TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

小野の金比羅岳

2023年02月28日 | 諫早
諫早の小野にある金比羅岳は標高250mの小高い山です。
以前一度だけ車で行ったことがありましたが、今回は歩いて登ってみました。

登山口は小野の天満宮の横です。

小野天満宮


すぐ横に


石柱が立っています。


それには
「曹洞宗性圓寺登口」
と書かれています。

性圓寺は天祐寺の末寺で、金比羅岳山頂にあるお寺ですが、山頂には金比羅大権現の社があるなど、神仏習合の一大霊場を形成しています。


「歩いて登る人が少なく登山道は荒れている」と聞いていたので覚悟して登ったのですが、登ってみてビックリ、それはそれは趣のある立派な道でした。


登りはじめ


今どき珍しい木の手すりが設置されていました。



左が登山道です。


道脇にある石は丁石のようです。この道は元々性空寺の参道なので、一丁(109m)ごとに立てられているようです。



林に残る石垣が往時の面影を残しています。

丁石


アップ


「九丁」と寄進者の名前を読み取ることができます。



鳥居が見えました。


松尾社です。


松尾社はお酒の神様です。
地元の酒蔵のお酒が供えられていました。


杵の川酒造のお酒です。栓は開いていましたが、フルーティーな香りがしてまだ飲めそうでした。

社も酒造関係者の寄進のようです。石柱に刻んである「施主 酒屋中」の字が読み取れます。



ここにはひときわ目を引く大きな石灯籠があります。

(鳥居の左側)


文政5年(1808年)に建立されています。
この灯籠について、山口八郎著の「諫早を歩く」には次のように書いてあります。
「この灯籠の灯が、遠く橘湾を有喜に寄港する、漁船の目印になったと言います。-略-航海安全の守り神として、金比羅信仰は広まっています。」

確かにここは見晴らしの良い高台です。




山頂の手前に「翁塚」がありました。


「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」という芭蕉の句が刻んでありました。


そして性圓寺へ


往時の隆盛を物語る他県の寄進者名

「博多」「佐賀」「柳川」の地名が刻まれています。

鳥居と思ってら


石造りの山門でした。


山門は立派でしたが寺はなくなっていました。


静かに佇む石仏


井戸


2つも井戸があるのに驚きました。

昔はかなり栄えたお寺だったのでしょう。


境内の様子




苔むした参道が続きます。


丁石


頭部が壊され、代わりに石が載せられた石仏




こういう石仏に合うとほっこりします。


カニさん




ユーモラスな石仏も




大きな石が祀ってあり



金比羅大権現



そして展望広場


雲仙や橘湾が一望できます。



ここに大きな岩があって


「八天狗」の刻文

さらに岩の上には


烏天狗の座像が祀ってありました。



金比羅岳は登山道(参道)もそうでしたが、山頂付近もきれいに除草がなされ、とても大切にされている所だと感じました。

よく整備された展望広場





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唐比を訪ねて

2023年02月27日 | 街道
「唐比」は「からこ」と読みます。
唐比は島原半島の付け根にあり、島原街道から長崎街道へ、あるいは多良海道へとつながる所です。
今回はその唐比を、歩きではなく車で訪ねました。


唐比天満宮 菅原道真を祀っています





石仏



ここには六地蔵石幢が2基ありますが


残念ながらお顔は潰されていました。





特筆すべきは本殿にありました(横から撮影)。


実は、この本殿の礎石には島原藩と佐賀藩(当時、諫早は佐賀領)の領境石が使われているのです。


ナント


「従是西佐嘉領」

もう一つの礎石にも

「従是西佐嘉領」

領境石ですので、元々は島原藩と佐賀藩の境にあったはずです。何とばち当たりなと思いましたが、墓石ではないのでバチはあたりません。現在、外側の面しか読めませんが、他の面に何と書かれているのか気になるところです。




唐比村庄屋元堀家





唐比一里塚へ

「唐比一里塚」はガイドブックや他の人のブログで下調べをしていました。そこには割と簡単に行けるように書いてあったのですが、なかなか見つけることができず今回探すのにもっとも苦戦した所です。
Googleの地図にも表示されていたので、スマホのナビで行っていたのですが


車を停め歩いて行きます。道は車の後方左側にありました。


この道です。


歴史の道という感じでしたが


行けども行けども、探せども探せども一里塚を見つけることができませんでした。

あきらめて、次の目的地に向けて車を走らせようとしたら「うん?」


車を停めていたところから10mほど行った曲がり角ですが、何となく道らしいものが見えました。

ひょっとして


これが道?


