TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

唐比を訪ねて

2023年02月27日 | 街道
「唐比」は「からこ」と読みます。
唐比は島原半島の付け根にあり、島原街道から長崎街道へ、あるいは多良海道へとつながる所です。
今回はその唐比を、歩きではなく車で訪ねました。


唐比天満宮 菅原道真を祀っています





石仏



ここには六地蔵石幢が2基ありますが


残念ながらお顔は潰されていました。





特筆すべきは本殿にありました(横から撮影)。


実は、この本殿の礎石には島原藩と佐賀藩(当時、諫早は佐賀領)の領境石が使われているのです。


ナント


「従是西佐嘉領」

もう一つの礎石にも

「従是西佐嘉領」

領境石ですので、元々は島原藩と佐賀藩の境にあったはずです。何とばち当たりなと思いましたが、墓石ではないのでバチはあたりません。現在、外側の面しか読めませんが、他の面に何と書かれているのか気になるところです。




唐比村庄屋元堀家





唐比一里塚へ

「唐比一里塚」はガイドブックや他の人のブログで下調べをしていました。そこには割と簡単に行けるように書いてあったのですが、なかなか見つけることができず今回探すのにもっとも苦戦した所です。
Googleの地図にも表示されていたので、スマホのナビで行っていたのですが


車を停め歩いて行きます。道は車の後方左側にありました。


この道です。


歴史の道という感じでしたが


行けども行けども、探せども探せども一里塚を見つけることができませんでした。

あきらめて、次の目的地に向けて車を走らせようとしたら「うん?」


車を停めていたところから10mほど行った曲がり角ですが、何となく道らしいものが見えました。

ひょっとして


これが道?


ダメ元で行ってみることにしました。この道は誰も通らないらしく荒れていましたが、これまで街道歩きで苦しめられたバカ(「くっつき虫」などとも言う植物の種子)がなかったのでなんとか進むことができました。

しばらく歩くと


標識らしいものが倒れています。


ありました!




この道は島原の殿様が参勤交代の前に長崎の様子を監視するために通られた道で、「長崎監視の道」とか「殿様道」とか呼ばれていたのですが「昔の光今いずこ」でした。





次の目的地は原口番所です。今回は車で回っているのであっという間に到着。
原口番所跡


石碑


かって坂本龍馬や勝海舟も通ったという歴史の道です。






首塚




高さが5mの円墳


島原の乱の犠牲者の首が葬ってあるのでしょうか
丘の上には


「南無…」と




ここからも雲仙のお山がよく見えていました。




次回はいつになるか分かりませんが、いよいよ島原城下から愛野までです。道のりが長いので久しぶりに自転車で回る予定です。



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島原街道を歩く5 木秀一里塚

2023年02月18日 | 街道
前回行くことができなかった木秀一里塚に再チャレンジしました。




S地点に車を置いて、そこから島原街道・木秀一里塚を目指しました。

①の地点


この道路の右手に山に入る道があったので、ここから登っていきました。
すぐに街道にぶつかりましたが…



またもやブッシュが行く手を阻みます。
右上の杉林には見覚えがあります。あの近くを前回彷徨いました。


③の地点 ここにも山への道が


登っていくと


いい感じ


ところが


ブッシュのため進めませんが、右上の杉林には見覚えがあります。このブッシュの先が前回挫折した箇所です。あと50mの所まで来ていました。50mと分かっていれば何とか我慢して進むこともできたかも知れませんが、あのブッシュがどこまで続くか分からない状態では進むという判断はできませんでした。

前回の軌跡をYAMAPで確認


今回の軌跡



でも、今いるこの近くに木秀一里塚はあるはずです。
しかし、見当たりません。

名案が浮かびました。この辺りはスマホの電波が届いているのでスマホで検索しナビしてもらうことにしました。


「100m 1分」と出ています

さらに西へ進みます。


ナビ終了


ここか?


一里塚の標識が立っているはずだが見当たりません。
もう少しブッシュをかき分けて進むと

ありました!


