TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

愛のまち

2015年12月31日 | 島原
「愛野町」は「あいのまち」と読みます。
愛野町は「愛」をテーマとした町づくりをしています。
2015年最後のブログは、愛野町を取材して見つけた「愛」へのこだわりを紹介して締めくくります。
(上山70回は残念ながら達成できませんでした。)

モニュメント


ときめきの像の台座にも「愛」


島鉄愛野駅


四つ葉のクローバー


駅舎のてっぺんの矢印は…


吾妻駅方向を指しています。前回も紹介しました「愛野から吾妻」、「愛しのわが妻」への思いは、一方通行で後戻ることはできない強い愛を表しているそうです。

ほほえみの像


ベンチ




愛野駅前には、上の写真のようなベンチが複数置かれていますが、中央を境に対称に色分けされています。そこに座る二人がどの色の部分に座るかで二人の愛情が度がわかるとか…。
以上、愛野町の「愛」へのこだわりの一例を紹介させてもらいました。



”TENNZANBOKKA78”を訪問していただき、ありがとうございました。
みなさまにとりまして、新しい年が愛に満ちたすばらしい年になりますように祈念申し上げます。






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さっぱりとした「つつじ園」

2015年12月30日 | 上山の四季
上山のメイン道の除草については「雨上がりの上山」で紹介しましたが、雑草がひどく「やぶこぎ」をした上山つつじ園の脇道もさっぱりと除草されていました。

12月13日、行く手を阻んだ雑草の道


ご覧の通り、除草され、さっぱりとしていました。


つつじ園側は、写真でわかるように日当たりがよいので雑草が茂るわけです。


【看板】 この看板は、南北が逆でしたので、上下を逆さまにしています。つつじ園は南側の斜面ということがわかります。


季節外れのつつじ


きっぱりと落葉したつつじ園の四阿


上山山頂の展望台 日当たりのよい南側は椿が咲き誇っていました




昨日12月29日は、穏やかな天気に恵まれて、今年66回目の上山でした。
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島原半島の地名3  読めますか?

2015年12月29日 | 島原
「大三東」  さて、なんて読むでしょうか?


正解は


「おおみさき」です。
かって島原藩領の3つの村、大野村、東空閑村、三之沢村が明治になって合併したとき、それぞれの地名を一字ずつとって大三東村となりました。
その後、隣の湯江村と合併し有明村に。有明町を経て、現在は平成の大合併で島原市に編入されています。


「大正」


大正時代に、古部村と伊福村が合併し、年号をとってこの地名となりました。古部も、伊福も歴史ある地名です。現在も地区名やバス停、駅名で残っています。



    


大正地区は、現在の雲仙市瑞穂町です。
瑞穂町は昭和31年にできた新しい地名ですが、「瑞穂」とはよく名前をつけたものだと感心します。瑞穂とは「みずみずしい稲の穂」と広辞苑に出ていますが、雲仙岳の裾野に広がるこの地区は、きれいな水が流れ、美味しいお米がとれる所として有名です。




なお、瑞穂町は大正村と西郷村が合併してできた町ですが、西郷村は明治の町村制施行時に西郷村と伊古村が合併してできたものです。西郷も伊古も中世以前から存在する歴史ある地名です。

 


このブログ作成のために、島鉄の駅やバス停の写真を撮りに出かけました。久しぶりに故郷の「三会駅」にも行きましたが、駅舎がなくなっていたのに驚きました。ひょっとしたらずいぶん前からなくなっていたのかも知れません、島鉄はあまり利用しないものですから。駅舎に期待したのは、三会の昔ながらの表記「三會」が残っていると期待したからですが…、残念でした。



ふとひらめき、それならばと、小学校に行きました。
ありました、昔ながらの「三會小學校」

古文書等に登場するのもこの「三會」です。


最後に、「神代」


「こうじろ」です。明治維新までは佐賀藩の飛び地でした。そうしたことから、この地には「神代弁」と言って佐賀の方言が多く残り、今も使われています。佐賀で小路を「くうじ」と言いますが、ここも同じく「くうじ」です。

神代は現在の雲仙市国見町になります。国見町は多以良と土黒、そしてこの神代の3つの地区が合わさったものです。なお、「土黒」は「ひじくろ」と読みます。
さて、「国見」ですが、この名前の由来は現在調べ中です。私の想像ですが、吾妻町と同じように地元の山の名前からとったのではないかと思っています。この地から見える雄大な国見岳ですが…。


吾妻町は、前回紹介したように山田村と守山村が合併したときに、新たにできた地名です。吾妻町で朝日が昇る山が「吾妻岳」です。特にこの冬の時期は朝日がきれいです。「吾妻音頭」にも昇る朝日のことが歌われています。


吾妻岳(鳥甲山より撮影)