ダメ元で行ってみることにしました。この道は誰も通らないらしく荒れていましたが、これまで街道歩きで苦しめられたバカ(「くっつき虫」などとも言う植物の種子)がなかったのでなんとか進むことができました。

しばらく歩くと


標識らしいものが倒れています。


ありました!




この道は島原の殿様が参勤交代の前に長崎の様子を監視するために通られた道で、「長崎監視の道」とか「殿様道」とか呼ばれていたのですが「昔の光今いずこ」でした。





次の目的地は原口番所です。今回は車で回っているのであっという間に到着。
原口番所跡


石碑


かって坂本龍馬や勝海舟も通ったという歴史の道です。






首塚




高さが5mの円墳


島原の乱の犠牲者の首が葬ってあるのでしょうか
丘の上には


「南無…」と




ここからも雲仙のお山がよく見えていました。




次回はいつになるか分かりませんが、いよいよ島原城下から愛野までです。道のりが長いので久しぶりに自転車で回る予定です。



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滝の観音

2023年02月25日 | お出かけ

2/25(土)
今日は諫早市美術歴史館主催の寺社巡りの日でしたが、今回は残念ながら抽選に漏れて参加できませんでした。ただ、気持ちが寺社巡りモードになっていたので、一人で以前から気になっていた滝の観音を訪ねました。

「滝の観音」説明板

(場所:長崎県長崎市平間町1646 霊源院境内)


入り口




石造りの門に「第一峰」と彫ってありますが、この字は長崎の崇福寺の第一峰門の字とよく似ています。

参考:崇福寺の門


ひょっとして、滝の観音のこの字は即非の字かも知れません。だとしたら大発見?
一人で盛り上がりながら進んでいくと、またもや門がありました。



ここには「水観世音」と


お地蔵様


通路に覆い被さる木


かなりインパクトがあります。

「伏樹門」と言うそうです。


別の角度から見ると


中は空洞になっていて


それでも横と垂直方向に幹を伸ばしているたくましい木です。

 


さらに進んで山門へ


仁王




山門をくぐると
歌碑


別の歌碑


その後ろには石橋


鐘楼


中国風の石像


お堂




木のレリーフ



お堂の裏手に回ると







蛇?

蛇と思っていたら「竜王様」だそうでした。

石の中に蛇、失礼、竜王様が浮かび上がっています。


ここにも石橋が


こんな山奥のお寺にも立派な石橋が架けられています。ここは黄檗宗のお寺なので、石橋を作るのは得意だったのかも知れません(長崎の眼鏡橋を作ったのも黄檗宗の僧黙子)。












この鐘は、昭和57年の長崎大水害の時の被害の爪痕だそうです。



「登り藤」 

諫早家と縁が深いようです。


お宝発見!


「木庵書」と!


木庵は黄檗三筆の一人です。
これで、最初に見た「第一峰」も、同じく黄檗三筆の「即非」の可能性が高まりました。
これは調べてみなければいけません。
ワクワクものです。


滝の観音の周囲


竹林



以上、一人静かに訪ねた滝の観音でした。

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祝・上山登頂1300回

2023年02月19日 | 上山の四季
上山は諫早の中心部にある標高122mの低山です。
ふだんから体力維持や健康増進のために、努めて登るようにしています。
今日がちょうど1300回目のメモリアル登山でした。