木秀一里塚


一里塚のさらに西へは行けそうもありません。


ここで引き返しますが、木秀一里塚を見つけることができ島原街道で間違いないことが確認できたので満足です。

戻り道 目的を達成し心に余裕があるのでブッシュを撮しました。


たいしたことないようですがバカ(くっつき虫)がいっぱい


茨?





用心しながら進むのですが、何度も茨でズボンを引っ掻きました。時には肌まで刺さることも。

「岨茨 いかにあるとも 努め拓きて…」(明治大学ワンダーフォーゲル部部歌「なため」)

心の中で「なため」を口ずさみ、自分を鼓舞しながら歩きました。

さて、この木秀一里塚ですが、長崎街道を辿ってここに行き着くのは、道がブッシュ化しているのでかなり困難と思われます。木秀一里塚を訪ねるだけだったら、今回私が行ったように車道に車を停めて山に入った方がいいようです。

車道からの入り口は冒頭の地図③番で、車の整備工場と卵の自販機が目印になります。


反対方向に卵の自販機



車道を歩いて車に戻り、今回の島原街道歩きは終了です。



今回までで諫早領の島原街道は終了です。
次はいよいよ島原領の島原街道に入ります。
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島原街道を歩く4 有喜~愛野 

2023年02月16日 | 街道
前回の街道歩きは諫早から愛野までの予定でしたが、有喜までしか行けませんでした。
またもやバカ(「くっつき虫」)の群生に行く手を阻まれ、途中で断念したのでした。
今回は、前回の続きなので、本来ならば有喜出発なのですが、都合により愛野を出発して有喜を目指しました。

島鉄に乗って愛野駅に到着。

駅舎には「愛の駅」と。

駅前のモニュメント

「ほほえみの像」



愛野温泉神社


元は「四面宮」でしたが、明治になって「温泉神社」に改称



御手水鉢


その横には明治になって外されたであろう「四面宮」の額束が置いてありました。

写真では分かりにくいですが右の額束がそれです。


土居口番所跡の碑





街道から外れますが、この近くには立派な石垣があって




石垣を見ながら丘を登っていったところに愛津村庄屋元深浦家



愛津城空堀跡



島原街道に戻り有喜を目指します。

愛津駅跡

今の「愛野」という地名は、「愛津村」と「野井村」が明治22年(1889年)に合併したとき、2つの村の頭文字をとってつけられた地名です。


三軒茶屋跡

江戸時代は3軒の旅籠があったのでこの地名が付いたそうです。


日吉神社


長い石段を登っていきます。






登り詰めるとそこには巨石が祀ってありました。



かわいい狛犬?





行きには素通りした説明板


あまりにも感激したのであらためて読んでみました。その一文に
「江戸時代、島原藩主松平公は参勤交代の折、必ず駕籠をとめられ日吉神社に参拝なされ長い道中の加護を祈られたそうです」とありました。
そうでしょう、そうでしょう。自ずとそんな気持ちにさせてくれるパワースポットでした .


唐比へ


野焼きの煙の向こうに雲仙のお山が見えています。

初めての指導標


「龍馬が歩いた道」

龍馬は長崎を目指して歩いているので、途中まではこの指導標を辿ればいいわけです。
さすがに龍馬はメジャーです、島原街道には全く指導標がないというのに。



唐比の長坂古墳の近くを歩いていますが、この辺りには「龍馬が歩いた道」に加えて「九州自然歩道」の指導標も設置されているので、心強いです。

「龍馬が歩いた道」は、Oh!ホテルへと続いています。


ホテルの横の道は「殿の道」と呼ばれる昔の道ですが、片側に太陽光パネルが延々と設置されました。


昔の道に現代の設備、その向こうには今も変わらないお山雲仙


「みそ五郎どん石」に到着



そして順調に横手頭追分へ


諫早に続く島原街道は右の道になります。左は九州自然歩道で有喜に続きます。

島原街道を木秀一理塚を目指し進みます。



また昔の面影が残る道となりました。


あれ?


