「おいこれ何角関係だよって声が出ちゃった」
「島の生活の再現がすご過ぎ」
『植村直己物語』(86)(1986.7.8.日本劇場)
世界的冒険家・植村直己の半生と夫婦の愛を描く伝記ドラマ。監督・佐藤純彌、脚本・岩間芳樹、撮影・並木宏之、阿久津悦夫、音楽・村井邦彦、ウィリアム・アッカーマン、ウィンダム・ヒル。
映画を見る前は、また『南極物語』(83)のような、スタッフ、キャストの労をねぎらう“ご苦労さん映画”なのかなと思っていたのだが、そうした先入観を見事に打ち破られた。
植村直己という一人の男と自然との異常とも思える関わり方は、確かにスペクタクルの一つとして見せられるのだが、その裏で、日常生活ではむしろ凡人であり、落ちこぼれでもあったという、植村の弱点を同時にみせることによって、偉人でも超人でもない、一人の人間としての魅力を引き出すことに成功しているし、山や極地での危険な冒険にしか生き場所を見付けられなかった男の、孤独や寂しさが浮かび上がってくる。
演ずる西田敏行も、一瞬植村本人かと思わせるほどなり切っており、その体当たりの演技は特筆に値するだろう。そして何と言っても、この映画の素晴らしさは、その偉大さも、弱点も、夫婦愛も、全て含めて、植村直己という男の隅から隅までを愛し抜いて作られているところだろう。
それ故、伝記映画につきものの単なる英雄伝にはならず、悲しい終わり方であるにもかかわらず、さわやかな印象が残るのだろう。
植村がマッキンリーで消息を絶ったとき、自らの肉体の衰えに対する焦りとともに、日本中の人々が寄せる期待に対するプレッシャー、もはやスポンサーなしでは冒険ができなくなった状況などが、手かせ足かせとなり、冒険に対する純粋な気持ちが失われた結果が悲劇につながったのだと思った。
この映画の製作にも、コダックその他、多くの企業が宣伝を兼ねて関係しているところを見ると、そんな見方もあながち間違ってはいないような気がする。もはや、冒険も、それを描く映画も、スポンサーとしての大企業の後ろ盾がなければできないということだ。そう思うと、ひどく空しい思いに捉われる。