駐車場


ここに車を置いて、県立運動公園の中をを歩いて登山口に向かいます。



途中、菜の花が咲いていました。


あちゃ、修理に出していたカメラを久しぶりに使ったら、なんとピクチャーモードになっていました。


登山口に到着 今日は南口から登ります。





展望台(山頂)まで900m



森林浴の森 日本百選の地



椿


展望台

今日の天気は曇りだったので多良岳や雲仙のお山はガスの中でした。


さて、用意してきた横断幕を張って記念撮影をしました。



人に見られたら恥ずかしいので、さっと撮って山頂を後にしました。


駐車場着



横断幕は1000回の時の使い回しですが、2000回になったら新調しようと思っています。



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島原街道を歩く5 木秀一里塚

2023年02月18日 | 街道
前回行くことができなかった木秀一里塚に再チャレンジしました。




S地点に車を置いて、そこから島原街道・木秀一里塚を目指しました。

①の地点


この道路の右手に山に入る道があったので、ここから登っていきました。
すぐに街道にぶつかりましたが…



またもやブッシュが行く手を阻みます。
右上の杉林には見覚えがあります。あの近くを前回彷徨いました。


③の地点 ここにも山への道が


登っていくと


いい感じ


ところが


ブッシュのため進めませんが、右上の杉林には見覚えがあります。このブッシュの先が前回挫折した箇所です。あと50mの所まで来ていました。50mと分かっていれば何とか我慢して進むこともできたかも知れませんが、あのブッシュがどこまで続くか分からない状態では進むという判断はできませんでした。

前回の軌跡をYAMAPで確認


今回の軌跡



でも、今いるこの近くに木秀一里塚はあるはずです。
しかし、見当たりません。

名案が浮かびました。この辺りはスマホの電波が届いているのでスマホで検索しナビしてもらうことにしました。


「100m 1分」と出ています

さらに西へ進みます。


ナビ終了


ここか?


一里塚の標識が立っているはずだが見当たりません。
もう少しブッシュをかき分けて進むと

ありました!


木秀一里塚


一里塚のさらに西へは行けそうもありません。


ここで引き返しますが、木秀一里塚を見つけることができ島原街道で間違いないことが確認できたので満足です。

戻り道 目的を達成し心に余裕があるのでブッシュを撮しました。


たいしたことないようですがバカ(くっつき虫)がいっぱい


茨?





用心しながら進むのですが、何度も茨でズボンを引っ掻きました。時には肌まで刺さることも。

「岨茨 いかにあるとも 努め拓きて…」(明治大学ワンダーフォーゲル部部歌「なため」)

心の中で「なため」を口ずさみ、自分を鼓舞しながら歩きました。

さて、この木秀一里塚ですが、長崎街道を辿ってここに行き着くのは、道がブッシュ化しているのでかなり困難と思われます。木秀一里塚を訪ねるだけだったら、今回私が行ったように車道に車を停めて山に入った方がいいようです。

車道からの入り口は冒頭の地図③番で、車の整備工場と卵の自販機が目印になります。


反対方向に卵の自販機



車道を歩いて車に戻り、今回の島原街道歩きは終了です。



今回までで諫早領の島原街道は終了です。
次はいよいよ島原領の島原街道に入ります。
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島原街道を歩く4 有喜~愛野 

2023年02月16日 | 街道
前回の街道歩きは諫早から愛野までの予定でしたが、有喜までしか行けませんでした。
またもやバカ(「くっつき虫」)の群生に行く手を阻まれ、途中で断念したのでした。
今回は、前回の続きなので、本来ならば有喜出発なのですが、都合により愛野を出発して有喜を目指しました。

島鉄に乗って愛野駅に到着。

駅舎には「愛の駅」と。

駅前のモニュメント

「ほほえみの像」



愛野温泉神社


元は「四面宮」でしたが、明治になって「温泉神社」に改称



御手水鉢


その横には明治になって外されたであろう「四面宮」の額束が置いてありました。

写真では分かりにくいですが右の額束がそれです。


土居口番所跡の碑





街道から外れますが、この近くには立派な石垣があって




石垣を見ながら丘を登っていったところに愛津村庄屋元深浦家



愛津城空堀跡



島原街道に戻り有喜を目指します。

愛津駅跡

今の「愛野」という地名は、「愛津村」と「野井村」が明治22年(1889年)に合併したとき、2つの村の頭文字をとってつけられた地名です。


三軒茶屋跡

江戸時代は3軒の旅籠があったのでこの地名が付いたそうです。


日吉神社


長い石段を登っていきます。






登り詰めるとそこには巨石が祀ってありました。



かわいい狛犬?