またしても


バカ(「くっつき虫」)の群生に行く手を阻まれました。
この辺りのバカは強烈で、服に付いたバカをとっても種子の先端が鈎のようになっていて服に残りやっかいです。

今回も撤退です。
追分まで戻って有喜の町に下りることにしました。



再び横山頭追分(分岐)


今度は分岐の左の道を行きます。龍馬が長崎に行く時に通った道で、「龍馬が歩いた道」の指導標が立っています。

この道は九州自然歩道なので楽勝と思っていたのですが


思っていたのですが…


「九州自然歩道」の看板が落ちていました。


そして、またもやブッシュ


ただ、ブッシュの先にコンクリートの道が見えていたので、あそこまでならとバカをかき分けながら何とか前進しました。ゴールがハッキリと見えていると頑張れるものです。




振り返ると



「見ているぞ」


実は、島原街道の山の中は、不法に捨てられたゴミが随所にあったのです。
冷蔵庫、テレビ、車等々
あまりの惨状に「島原街道に捨てられたゴミ」というタイトルで特集をアップする予定です。


有喜の海岸に到着


海に向かって恵比須さまが祀られていました。
ここは漁師町らしく、恵比須さまは、はちまき姿も勇ましく海の安全を祈っておられるようでした。


白髪神社


同じ有喜でも今回目指した地点とは異なりますが仕方ありません。この日の島原街道歩きはここまでにし、バスで諫早に帰ったのでした。


今回の軌跡と予定していたルート


YAMAPの地図に、今回行きたかったルートを赤で入れてみました。ゴールマークGの上の赤い線がそれです。
悔しいので、赤色の部分をもう一度チャレンジします。
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島原街道を歩く3 諫早~有喜

2023年02月14日 | 街道
2月9日
島原に通じる方の島原街道を、今度こそ愛野を目指して出発しました。
回りくどい言い回しになったのは、諫早に通じる島原街道は2つあるからです。


(図書出版のぶ工房「長崎街道3 肥前長崎路と浜道・多良海道」に掲載の地図を一部加工)

地図の右側のルートがそれで、実際に歩いた軌跡は下の通りです。




愛野まで歩くつもりがとんでもないことになり、なんともへんてこりんな軌跡を描いて諫早に舞い戻っています。そのことについては本文の中で綴っていきます。


島原街道の合流地点を南下するのですが、半造川を渡ったすぐの丘が林の辻(りんのつじ)の古戦場跡です。


坂の右側に「陣の辻古戦場跡碑」が建っています。


伊佐早を治めていた西郷氏が、攻め入ってきた龍造寺氏と最後の決戦を挑んだ場所なので「陣の辻」(じんのつじ)ともいいます。

小栗小学校横を通り住宅地を登っていくと道は一変します。


今回は自分で計画した街道歩きなので、案内してくれる先生はいません。おまけに、このルートには指導標が途中まったくありません。長崎街道や多良海道には行く先々に指導標があったのですが島原街道は歩く人がほとんどいないマイナーな道だと実感しました。



昔の面影を残した雰囲気のいい道です(この辺は)。



倒木が増え、少しずつ道が荒れてきました。






この道は荒れているとは聞いていましたが、私は山歩きを趣味とする元ワンダラーですから、これくらいの悪路はなんてことありません。

ただ、つれ合いは「本当にこの道であっているの?」と不安がっていました。


そうこうしていたら見えました。


これが島原街道であること確定の「一理松跡」の石柱です。



尾根筋に沿ってさらに南下します。


こんなものもありました。


罠にかかったイノシシが私たちを見てさらに興奮し、何度も柵に体当たりをしました。

この辺りのも畑があります。


イノシシの被害があるのでしょう。
木々の間から遠く島原の山が見えています。当時の旅人も望郷の念にかられたはずです。



途中、木が伐採された所を通過



道がコンクリート道に変わりました。






右手に何やら建っています。



「二位尼の碑」の石柱でした。


でも、二位尼の碑の本物はこれです。


二位の尼は平清盛の妻時子のことで、壇ノ浦の合戦の折に安徳天皇を抱いて海に身を投じたといわれる人ですが、落ちのびてこの地で亡くなったという伝説があります。さらにこの先に「安徳天」と刻まれた石碑も残っています。

雲仙のお山



「安徳天」の石柱がありました。



その碑は道から少し登った静かな山の中に建てられていました。





碑が建っている山から来た道を振り返ると


旧島原街道は別名を「殿さん道」とか「殿様道路」といいます。島原のお殿様が参勤交代や長崎監視の折に通っていた道だからです。昭和の初め頃まではこの道は往来に利用されていたそうです。


