硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

耳をすませば。 彼と彼女のその後  58

2013-09-04 07:30:23 | 日記
「雫さんへ。」

「この手紙を開いているという事は、聖司から無事手渡されたという事ですね。そして、私はこの世にいないのかもしれませんね。しかし、そうであっても悲しまないでください。人の死は決して悲しいものではないのですからね。

ところで、このような手紙を差し上げたのは雫さんに折り入ってお願いがあるからなのです。この手紙と共にある紙包みの中身は「男爵」です。男爵は長い間、恋人を待ち続けています。私がいなくなっても、きっと恋人との再会を待ち続けるでしょう。私は男爵と恋人は再会できると強く信じているのです。

この男爵の秘密は私と雫さんだけしか知り得ない事ですから、あなたに彼らの物語の続きを託したいと思ったのです。どうか私の最期の唯一の願いだと思って引き受けてください。
恋人の名前はアンネローゼ・フォン・シャフハウゼンと言います。よろしくお願いします。」

「西司朗」

男爵が我が家にやってきた。すごく嬉しくなってすぐに包装してある紙をほどいた。
何度も何度も見たはずなのにそれでも感激するものだ。

「今度は私があなたの物語を見届けますから。よろしくね。」

さっそく男爵を仕事用のデスクの上においてしばらく眺めた。彼の眼のエンゲルス・ツィマーは今も変わらず美しい輝きを保っていた。そして、私は不意に彼に話しかけた。

「ねぇ男爵・・・。私どうしたらいいと思う? 」

一人で呟いていると、インターフォンが鳴り玄関の扉の開く音がした。時計を見ると7時を少し回っていた。

「ただいまぁ」

慌ててリビングに戻り、彼を出迎えた。

「おかえりぃ。 早かったね。ちゃんとご飯食べてきた?」

「いや。面倒くさくなったから、コンビニでカップラーメンとおにぎりを買ってみました。雫はもうご飯食べたの?」

そういえば、ご飯の事をすっかり忘れていた。

「忘れてた。まだ食べてないです。」

すると、優一は「そんな事もあろうかと、雫の分まで買ってみたのです。」と、言った。

「わぁ! 気がきく! ありがとう。 そんな事もあろうかとお湯はすでに湧いております。」

そう言ってストーブにかけてあるやかんを指差すと、優一が「調子いいぞぉ」と言って屈託なく笑った。
その時、ああ、これがかけがえのない幸せなのかもしれないと思った。