TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

「北辰斜に」

2017年08月23日 | 南に遠く(不知火尞)
「北辰斜に」は旧制第七高等学校造士館の代表的な寮歌の一つです。

初めてこの歌を聞いたとき「あれっ?」と思いました。
歌詞こそ違え、中学校の時、そして高校の時の応援歌とメロディーが同じだったからです。
さらにいうなら、大学の時もボックス横の宴会で酔いが回り、戯れに高校の応援歌を歌ったら明善高校や大川高校の出身者が同様の驚きの声を発したのでした。身近なところでこうですから、このメロディーはそうとう広がったと思われます。

今回の写真は鹿児島市内にある鶴丸城跡を訪ねたときのものです。


七高生久遠の像



巻頭言



「北辰斜め」の歌詞





「北辰斜め」の歌はユーチューブで!
 → 「北辰斜め」 緑咲香澄

 →「北辰斜め」(巻頭言入り)
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「武夫原頭に」

2017年08月23日 | 南に遠く(不知火尞)
「武夫原頭に」は旧制五高の代表的寮歌です。

今回使っている写真は、数年前に熊本大学の中にある五高記念館を訪ねたときのものです。

















寮歌の練習(特訓?)風景他、展示してあった旧制高校時代の写真を興味深く見学させてもらいました。













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「南に遠く」2

2017年08月07日 | 南に遠く(不知火尞)
新たに「南に遠く(不知火寮)」のカテゴリーを起こしました。
ブログ更新が滞っているときもよくアクセスしてもらっているページだからです。

「南に遠く」の歌詞を調べたくて、佐賀大学の図書館まで出向いたのは2012年のことです。
当時はネット上にそれに関するものを見つけることができなかったからです。
ところが今年、何気なく「南に遠く」と入力したらなんと「南に遠く」が歌詞・曲・歌入りでアップされているではないですか。これには驚きました。

(下をクリックするそのページにいきます)
①「南に遠く」 歌:緑咲香澄

②「南に遠く」 歌:佐賀大学混声合唱団コーロカンフォーラ


①は初めて聴くものでしたが、「『南に遠く』を求めて(3)」でも述べていたように、
1番の「ゆゑ知らぬ」の「」と、2番は「不知」の「」と、「火」を「ひ」と「い」に使い分けて歌っています。そんな細かいことをと言われそうですが、わざわざ佐賀大の図書館まで行って調べた成果ですのであえてこだわらせてもらいます。

②は巻頭言入りで、「旧制佐賀高等学校80周年記念寮歌集」に収められていたもののようです(後輩のDが私のブログを見て、私にこれを送ってくれていました)。背景に昔の不知火寮と現在のその跡地の写真が使われていて一気に懐かしさがこみ上げてきます。

私も5年前図書館で調べた後に不知火寮跡を訪ねました。そのときの写真です。








図書館で見つけた不知火寮最後の尞誌



巻頭言




それに収められていたストームの写真を3枚









在りし日の不知火寮


私が4年生の時に、立て替えのため閉寮となりました。そのときは歴代の寮生が羽織袴や学生服といった出で立ちで集い、盛大に、そしてしめやかにファイヤーストームが行われました。
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本島氏の思想

2015年01月25日 | 南に遠く(不知火尞)
 一昨年、旧制佐高の代表的な寮歌「南に遠く」について佐賀大学の図書館で調べていたとき、元長崎市長の本島等氏の原稿を偶然見つけました。1982年の「不知火」に、次の原稿を寄せてくださっていました。
 本島氏は長崎県の五島の出身で、旧制佐高在学中に徴兵され軍隊に入られました。戦後、京都大学を卒業後され、教員、県議を経て長崎市長になられた方です。



原文は以下の通りです。

長 崎
                    理一  本島 等

 長崎は桜が去って、つつじの頃になった。
 昭和十九年三月桜の下で佐高生活に別れをつげ、久留米五十一部隊に入隊、後熊本の西部軍管区教育隊に転じて、見習士官になったが、八月九日長崎に原爆投下、入隊の時、見送ってくれた多くの友人を失った。教育隊を卒業して、その儘残されて、後から来た特別甲種幹部候補生の教育にあたった。想えば変転きわまりない時代であった。
 戦争を知らない者、原爆を知らない者が多くなり、平和に対する無関心がまだまだ支配的だと思う。
 今、長崎は長い栄光の歴史と原爆による悲劇の町、私も毎日雑事に追われている。皆様の御健康を心からお祈りしたい。(理一 溝口宛)