道の脇の石仏


お花が供えられていました。
今も地元の方が祀っておられるのでしょう。



山道を抜けました。
有喜追分に到着。


ここは島原街道と有喜街道の分岐・合流地点です。籠立場跡でもあり格好の休憩地点だったようです。

山道を抜けたので後は楽勝だと思っていました。



道は平坦になりルンルンです。

橘湾も見えるし


雲仙のお山も見えるし


ところがです



好事魔多し!

歩きやすいと思っていた道が激変しました。
太陽を遮る木がなく日当たりも良好のこの道は、バカ(くっつき虫、植物の種子)が群れをなして行く手に立ちはだかるのでした。

しばらくは我慢していきましたが、半端ないバカの数です。
どうする家康!

全身バカまみれになって進むか、勇気ある撤退をするか。
連れとも相談し、ここは引き返して迂回することにしました。

これまで、藪こきや雪道のラッセルの経験はあるのですが、どこまで続くか分からないバカの道に負けてしまいました。
この後、予定にはなかった有喜街道を下ることに。

宇木城跡



そして大きく迂回し、島原街道の続きに出ました。冒頭の変な軌跡はそういうことです。

再掲


悔しかったので、迂回した後、逆方向から引き返した地点の確認に向かうことにしました。

逆方向から攻める。いいぞ。


攻める。


攻める…




またもやバカの群生に進路を阻まれ、無念の断念。



赤の矢印部分がバカの群生に行く手を阻まれた部分です。距離にして約150m。
黄色が迂回した道です。
青い矢印は、愛野に通じる島原街道の続きでした。

引き返す


逆コースの入り口(本来の街道の出口)に到着




黄色の矢印の道を行けば目的地の愛野ですが、今回の島原街道歩きはここまででした。
バカの大群落に行く手を阻まれ大きく予定が狂いました。
ああ、島原街道の道険し。

この後は車道を歩いて諫早まで帰りました。
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諫早探索(島原街道2)

2023年02月13日 | 街道
先日の「島原街道を歩く」で歩いたコースをもう一度じっくりと見て回りたくて、一人でブラリと歩いてみました。
歩いたのは諫早中心部の700mほどで、前回とは逆に南から北へと向かいました。
コース中の史跡については前回説明を受けていたので、興味があるところを時間を気にせず見て回ることができました。


スタート


明治道標です。この面には、上に「北-南」、その下に「諫早村大字上…」と刻まれています。残念ながら下の方は判読不能です。


旧諫早刑務所跡




以前は広大な敷地でしたが、今は正門だけが保存され再開発されました。

説明板



広福寺


諫早の詩人、伊東静雄はここに眠っています。


石坂山慈眼院


令和になって再建された寺です。



曼荼羅







天井絵と龍







お守り







平仙寺


島原と縁の深いお寺です。その昔、雲仙のお寺がキリシタンの焼き討ちに遭った際に、不動明王を奉じてここに避難し、諫早家の庇護の元に開山したのがこの寺だそうです。また江戸時代には、島原のお殿様も休憩場所として使われたそうです。


「踏まれても根強く忍べ福寿草やがて花咲く春はくるなり」

これを見て、無性に福寿草が見たくなりました。



植え込みの松が通りに出ないように剪定されています。街中にあるお寺なので仕方がないのですが、何かしら窮屈な感じがしました。

六地蔵石幢!


一昨年、諫早の六地蔵石幢を訪ねて回りましたが、こんなに近くにあったのを見落としていました。私の中での大発見です。

傷みが少なくお顔もきれいです。



高麗小路(こうらしゅうじ)へ




恵比須さん横の石畳に説明があります。







川に沿って奥に入っていくと、説明板(石)にあった橋がありました。
高麗小橋


橋を渡っていくと


趣のある喫茶店があって


さらに進むとありました。高麗井戸です。




福田屋


うなぎ屋さんです。


創業が文久3年(1863年)と歴史が古く、この建物は昭和4年(1929年)に建てられた木造の3階建てです。

お店の横には恵比須さまが祀ってありましたが


私がカメラを向けるとニッコリと笑ってくださいました。



旧諫早銀行本店


この建物も古く、昭和6年(1931年)に建てられた鉄筋コンクリート2階建てです。当時の屋根の装飾が色あせながらも残っています。


天井から出ているのは煙突?