行きには素通りした説明板


あまりにも感激したのであらためて読んでみました。その一文に
「江戸時代、島原藩主松平公は参勤交代の折、必ず駕籠をとめられ日吉神社に参拝なされ長い道中の加護を祈られたそうです」とありました。
そうでしょう、そうでしょう。自ずとそんな気持ちにさせてくれるパワースポットでした .


唐比へ


野焼きの煙の向こうに雲仙のお山が見えています。

初めての指導標


「龍馬が歩いた道」

龍馬は長崎を目指して歩いているので、途中まではこの指導標を辿ればいいわけです。
さすがに龍馬はメジャーです、島原街道には全く指導標がないというのに。



唐比の長坂古墳の近くを歩いていますが、この辺りには「龍馬が歩いた道」に加えて「九州自然歩道」の指導標も設置されているので、心強いです。

「龍馬が歩いた道」は、Oh!ホテルへと続いています。


ホテルの横の道は「殿の道」と呼ばれる昔の道ですが、片側に太陽光パネルが延々と設置されました。


昔の道に現代の設備、その向こうには今も変わらないお山雲仙


「みそ五郎どん石」に到着



そして順調に横手頭追分へ


諫早に続く島原街道は右の道になります。左は九州自然歩道で有喜に続きます。

島原街道を木秀一理塚を目指し進みます。



また昔の面影が残る道となりました。


あれ?


またしても


バカ(「くっつき虫」)の群生に行く手を阻まれました。
この辺りのバカは強烈で、服に付いたバカをとっても種子の先端が鈎のようになっていて服に残りやっかいです。

今回も撤退です。
追分まで戻って有喜の町に下りることにしました。



再び横山頭追分(分岐)


今度は分岐の左の道を行きます。龍馬が長崎に行く時に通った道で、「龍馬が歩いた道」の指導標が立っています。

この道は九州自然歩道なので楽勝と思っていたのですが


思っていたのですが…


「九州自然歩道」の看板が落ちていました。


そして、またもやブッシュ


ただ、ブッシュの先にコンクリートの道が見えていたので、あそこまでならとバカをかき分けながら何とか前進しました。ゴールがハッキリと見えていると頑張れるものです。




振り返ると



「見ているぞ」


実は、島原街道の山の中は、不法に捨てられたゴミが随所にあったのです。
冷蔵庫、テレビ、車等々
あまりの惨状に「島原街道に捨てられたゴミ」というタイトルで特集をアップする予定です。


有喜の海岸に到着


海に向かって恵比須さまが祀られていました。
ここは漁師町らしく、恵比須さまは、はちまき姿も勇ましく海の安全を祈っておられるようでした。


白髪神社


同じ有喜でも今回目指した地点とは異なりますが仕方ありません。この日の島原街道歩きはここまでにし、バスで諫早に帰ったのでした。


今回の軌跡と予定していたルート


YAMAPの地図に、今回行きたかったルートを赤で入れてみました。ゴールマークGの上の赤い線がそれです。
悔しいので、赤色の部分をもう一度チャレンジします。
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島原街道を歩く3 諫早~有喜

2023年02月14日 | 街道
2月9日
島原に通じる方の島原街道を、今度こそ愛野を目指して出発しました。
回りくどい言い回しになったのは、諫早に通じる島原街道は2つあるからです。


(図書出版のぶ工房「長崎街道3 肥前長崎路と浜道・多良海道」に掲載の地図を一部加工)