 1982年といえば不知火寮閉寮の年ですが、本島氏はその時にはすでに、長崎市長に就任されていました。そしてその6年後、市議会での「私が実際に軍隊生活を行い、軍隊教育に関係した面から天皇の戦争責任はあると私は思います」の答弁が議論を呼び、それに反発する右翼団体幹部から襲撃されるという痛ましい事件が起こりました。1990年1月18日のことでした。

 凶弾は胸を貫通し重傷を負われた本島氏は、病院での記者会見で「言論の自由を暴力で封じる行為をどう思うか」の質問に、「たとえ相手に心臓をえぐられるようなこと、悶絶して死ぬようなことを言われても、なおかつ相手の立場を尊重するというところにまで至ってこそ、初めて本物の言論の自由だと思う」と答えられています。(「本島等の思想」より)


 言論の自由、表現の自由、思想信条の自由…、長きにわたって人類が築き上げてきた叡智が、崩れ去るような出来事が続いている中、あのとき見た本島氏の原稿のことと、氏の高邁な思想が思い出されました。
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「南に遠く」を求めて(5)

2014年01月27日 | 南に遠く(不知火尞)

 今回は4番、5番についてです。「南に遠く」を求めるきっかけとなった、
こうちょう」、「きょうとう」、「えんりょう」の言葉はご覧の通りでした。


(四) 宴の園に散る花は
    又来ん春は咲くとても
    三とせの春の過ぎゆかば
    候鳥の身の君と我れ
    火の翼もてかけりゆく
    空のかなたを思はずや

(五) 狂踏の譜に春闌けて
    乱舞の曲に秋逝けば
    炎涼ここにいくとせぞ
    青史は香る六寮に
    命も若き旅の子の
    自治の宴の深まりぬ
    自治の宴の深まりぬ

 やっとの思いで、ここにたどり着くことができました。足でしか稼ぐことのできなかった情報です。漢字が分かったので、意味を調べることができました。

「こうちょう」は「候鳥」、渡り鳥の意。
「かけりゆく」は「翔りゆく」で、鳥が空高く飛んでいくということ。
「たけて」は「闌けて」、真っ盛りになること。たけなわ 。
「逝く」は年月、時日が経過すること。
「えんりょう」は「炎涼」、暑さと涼しさ。
「せいし」は「青史」で、歴史や事実の記録の意味。昔、青竹の札に書いたことに由来しています。 

 5回に渡って「南に遠く」についてを綴りました。
「南に遠く」を求めて佐賀に遠征したことは、ブログを中断していた7か月の中で、一番思い出深いことでした。



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「南に遠く」を求めて(4)

2014年01月25日 | 南に遠く(不知火尞)


今、私が読んでいる新聞の小説に「劉邦」が連載されています。
昔、司馬遼太郎の「項羽と劉邦」や、漫画で本宮ひろしの「赤龍王」、石ノ森章太郎の「項羽と劉邦」などを読んでいたので、毎朝、新聞を開くのが楽しみです。劉邦のライバルである項羽が詠んだ漢詩「垓下歌」は、高校の漢文の教科書にも載るなど、広く知られています。

 力抜山兮氣蓋世     力は山を抜き 気は世をおおう
 時不利兮騅不逝      時に利あらず 騅ゆかず
 騅不逝兮可奈何      騅のゆかざる いかんすべき
 虞兮虞兮奈若何      虞や虞や 若(なんじ)をいかんせん
     (「垓下歌」)

さて、「山抜かんとて持つ力、世を覆わんとて抱く意気」ではじまる「南に遠く」の3番は、項羽の「力抜山兮氣蓋世」を踏まえたもので、作詞者である園田卯吉氏の漢文に対する造詣の深さがにじみ出ています。

(三) 山抜かんとて持つ力
    世を覆はんとて抱く意気
    生火となりて血は湧けど
    「三年不又不
    雲雨を待ちて筑紫野の
    月を仰ぎて觴咏す


