別なものではなく 日常の中 人が
生きる上に於いて常に無の心を大切にして
物事に捉われる事なく 今この時 眼の前の総てに
その時 その時の最善を尽くして生きよ と言う事です
商いをする時にはその商いに最善を尽くす 畑を耕す
時には その仕事に最善を尽くす キョロキョロ
よそ見をするな という事です
自分の事は他人には分からない
他人の事は他人にしか分からない
無駄な詮索などするなと言う事です
新作 良い御文章でした
辞書片手の英文との合わせ読みが楽しく
旧作でも飽きないのです
誤字 御指摘 有難う御座いました
訂正しておきました
細心の注意を払っているつもりですが 人間
絶対と言う事はありません 自戒です
何時も有難う御座います
くれぐれもお体には気を付けて下さい