地図の右側のルートがそれで、実際に歩いた軌跡は下の通りです。




愛野まで歩くつもりがとんでもないことになり、なんともへんてこりんな軌跡を描いて諫早に舞い戻っています。そのことについては本文の中で綴っていきます。


島原街道の合流地点を南下するのですが、半造川を渡ったすぐの丘が林の辻(りんのつじ)の古戦場跡です。


坂の右側に「陣の辻古戦場跡碑」が建っています。


伊佐早を治めていた西郷氏が、攻め入ってきた龍造寺氏と最後の決戦を挑んだ場所なので「陣の辻」(じんのつじ)ともいいます。

小栗小学校横を通り住宅地を登っていくと道は一変します。


今回は自分で計画した街道歩きなので、案内してくれる先生はいません。おまけに、このルートには指導標が途中まったくありません。長崎街道や多良海道には行く先々に指導標があったのですが島原街道は歩く人がほとんどいないマイナーな道だと実感しました。



昔の面影を残した雰囲気のいい道です(この辺は)。



倒木が増え、少しずつ道が荒れてきました。






この道は荒れているとは聞いていましたが、私は山歩きを趣味とする元ワンダラーですから、これくらいの悪路はなんてことありません。

ただ、つれ合いは「本当にこの道であっているの?」と不安がっていました。


そうこうしていたら見えました。


これが島原街道であること確定の「一理松跡」の石柱です。



尾根筋に沿ってさらに南下します。


こんなものもありました。


罠にかかったイノシシが私たちを見てさらに興奮し、何度も柵に体当たりをしました。

この辺りのも畑があります。


イノシシの被害があるのでしょう。
木々の間から遠く島原の山が見えています。当時の旅人も望郷の念にかられたはずです。



途中、木が伐採された所を通過



道がコンクリート道に変わりました。






右手に何やら建っています。



「二位尼の碑」の石柱でした。


でも、二位尼の碑の本物はこれです。


二位の尼は平清盛の妻時子のことで、壇ノ浦の合戦の折に安徳天皇を抱いて海に身を投じたといわれる人ですが、落ちのびてこの地で亡くなったという伝説があります。さらにこの先に「安徳天」と刻まれた石碑も残っています。

雲仙のお山



「安徳天」の石柱がありました。



その碑は道から少し登った静かな山の中に建てられていました。





碑が建っている山から来た道を振り返ると


旧島原街道は別名を「殿さん道」とか「殿様道路」といいます。島原のお殿様が参勤交代や長崎監視の折に通っていた道だからです。昭和の初め頃まではこの道は往来に利用されていたそうです。


道の脇の石仏


お花が供えられていました。
今も地元の方が祀っておられるのでしょう。



山道を抜けました。
有喜追分に到着。


ここは島原街道と有喜街道の分岐・合流地点です。籠立場跡でもあり格好の休憩地点だったようです。

山道を抜けたので後は楽勝だと思っていました。



道は平坦になりルンルンです。

橘湾も見えるし


雲仙のお山も見えるし


ところがです



好事魔多し!

歩きやすいと思っていた道が激変しました。
太陽を遮る木がなく日当たりも良好のこの道は、バカ(くっつき虫、植物の種子)が群れをなして行く手に立ちはだかるのでした。

しばらくは我慢していきましたが、半端ないバカの数です。
どうする家康!

全身バカまみれになって進むか、勇気ある撤退をするか。
連れとも相談し、ここは引き返して迂回することにしました。

これまで、藪こきや雪道のラッセルの経験はあるのですが、どこまで続くか分からないバカの道に負けてしまいました。
この後、予定にはなかった有喜街道を下ることに。

宇木城跡



そして大きく迂回し、島原街道の続きに出ました。冒頭の変な軌跡はそういうことです。

再掲


悔しかったので、迂回した後、逆方向から引き返した地点の確認に向かうことにしました。

逆方向から攻める。いいぞ。


攻める。


攻める…




またもやバカの群生に進路を阻まれ、無念の断念。



赤の矢印部分がバカの群生に行く手を阻まれた部分です。距離にして約150m。
黄色が迂回した道です。
青い矢印は、愛野に通じる島原街道の続きでした。

引き返す


逆コースの入り口(本来の街道の出口)に到着




黄色の矢印の道を行けば目的地の愛野ですが、今回の島原街道歩きはここまででした。
バカの大群落に行く手を阻まれ大きく予定が狂いました。
ああ、島原街道の道険し。

この後は車道を歩いて諫早まで帰りました。
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諫早探索(島原街道2)