おっと、”TENNZANBOKKA”久しぶりの山の写真です。
手前の白い花は雲仙市の木に認定されている「ヤマボウシ」です。6月にはこれを見に、狭い山域に人がいっぱい押しかけてきます。右上が多良岳で海の中を走る一本の道が堤防道路です。
なお、吾妻町から吾妻岳はよく見えるのですが、吾妻岳山頂はブッシュに覆われ展望はききません。当然、吾妻町は見られません。

最後に、次の地名は何と読むでしょうか。

①大三東 ②東空閑 ③伊古 ④伊福 ⑤古部 ⑥西郷 ⑦多以良 ⑧土黒 ⑨神代小路 ⑩三會 
答えは、次の写真の後。

昔ながらの地名を残すバス停「守山」 現在は吾妻町


【答え】
①おおみさき ②ひがしこが ③いこ ④いふく ⑤こべ ⑥さいごう(諫早市の「西郷」は「にしごう」) ⑦たいら ⑧ひじくろ ⑨こうじろくうじ ⑩みえ


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島原半島の地名2 「愛野から吾妻へ」

2015年12月28日 | 島原
島鉄(島原鉄道)の駅に「吾妻」(あづま)駅があります。



その二つ前の駅に「愛野」(あいの)駅があります。



以前、JRの「愛国から幸福ゆき」がブームになったように、愛野から吾妻が「愛しのわが妻」と読めることで話題になりました。(「愛野から吾妻」行きの切符は、現在も売り出し中です)




「愛野町」(あいのまち)は、島原半島の玄関口で、そこには国道の両側に歓迎のモニュメントが建っています。


こちらは「ときめきの像」




さて、「愛野」という地名は、愛津村と野井村が合併したときに両方の一文字をとってできた地名です。

一方、「吾妻」は「山田村」と「守山村」が合併したときにできた地名ですが、「吾妻」という名前は、この地から見える「吾妻岳」という山の名前にちなんで命名されたものです。

愛野も吾妻も素敵な名前だと思います。今は平成の大合併で「雲仙市」というくくりになっています。
島原半島に限らず、市町村合併をくり返す中で、昔からの呼んでいた地名が変わっていっていますが、バス停や駅名などに昔ながらの呼び名を見つけることができます。
また、そこに住んでいる人たちは、昔ながらの言い方で呼んでいます。
私が生まれた三会は、以前は「南高来郡三会村…」で郵便物が来ていましたが、今は「島原市…」で届きます。三会という地名は消えてしまいました。しかし、地区の名称として、あるいは駅名や学校の名前に、そしてなによりそこに住んでいる人の心に存在し続けるわけです。(し続けてほしいな…)

そして、地名ですが、地名は昔からの呼び方があるわけですから、漢字の表記に惑わされることなく、昔ながらの呼び方で伝えていかなければいけないと思っているわけです。

くり返しになりますが、故郷三会地区の地名、出川(いでんこ)、中原(なかばる)、原口(はるぐち)、大手原(おてばる)のことです。
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島原半島の地名 「三会」 

2015年12月27日 | 島原
前回、島原市三会地区の一部の地名の呼び方が変わってしまったということを書きました。
昔ながらの言い方が、漢字表記にそった言い方に変わってしまっています。
一例として、「出川」は、「いでんこ」と呼んでいたのが、なんと「いでのかわ」に…、といった具合に。
( → 「消える方言 昔ながらの地名までが…」

「三会」は「みえ」と読みます。平成18年、有明町が島原市に編入されるまでは、島原市内で「三会小学校」「三会中学校」と昔ながらの地名が、そのまま学校の名前として残っているのは、唯一、三会だけでした。昭和30年(1955年)に、旧三会村は島原市に合併編入されたわけですが、先輩方の努力がなければ「島原市立第六小学校」、また同じく「第四中学校」となっていたかも知れません。

昔ながらの地名が残っているということは、たいへん有り難いことことです。

話は変わりますが、大相撲の島原市出身「若圭翔」が中学校時代全国大会に出場したとき、会場のアナウンスが、「『第二中学校』・下田君」でした。どの選手に対しても、県名や学校の設置者は一切言っていませんでしたが、「第二中学校」と言われても、全国の人は全くわからない訳です。全国大会という晴れの舞台で、郷土の名前が出てこないというのは寂しいものがあります。

あの頃の島原市では、三会地区は新たに編入された新参者で、市の中心部からの順番が六番目でした。したがって、それまでの慣例で「第六小学校」となってもおかしくなかったわけです。

私自身、言葉に関しては、中学校までは実に平和でした。三会小学校、三会中学校と同じ地域のメンバーと平穏に過ごしていたわけですから。ところが、高校進学後ののクラスでは、三会出身の男子は私一人でした。そしてこともあろうに、私が使う言葉をとりあげて、からかったり、からかわないまでも冷ややかな目で薄ら笑いをする輩が現れたわけです。それはショックでした。あのとき、自分の度量が大きくて、他の生徒から笑われようと地元三会の方言で押し通せればよかったのですが、それができませんでした。小心者でした。そして次第に、三会の方言を使わなくなってしまったのです。