歴史を感じさせる重厚な建物ですが現在は閉鎖されています。



眼鏡橋


諫早図書館にありました。
眼鏡橋は諫早のシンボルです。


諫早探索は以上です。
「島原街道を歩く」の折には、時間の関係もあってゆっくり見学できなかった所やパスした所を一人でじっくりと見て回りました。
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島原街道1

2023年02月12日 | 街道

「島原街道」については島原出身でありながらあまり知りませんでした。
諫早市美術・歴史館主催で「島原街道を歩く」の企画があったので参加をさせてもらいました。

1月29日 講座(座学)



島原街道の概要を学びました。知らなかったことばかりで俄然興味がわいてきました。

諫早を通る街道

(図書出版のぶ工房「長崎街道3 肥前長崎路と浜道・多良海道」に掲載の地図を一部加工)

諫早を通る島原街道は2つあります(教わったことの受け売り)。赤と黄色に色を付けているのがそれです。
月が変わり、2月4日に講師の先生の説明を聞きながら実際に島原街道を歩きました。


2月4日 島原街道を歩く

集合場所の諫早駅まで歩いて行きました。まずは、その様子です。

眼鏡橋


本明川


諫早神社


アーケード


新幹線が停車していました。

諫早駅


集合場所 出発前の確認



さあ、いよいよ出発です。


一発目は恵比須像


以前のブログでも紹介しましたが、諫早の街中ではこの石造り恵比須像をよく見かけます。


高麗小路


「こうらしゅうじ」と読みます。「小路」を「くうじ」と言う呼び方は佐賀にありますが、「しゅうじ」は珍しいです。
島原半島にも「神代小路」がありますが、これは「こうじろくうじ」と読みます。神代が鍋島藩の飛び地だったので佐賀と同じ「くうじ」という呼び方です。

石坂山「慈眼院」


その由来


「石坂山」は平安末期に開山したお寺ですが、明治の神仏判然令で廃寺になったそうです。

ところが、元号が「令和」になったのを機に再興されました。

慈眼院の中 天井絵と龍


明治道標


この場所は江戸時代までは長崎街道と島原街道の分岐・合流点だったそうです。
今はこの石柱の四面にそれぞれの行き先が刻んであります。

道路の向かい側に石造物群があります。


この石造物は何回も見ていましたが、黄色で囲んだ石造物に注目


何か文字が彫ってありますが、私はてっきり梵字と思っていました。ところ講師の先生の説明で「石坂山」と彫ってあることが分かり感動しました。先ほど見た石坂山「慈眼院」とつながったのです。慈眼院は令和になって再建されたばかりの新しいお寺ですが、この石造物が遠い昔に「石坂山」があったということを無言で伝えていたのです。

しかも、これは手水鉢でした。


随分と変わった形をした手水鉢です。こういうのも教えてもらわないと分かりませんでした。

同じところですが


みんながのぞき込んでいるのは

毘沙門天


石造りの毘沙門天は珍しいそうで諫早ではここだけだそうです。
その足にはしっかりと邪鬼を踏みつけています。


さて、先ほどの明治道標の地点ですが、今回の「島原街道を歩く」はここから進路を西に変えて長崎方面に向かいました。「島原じゃないのか…」との思いはあったのですが、要項にも「島原街道 諫早駅~西諫早駅」としっかり書いてありました。
冒頭にも書きましたが、諫早に通じる島原街道は2つあり、今回は諫早から長崎に通じる方(赤い方)の島原街道を歩いて行きます。


(図書出版のぶ工房「長崎街道3 肥前長崎路と浜道・多良海道」に掲載の地図を一部加工)