2023年02月13日 | 街道
先日の「島原街道を歩く」で歩いたコースをもう一度じっくりと見て回りたくて、一人でブラリと歩いてみました。
歩いたのは諫早中心部の700mほどで、前回とは逆に南から北へと向かいました。
コース中の史跡については前回説明を受けていたので、興味があるところを時間を気にせず見て回ることができました。


スタート


明治道標です。この面には、上に「北-南」、その下に「諫早村大字上…」と刻まれています。残念ながら下の方は判読不能です。


旧諫早刑務所跡




以前は広大な敷地でしたが、今は正門だけが保存され再開発されました。

説明板



広福寺


諫早の詩人、伊東静雄はここに眠っています。


石坂山慈眼院


令和になって再建された寺です。



曼荼羅







天井絵と龍







お守り







平仙寺


島原と縁の深いお寺です。その昔、雲仙のお寺がキリシタンの焼き討ちに遭った際に、不動明王を奉じてここに避難し、諫早家の庇護の元に開山したのがこの寺だそうです。また江戸時代には、島原のお殿様も休憩場所として使われたそうです。


「踏まれても根強く忍べ福寿草やがて花咲く春はくるなり」

これを見て、無性に福寿草が見たくなりました。



植え込みの松が通りに出ないように剪定されています。街中にあるお寺なので仕方がないのですが、何かしら窮屈な感じがしました。

六地蔵石幢!


一昨年、諫早の六地蔵石幢を訪ねて回りましたが、こんなに近くにあったのを見落としていました。私の中での大発見です。

傷みが少なくお顔もきれいです。



高麗小路(こうらしゅうじ)へ




恵比須さん横の石畳に説明があります。







川に沿って奥に入っていくと、説明板(石)にあった橋がありました。
高麗小橋


橋を渡っていくと


趣のある喫茶店があって


さらに進むとありました。高麗井戸です。




福田屋


うなぎ屋さんです。


創業が文久3年(1863年)と歴史が古く、この建物は昭和4年(1929年)に建てられた木造の3階建てです。

お店の横には恵比須さまが祀ってありましたが


私がカメラを向けるとニッコリと笑ってくださいました。



旧諫早銀行本店


この建物も古く、昭和6年(1931年)に建てられた鉄筋コンクリート2階建てです。当時の屋根の装飾が色あせながらも残っています。


天井から出ているのは煙突?


歴史を感じさせる重厚な建物ですが現在は閉鎖されています。



眼鏡橋


諫早図書館にありました。
眼鏡橋は諫早のシンボルです。


諫早探索は以上です。
「島原街道を歩く」の折には、時間の関係もあってゆっくり見学できなかった所やパスした所を一人でじっくりと見て回りました。
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島原街道1

2023年02月12日 | 街道

「島原街道」については島原出身でありながらあまり知りませんでした。
諫早市美術・歴史館主催で「島原街道を歩く」の企画があったので参加をさせてもらいました。

1月29日 講座(座学)



島原街道の概要を学びました。知らなかったことばかりで俄然興味がわいてきました。

諫早を通る街道

(図書出版のぶ工房「長崎街道3 肥前長崎路と浜道・多良海道」に掲載の地図を一部加工)

諫早を通る島原街道は2つあります(教わったことの受け売り)。赤と黄色に色を付けているのがそれです。
月が変わり、2月4日に講師の先生の説明を聞きながら実際に島原街道を歩きました。


2月4日 島原街道を歩く

集合場所の諫早駅まで歩いて行きました。まずは、その様子です。

眼鏡橋


本明川


諫早神社


アーケード


新幹線が停車していました。

諫早駅


集合場所 出発前の確認



さあ、いよいよ出発です。


一発目は恵比須像


以前のブログでも紹介しましたが、諫早の街中ではこの石造り恵比須像をよく見かけます。


高麗小路


「こうらしゅうじ」と読みます。「小路」を「くうじ」と言う呼び方は佐賀にありますが、「しゅうじ」は珍しいです。
島原半島にも「神代小路」がありますが、これは「こうじろくうじ」と読みます。神代が鍋島藩の飛び地だったので佐賀と同じ「くうじ」という呼び方です。

