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こんにちは。
4年後にやってくる2020年東京オリンピック
そして4年後には社会人になっている就活生のみなさん。
夢に向かってチャレンジしていきましょう。
(画像:https://tokyo2020.jp/jp/ 2020東京オリンピック競技委員会公式サイト)
オリンピックにインスパイアで
就活ヒントを綴ります。
・・・・・休憩スポットはこちらへ・・・・・・・・
管理人tarebonはアメブロもやってますので、就活の息抜きでよろしければ、そちらもぜひご参照ください。(不定期更新)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★★★定期更新は★★★
原則週1回(土)+増刊で予定です。
◆夏まっさかり◆
★★★☆☆☆☆★★☆☆
■福沢桃介の挑戦■
1964年の東京オリンピックにあわせて開通した東海道新幹線は
福沢諭吉の娘婿だった福沢桃介のアイデアが出発点だった。
※※※※※※※※※※※※
岩崎桃介は、1868年(明治元年)埼玉県の秩父山麓に近い農村で生まれた。
桃介は頭がよくて学校の成績が抜群だったため東京に出て福沢諭吉が創設した慶應義塾の学生になった。そこで諭吉に見込まれて福沢家の養子になった。
アメリカに留学した桃介が目をつけたのは鉄道だった。
1889年に帰国した桃介は、全線が開通したばかりの東海道線に乗って
「こんな狭軌の鉄道ではダメだ。これからの日本に必要なのは、東京~大阪間を5~6時間で走る広軌の高速鉄道だ」
と考えた。
義父の諭吉にそのことを言うと、
「まだ早すぎる」
とたしなめられた。
※※※※※※※※※※※※
「栄光をめざす」田中孝顕(KIKO文庫1996年)から抜粋紹介
桃介は、このアイデアを実現させるために20年以上の歳月を費やしました。
■30年後の第一歩■
再び紹介しますね。
※※※※※※※※※※※※
桃介が帰国してから20年後の1907年(明治40年)、実業家の安田善次郎が日本電気鉄道を計画する。東京~大阪間に広軌の鉄道を敷設して、強力な電気機関車に牽引させて、30分ごとに東京と大阪を発車して6時間で東西を結ぶ。資本金一億円(当時)という計画だった。
桃介は安田善次郎に面会を求め、自分を日本電気鉄道の社長に自薦する。
しかしこの計画は、東海道線の経営を危うくするという理由で許可されずに、幻の鉄道で終わる。
1916年(大正5年)、後藤新平(のちの東京市長)が鉄道院総裁に就任すると、桃介は安田善次郎の了解と後援を得て、再度日本電気鉄道の計画を政府に持ち込む。
後藤から許可をもぎ取ったのは、桃介がアメリカのペンシルベニア鉄道で勉強を始めてから30年後のことだった。
※※※※※※※※※※※※
「栄光をめざす」田中孝顕(KIKO文庫1996年)から抜粋紹介
夢を実現させるために努力し、実現のめどが立つまでに30年。
しかしまだ困難が立ちはだかった。
■暗殺と震災と戦争■
1922年(大正10年)、桃介の計画の後援者だった安田善次郎が暴漢に襲われて亡くなり、鉄道建設のための資金計画が危機に陥った。
さらに関東大震災が発生したため桃介は鉄道計画を断念し、工事済だった名古屋~豊橋の区間は名古屋鉄道へ売却することとなった。
※※※※※※※※※※※※
その後、この計画は弾丸列車と名前を変えて、東京~下関間を結ぶ国営の広軌鉄道の計画になり、敷地の買収まで進んだが、戦争のために中止になった。
東京~大阪間を超高速の鉄道で結ぶという、安田善次郎と福沢桃介の夢が実現したのは、1964年(昭和39年)東京オリンピックの開催された年で、桃介の挑戦から50年後のことだった。
※※※※※※※※※※※※
「栄光をめざす」田中孝顕(KIKO文庫1996年)から抜粋紹介
夢をかなえるためには
努力と時間がかかります。
そして人によっては、その夢の実現が
次の世代によってなされることもあります。
先輩が後輩に夢のバトンを渡し
後輩がその夢を実現することもあります。
夢の実現にむかって
まずは前に進むチャレンジだね。
4年後の東京オリンピック。
どんな社会人になっているかな。
またね。
2016.8.20
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1964年の東京オリンピックにあわせて開通した東海道新幹線は
福沢諭吉の娘婿だった福沢桃介のアイデアが出発点だった。
※※※※※※※※※※※※
岩崎桃介は、1868年(明治元年)埼玉県の秩父山麓に近い農村で生まれた。
桃介は頭がよくて学校の成績が抜群だったため東京に出て福沢諭吉が創設した慶應義塾の学生になった。そこで諭吉に見込まれて福沢家の養子になった。
アメリカに留学した桃介が目をつけたのは鉄道だった。
1889年に帰国した桃介は、全線が開通したばかりの東海道線に乗って
「こんな狭軌の鉄道ではダメだ。これからの日本に必要なのは、東京~大阪間を5~6時間で走る広軌の高速鉄道だ」
と考えた。
義父の諭吉にそのことを言うと、
「まだ早すぎる」
とたしなめられた。
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桃介は、このアイデアを実現させるために20年以上の歳月を費やしました。
■30年後の第一歩■
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桃介が帰国してから20年後の1907年(明治40年)、実業家の安田善次郎が日本電気鉄道を計画する。東京~大阪間に広軌の鉄道を敷設して、強力な電気機関車に牽引させて、30分ごとに東京と大阪を発車して6時間で東西を結ぶ。資本金一億円(当時)という計画だった。
桃介は安田善次郎に面会を求め、自分を日本電気鉄道の社長に自薦する。
しかしこの計画は、東海道線の経営を危うくするという理由で許可されずに、幻の鉄道で終わる。
1916年(大正5年)、後藤新平(のちの東京市長)が鉄道院総裁に就任すると、桃介は安田善次郎の了解と後援を得て、再度日本電気鉄道の計画を政府に持ち込む。
後藤から許可をもぎ取ったのは、桃介がアメリカのペンシルベニア鉄道で勉強を始めてから30年後のことだった。
※※※※※※※※※※※※
「栄光をめざす」田中孝顕(KIKO文庫1996年)から抜粋紹介
夢を実現させるために努力し、実現のめどが立つまでに30年。
しかしまだ困難が立ちはだかった。
■暗殺と震災と戦争■
1922年(大正10年)、桃介の計画の後援者だった安田善次郎が暴漢に襲われて亡くなり、鉄道建設のための資金計画が危機に陥った。
さらに関東大震災が発生したため桃介は鉄道計画を断念し、工事済だった名古屋~豊橋の区間は名古屋鉄道へ売却することとなった。
※※※※※※※※※※※※
その後、この計画は弾丸列車と名前を変えて、東京~下関間を結ぶ国営の広軌鉄道の計画になり、敷地の買収まで進んだが、戦争のために中止になった。
東京~大阪間を超高速の鉄道で結ぶという、安田善次郎と福沢桃介の夢が実現したのは、1964年(昭和39年)東京オリンピックの開催された年で、桃介の挑戦から50年後のことだった。
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夢をかなえるためには
努力と時間がかかります。
そして人によっては、その夢の実現が
次の世代によってなされることもあります。
先輩が後輩に夢のバトンを渡し
後輩がその夢を実現することもあります。
夢の実現にむかって
まずは前に進むチャレンジだね。
4年後の東京オリンピック。
どんな社会人になっているかな。
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