そんなわけで、一行は西に向かって進みます。


エプロンにQRコードが付いていました。


西郷の板碑


高さが2mもある大きな板碑です。


これは胎蔵界大日如来を表しているそうです。


茶臼山へ


ここは戦国時代の砦の跡です。





石仏に混じってこんなものがありました。


これは石ではなく焼き物だそうです。
昔はこの近くに甕山焼という窯元があったそうで、そこで焼いたものらしいとのことでした。


最後の見学地「さやごぜん」


「さやごぜん」は道祖神のことだそうです。




今回の島原街道歩きはこれで終わりです。
ただ、島原出身の私は島原に続く方の島原街道が歩きたくて講師の先生に、そちらを歩く企画がないかとお尋ねをしました。そしたら、島原に通じる道は街道の一部が荒れていてみんなで歩くのは困難だろうと言われました。

通るのが困難?
荒れている?

それならなおのこと、是が非でもその困難な方の、我が故郷につながる方の島原街道を歩いてみたくなったのでした。
 
 
この日のデータ(YAMAPより)
 
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多良海道を往く

2022年12月11日 | 街道
コロナで一時中断していた史跡見学(諫早市美術・歴史館主催)に久々に参加し、多良海道を諫早から肥前長田まで歩いてきました。その中で特に印象に残ったことを紹介します。

1 諫早神社(明治の神仏分離前は「四面宮」と言っていました)

本殿


側面の木の壁


これがナント、一枚板!


元の木はどれだけ大きかったことか…
境内のクスノキも大きいのですが、あれほど大きな板はとても取れません。

クスノキ群(県指定天然記念物)



手水鉢


手を清める手水鉢ですが、水ではなくアルコールが置いてあります。
さらに、木彫りのアマエビ様も


近い将来、お手水鉢に水が流れ、アマエビを指しては「コロナ時代の名残だね」と言える日が来てほしいものです。

参道の石


参道に並んでいる石のことがわかりました。
等間隔で埋めてある石は、元は本明川の飛び石だったそうです。昭和32年の諫早大水害で流されていた石を、後の河川改修工事のときに発見し、諫早神社の参道に埋めたそうです。
今の飛び石は水害後に新たに置かれたものだそうです。

今の飛び石






2 慶巌寺

摩崖仏所三十三観音


中には色が残っているものもあります。



山門


この山門は元は四面宮(今の諫早神社)の境内にあった荘厳寺のものですが、明治の神仏分離令により荘厳寺は廃され、山門だけが慶巌寺に移されたそうです。

中央部をよく見るとお猿さんのレリーフが施されています。


お猿さんが食べているのは桃で、これは不老不死を表しているそうです。


3 安勝寺

時鐘楼


黄葉した銀杏


紅葉



4 寄り道
安勝寺の後、多良街道から少し外れて寄り道をしました。

珍しい恵比寿様のレリーフ


鯨塔

諫早で鯨が獲れていた名残の石碑です。

龍宮

水神? 海神?

野呂邦暢宅跡




諫早市を舞台にした小説や随筆を多く残した芥川賞作家の野呂邦暢氏の終の棲家跡。諫早愛がにじみ出ている「諫早菖蒲日記」や「落城記」はこの地で誕生しました。

光江津


河川改修で姿が変わったと思いますが、江戸時代ここは重要な河口港だったそうです。佐賀までは、陸路だと3泊4日かかるのが、船だと天気にもよりますが14~15時間で行けたそうです。ただし、干満の差が大きい有明海なので、満潮時しか船がつけられず、上げ潮入船、下げ潮出船だったそうです。

「光江」の地名を残す石碑

「旧地名 光江」


5 妙本寺

多良海道沿いの石段を登って妙本寺へ


そこは見晴らしのよい高台になっていました。


私のホームマウンテン上山もバッチリ見えています。それもそのはず、ここは昔の山城の跡に建てられたお寺だそうです。

新しい観音様も建てられていました。


大きい!


美しい!



