私は今、見渡す限り一面の茶原に囲まれた富士山麓に暮らしています。
雄大な富士山さえも凌ぐ程の新茶の成長は、毎年私に活きる力を気付かせてくれます。
私の故郷も、市街化が進んで農家の数も激減していますが、以前はお茶の原っぱに囲まれた農業地帯でした。
二十数年前、母の死を契機に同じ様に茶畑に囲まれた土地に転居することになったのも、茶に育てて頂き、高等教育を受けさせて貰った恩を忘れないようにと言う先祖の思いからだと感じています。
私の実家は、昭和41年の父の死まで製茶工場を経営していました。
母は、クモ膜下出血で倒れるその日まで、炎天下の茶畑で重い茶の袋を担いでいました。
茶のみるい芽一枚一枚がお金と同じ価値と教えられて育ちました。
私は小学生の頃お茶工場で、農家が運んで来るお茶の生葉を買い取る仕事を手伝っていました。
製茶工場は、大勢の人達が威勢良く働いていて、とても活気があって賑やかでした。
母は、新茶の芽が萌えだすと、手摘みのГ手が燃える」と言っていました。
私は、散歩道で茶原を見ると、
茶畑の中に若き日の父や、母。近所のお茶摘みのおばさん達の笑顔が思い出されて懐かしい気持ちになります。
今でも、茶の葉の一枚一枚がとても愛おしく、製茶工場の香りが漂って来ると半世紀前の子供の気持ちに戻ります。