これは私の私見ですが、「出川」(いでんこ)が「いでのかわ」に、「中原」(なかばる)が「なかばら」になったのは、自分たちが使う言葉に自信がなかったからではないかと思います。他の地域では、胸を張って「川」は「こ」と呼んでいます。同じく、「原」は「はる」と呼んでいます。

「三会」という地名は、南北朝時代やそれ以前の書物にも見つけることがでる昔からある地名です。ただ、書物によっては漢字が「三江」「三重」「見江」と書かれているものもありますが、それは辞書や地名辞典などなかった時代のことですから、誤字であったと思います。いずれにしても「三会」が、遠い昔から存在し、今も地域の子ども達が通う小学校の名前に残っていることは有り難いことです。

三会の方言に入る前に、もう少し地名のことを書いてみようと思っています。(続く)


※ 次の写真は、現在の史跡の説明文ですが、(これらとは別に)昔の記録の中に「三会」という地名を発見することができます。





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雨上がりの上山

2015年12月23日 | 上山の四季
小雨模様でしたが、傘を片手に今年65回目の上山に向かいました。
12月に入って6回目で、年度末に道路工事が増えるように、今年の目標達成に向けてラストスパートをかけているところです。
ところで、東口からのメインの道路がきれいに除草されていました。道脇のススキや雑草にも季節の風情が感じられていたので少し残念な気もしました。

きれいに除草されていた登山道


雨はやみましたが、山頂付近(標高100m)はうっすらとガスにおおわれていました。


椿




上山に登り始めて今年で8年目になります。70回という数値目標を設定したのは去年からです。月に6回登れば年間で72回になるという計算からです。上山は登山というより、ウォーキングといった感じですが、これを続けているせいでしょうか体調はすこぶる良好です。

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人なつっこいニャンコ ~ 北口にて

2015年12月21日 | 上山の四季
北口の芝生広場前に、人なつっこいニャンコがいました。








私が近づいても、逃げないどころかすり寄ってきました。




スリスリするニャンコ


車に戻る私を追いかけてきました。




私の愛車アトレー君の前に座り込んだニャンコ。


これだけ人なつっこいと情がうつります。かわいいですね。
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いのり

2015年12月20日 | 諫早


安勝寺を訪ねるのが目的でした。
眼鏡橋のある諫早公園から本明川沿いに歩いて行っていたら、高城橋の手前にちょっとしたスペースがあってそこが公園になっていました。(今まで気づきませんでした)





有田焼風のタイルがあったので、近くの観光地の紹介かなと思いのぞいてみたら、そうではありませんでした。



昭和32年の、本明川の大水害の被害を伝えるものでした。








そして、あの日の氾濫したときの水位を記した「本明川洪水痕跡標」が立ててありました。







川面より+9mと。今の道路よりも,堤防よりもさらな高いところまで水が溢れてきたことを刻んだ標石です。
今は、当時と同じ雨量であっても氾濫しないように、一級河川として国の管理で改修され、川幅が大幅に広げられています。



その川に向かって、静かにいのりをささげる乙女の像が建ててありました。
なくなられた方々の魂が安らかでありますようにと、
今、静かな本明川が、いつまでも静かでありますように、ふたたび暴れ川となることがありませんようにと…
そんな思いが伝わってくる「いのり」の像です。


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メタセコイアⅡ

2015年12月19日 | 上山の四季
「メタセコイア」の続編になります。
今日は、上山山頂から見えていた運動公園のメタセコイア並木を見に行ってきました。
紅葉の盛りは少し過ぎていました。



葉はずいぶんと抜け落ちていました。メタセコイアは針葉樹なのに落葉する珍しい樹です。


以前は、絶滅種として化石の中でしか見ることができなかったというメタセコイアの葉


のどかな運動公園 芝生広場


運動公園からの登り口(南口)にもメタセコイアが植えてあることに今日気づきました。
ここから上山山頂を目指します。ここからだと15分。


ここの四阿のモミジはまだ紅葉していませんでした。




【追記12/20】
諫早運動公園のメタセコイアについて調べてみました。「上山公園生態基本調査 報告書」に、次のように記されていました。

「総合運動公園横の四車線道路、諫早バイパスは長崎国体に合わせて昭和44年9月に開通したが、その時植え込まれたメタセコイアの街路樹は、下に各種のツバキとヒラドツツジがうまく混植されてあり、今や九州でも屈指の景観を誇っている。樹高は21m、176本のメタセコイアがいっせいに芽吹く春4~5月頃は特に美しい風情をかもしだしてくれる。」
(平成3年3月 上山公園生態系基本調査団 「上山公園生態基本調査 報告書」)
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寒波来襲

2015年12月17日 | その他
里山に遅い紅葉が始まったかと思ったら、寒波来襲で雲仙の山はうっすらと雪化粧です。






寒波来襲といっても、12月も中旬ですので当然ですね。
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