6 肥前長田駅
長田にある天満神社も見学する予定でしたが、帰りのJRの時刻が迫ってきたのでパスすることになり肥前長田駅へ。



肥前長田駅の時刻表


14:49発で帰りましたが、これを逃したら次は17:17なので見学地を一つパスして正解でした。
多良海道はこの後、湯江、多良、浜、鹿島、牛図、佐賀へと伸びていて、今回歩いたのはその一部でした。
続きはまたの機会に。
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旧長崎街道 ~ 大村街道(歴史の道百選)

2014年11月30日 | 街道
同窓会(OB会?)の案内をいただいたとき、「オルレ」という言葉に衝撃を受けました。
「オルレ」って何だろう?知らなかったので、さっそく調べました。

「『オルレ』は韓国・済州島から始まったもので、もともとは済州島の方言で『通りから家に通じる狭い路地』という意味。自然豊かな済州島で、トレッキングする人が徐々に増え、『オルレ』はトレッキングコースの総称として呼ばれるようになった」とのこと。(「九州旅ネット 九州観光情報サイト」引用)

さらに、「済州島と同じように九州には四季の美しい風景があり、トレッキングに適した山岳を五感で感じ九州の魅力を再発見してもらいたい。そのような思いで、九州オレルのコースを整備しました」とあります。

実際に歩いた九州オルレ・久住・やまなみコースは、自然を堪能できるすばらしいコースでした。でも待てよ、このオルレのように、身近な美しい自然を広く紹介する取り組みは、「九州自然歩道」をはじめ、これまでもいろいろとあったはずです。いま、新たに「オルレ」がはやりだしたのは、「冬ソナ」や「Kポップ」等の韓流ブームが背景にあるのではないでしょうか。もっとも「九州自然歩道」が整備されたのは30年以上も前で、最近は利用者も少なく荒れているコースもありますので、トレッキングコースの世代交代なのかもしれません。ただ、コースの名称は変わっても、そこには昔から変わらない美しい自然があります。

さて今回は、トレッキングコースと言ってもいいような昔からある「道」で、「旧長崎街道」についてです。中でも、「大村街道」と呼ばれる諫早市の破籠井(わりごい)から大村市との境までの山間部の道は昔の面影をそのまま残し、「歴史の道百選」にも選ばれれています。











どうですか、時代劇のロケに使えそうなすてきな山道でしょう。でも当時は長崎と小倉を結ぶ重要な道でした。今で言う国道です、しかも超一級の!
鎖国の時代は長崎にのみ西洋の進んだ文明が入ってきていました。それを学んだ各藩の若き英才達は、この長崎街道を胸ときめかせながら歩いたに違いありません。明治になって本明川沿いに鉄道や国道が開発され、そちらが人や物の移動の中心になったため、この「大村街道」はタイムスリップしたかのように、昔のままの姿を現在に残しています。


諫早領と大村領の境の「日野峠」です(今の国道34号線では「鈴田峠」と言います)。写真の大きな石が藩境石で、「弁慶の足形石」とか「鬼の足形石」とも呼ばれています。

この峠付近は黄葉していました。


杉林の中を道は鈴田へと続きます。道の脇には「旧長崎街道」の案内標識が立ててありました。



= おまけの画像 =


「どんばら石」 「どんばら」はこちらの方言で大きなお腹のこと。

このようにならないように節制しなければ…



残念な破籠… 上の「どんばら石」の近くに捨ててありました。


この大村街道の諫早側の地名が「破籠井(わりごい)」です。長崎街道を旅する人が昼食をとったことに由来するそうです。「破籠(わりご)」は古語で、檜の薄い白木で作った弁当箱のことです。昔の弁当箱は捨てても(当時の人が捨てていたかどうかは分かりませんが)自然に還りますが、現代のコンビニ弁当の容器は自然には還りません。「九州オルレ」の歩き方のマナーの中にも「ゴミは持ち帰りましょう」なんて一文が書いてありましたが、アウトドアの常識というより、世の中の常識ですね。


「大渡野番所跡」 出入国を取り締まった役所の跡



今回、この旧長崎街道を歩いたのは4時を回っていました。陽が傾きかけ日没との勝負でしたが、当時の旅人も多くはそんな状況ではなかったかなと想像しました。長崎を発って諫早で宿をとれば余裕の旅ですが、長崎で学んだことを、いち早く藩に報告しなければとの思いから、急ぎ足で大村宿を目指したのではなかったでしょうか。いろんなことに思いを馳せながら歴史の道を歩いてみました。
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