「三年不又不」は、「史記 楚世家」の「楚の荘王が三年間酒色に耽って政治を顧みないのを臣下が諫めると、王は『飛べば天まで上がり、鳴けば必ず人を驚かすだろう』と答えた」という故事から、実力のあるものが、それを発揮する機会をじっと待っていることのたとえだそうで、そのまま原文を引用されています。「雲雨」は、力量を発揮する機会、「觴咏」の「觴」は杯で、酒を飲みながら詩歌を吟ずることと、調べれば調べるほど、初代生駒校長が作詞者の園田氏の才能を絶賛されたのがよく分かります。(続く)




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「南に遠く」を求めて(3)

2014年01月25日 | 南に遠く(不知火尞)


旧制佐賀高校不知火寮寮歌「南に遠く」の歌詞について、佐賀大学楠葉同窓会「なんよう」No,97に、
「『南に遠く』は昭和7年にできた佐高が誇る畢生の作で、代表的な寮歌だ。園田卯吉が作詞し宮本(後に丹治) 汪が作曲した。生駒萬治校長は『園田の奇才、宮本の楽才、ここに極まれり』と絶賛した。」と、大谷希幸氏の記事が載っていました。
確かに、「南に遠く」の原文を目のあたりにして、使われている言葉の深さやベースにある漢文の素養にあらためて驚かされました。
また、自分の中で完結していたはずの1番から3番の中に、いくつかの発見がありました。
今回はまず、1番と2番について紹介します。

昭和7年度佐賀高等学校不知火寮寮歌「南に遠く」 作詞:園田卯吉
 
(一) 南に遠く振古より
    ゆゑ知らぬ火の熾りたち
    あけくれ若き血に煮ゆる
    男の子の鴻図うながせば
    健児つどへるこの野辺を
    人あがめたり「火の国」と

(二) ああ青春よ我にまた
    胸に燃え立つ火のありて
    ゆくてはるけき人の世の
    旅のしるべを求めてぞ
    伝へも奇しき不知火を
    名に負ふ寮にこもりたり

発見として、1番は「ゆゑ知らぬ火(ひ)」の「ひ」で、2番は「不知火(しらぬい)」の「い」となることです。
「火」を「ひ」と「い」と使い分けていますが、全体の流れを考えるとなるほどと納得します。また、「こうと」と歌っていたところの漢字が「鴻図」となっており、辞書を引いて初めて「大きなはかりごと」ということを知りました。
同じように4番や5番に出てくる「こうちょう」「きょうとう」「えんりょう」などの単語は、自分の語彙力ではまったく歯が立たない言葉でした。






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「南に遠く」を求めて(2)

2014年01月24日 | 南に遠く(不知火尞)





鍵の掛かっている書庫の片隅で見つけた宝物。
ネットでどうしても検索できなかった「南に遠く」の歌詞。最後の手段として現場に赴いたわけですが、足で稼ぐことはやはり大事だなと思った瞬間でした。
書庫には他にも、いろいろな宝物が眠っていました。
寮誌「不知火」もその1つです。1982年6月「最終号」には、最後の入寮生としてワンゲル同期のTの名前が寮生名簿の最後に記されていました。
また、大学4年の冬に見た不知火寮最後のファイヤーストームが、1982年12月19日であったことと、
「佐高以来のOB200余名が集い、夜空に『南に遠く』が響きわたった」とも記されていました。
私たちの青春の存在証明を見つけたようで、うれしく思いました。
満ち足りた気持ちで図書館を後に、懐かしのキャンパスを歩き、不知火寮のあった場所を訪ねてみました。
そこは生協の建物に変わっていましたが、周囲の松林がかろうじて昔の面影を残していました。
「此の地に不知火寮在りき」の石柱が建てられていましたが、今の学生さんには昔の話でしょう。
また、「南に遠く」の歌詞の石碑も建てられていました。その裏面には寮で青春の日を過ごした熱い思いが刻んでありましたが、これも今は昔です。
でも、ここで寮生活をおくった人たちには、自分たちの存在証明であり輝く青春の記念碑にちがいありません。(続く)






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「南に遠く」を求めて(1)

2014年01月19日 | 南に遠く(不知火尞)


7か月、ネットのない生活をおくりました。
はじめの頃は、いろいろと不自由を感じていました。
買い物、交通機関や宿の予約、調べ物にと、現代は生活のツールとして、ネットがあたり前の世の中になっています。
途中、インターネットの光を契約をしたのですが、工事をいつまでも待たされたので、短気をおこしてキャンセルしました。
短気は損気と後悔もしましたが、そのうちネットのない生活にも慣れました。
情報源として、新聞はよく読むようになりました。
ネットでの衝動買いもなくなり、物が増えないと家内は喜んでいました。
そんな中で、調べ物だけは困っていました。
先日、やっとネットを繋ぎ、いろんな情報が瞬時に手に入ることの便利さを今更ながらかみしめています。

ブログ復帰第1弾として、ネット中断中に調べた「南に遠く」の歌詞について、数回にわたって述べてみたいと思います。
旧制佐賀高校の寮歌については、以前のブログで何度か綴りましたが、あれは自分の中では完結していたのですが、後輩のDが旧制佐高の寮歌のCDを送ってくれて4番、5番の存在を知りました。
ところが、CDを何度聞いても歌詞が聞き取れませんでした。また、聞き取れても意味がつながりませんでした。
「コウチョ-」「キョートー」「エンリョー」等です。
自分の中にある語彙で変換しても意味が通じないのです。これはネットでずいぶん調べましたが、どうしても分かりませんでした。そもそも、「南に遠く」の歌詞をアップしているのは私と同期のTのブログだけのようです。(たぶん)

どうしても気になっていたので、意を決して、佐賀大学の図書館に行くことにしました。(平成24年11月22日のことでした。)
「旧制佐高時代の物はほとんど残っていませんね」と、図書館の受付で説明を受けたのですが、ダメもとでとふだんは閉まっている2階の書庫の鍵を借りて中を調べました。
無機質な書庫の中、郷土コーナーの書架から、佐高同窓会が出している数冊の冊子を見つけました。ひょっとしたらこの中に…。一気に期待が高まりました。
はたしてその中の1冊、「あった!」と、誰もいない部屋の中で思わずこぶしを握りしめました。(続く)






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一つの源流として~不知火寮々歌巻頭言 

2013年04月27日 | 南に遠く(不知火尞)
在りし日の不知火尞


【寮訓】
仰げば星斗欄として永久の心理を囁き、頭を廻らせば不知火炎々として若人の熱を語る。自然の恵豊かなる此の筑紫野の一角天地の精気凝りて立てるもの実に吾が佐高不知火寮なり。抑抑(そもそも)吾が不知火寮の使命たるや吾人が学道練磨の一大道場となると共に又まさに吾が校風淵源たるに在り。されば此の寮に学ばんものは深く吾が寮生活の意義を省み各自誘掖切磋以て学道の純熱を力め毅然卓立混濁の世俗に超越して質実剛健の精神を把握して以て若き日の完成を此處に期せざるべからず。
   昭和戍春日
                紀堂 (生駒萬治:佐賀高校初代校長の雅号)

不知火尞々訓



不知火寮の寮歌やその巻頭言について調べて分かったことがある。
いくつかのパターンがあるものの、巻頭言は結構似かよっている。
ところが、いくつかある源流の一つに旧制佐高の不知火寮寮歌の巻頭言があるようだ。

例えば次の熊本大学の「武夫原頭に」の巻頭言は、地名等の固有名詞こそ違え文章としてはほぼ同じである。
旧制五校ではなく、新制熊本大学で下記の巻頭言が定着したとのこと。
(このあたりの経緯については「『北辰斜めに』の巻頭言について」http://www.sci.kagoshima-u.ac.jp/~dosokai/dosokai/shichaku/2006/hokushinnaname/kantougen.htm等を参考にした)

 仰げば星斗爛煥として
 永遠の真理を囁く 
 頭を巡らせば蘇山遠々として
 我等若人の情熱をそそる
 天地の恵み豊かなる肥後の一角
 立山の麓白川が畔(ほとり)
 これぞ我等五高健児の地なり
 いざや舞わんかな狂わんかな歌わんかな
 我等が剛毅木訥の調べを
 武夫原頭に草萌えて

他にも似ているもの見つけることができるが、制作された年代ではいずれも不知火寮のそれが先である。
このことは旧制佐高寮歌の巻頭言、ひいては初代校長生駒萬治氏の「寮訓」があまりにも名文であったということの証に他ならないであろう。

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