石坂山「慈眼院」


その由来


「石坂山」は平安末期に開山したお寺ですが、明治の神仏判然令で廃寺になったそうです。

ところが、元号が「令和」になったのを機に再興されました。

慈眼院の中 天井絵と龍


明治道標


この場所は江戸時代までは長崎街道と島原街道の分岐・合流点だったそうです。
今はこの石柱の四面にそれぞれの行き先が刻んであります。

道路の向かい側に石造物群があります。


この石造物は何回も見ていましたが、黄色で囲んだ石造物に注目


何か文字が彫ってありますが、私はてっきり梵字と思っていました。ところ講師の先生の説明で「石坂山」と彫ってあることが分かり感動しました。先ほど見た石坂山「慈眼院」とつながったのです。慈眼院は令和になって再建されたばかりの新しいお寺ですが、この石造物が遠い昔に「石坂山」があったということを無言で伝えていたのです。

しかも、これは手水鉢でした。


随分と変わった形をした手水鉢です。こういうのも教えてもらわないと分かりませんでした。

同じところですが


みんながのぞき込んでいるのは

毘沙門天


石造りの毘沙門天は珍しいそうで諫早ではここだけだそうです。
その足にはしっかりと邪鬼を踏みつけています。


さて、先ほどの明治道標の地点ですが、今回の「島原街道を歩く」はここから進路を西に変えて長崎方面に向かいました。「島原じゃないのか…」との思いはあったのですが、要項にも「島原街道 諫早駅~西諫早駅」としっかり書いてありました。
冒頭にも書きましたが、諫早に通じる島原街道は2つあり、今回は諫早から長崎に通じる方(赤い方)の島原街道を歩いて行きます。


(図書出版のぶ工房「長崎街道3 肥前長崎路と浜道・多良海道」に掲載の地図を一部加工)

そんなわけで、一行は西に向かって進みます。


エプロンにQRコードが付いていました。


西郷の板碑


高さが2mもある大きな板碑です。


これは胎蔵界大日如来を表しているそうです。


茶臼山へ


ここは戦国時代の砦の跡です。





石仏に混じってこんなものがありました。


これは石ではなく焼き物だそうです。
昔はこの近くに甕山焼という窯元があったそうで、そこで焼いたものらしいとのことでした。


最後の見学地「さやごぜん」


「さやごぜん」は道祖神のことだそうです。




今回の島原街道歩きはこれで終わりです。
ただ、島原出身の私は島原に続く方の島原街道が歩きたくて講師の先生に、そちらを歩く企画がないかとお尋ねをしました。そしたら、島原に通じる道は街道の一部が荒れていてみんなで歩くのは困難だろうと言われました。

通るのが困難?
荒れている?

それならなおのこと、是が非でもその困難な方の、我が故郷につながる方の島原街道を歩いてみたくなったのでした。
 
 
この日のデータ(YAMAPより)
 
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カメラ戻る

2023年02月11日 | 日常
カメラが修理から戻ってきました。



カメラの調子が悪くなったのは去年の夏のことでした。修理の見積もりをお願いしたら2万円(税別)だったので、この際買い換えようと思い放置していました。

新しいカメラをあれこれ探したのですが、同程度のものを買うとなると修理代の倍はかかります。それに最新の機能は使いこなせそうもなかったので、撮影部分がしっかりしている今のカメラを修理することにしたのは、壊れてから半年後のことでした。


そして昨日、ピカピカの新品のようになって戻ってきました。



修理前(2022.7.17)


「同じじゃ」と言われそうですが、よく見るとキャビネットの擦れなどがなくなっています。
それもそのはずです。中の基盤だけでなく、外のキャビネットも全て換えてあったのです。


修理の明細


明細書アップ



交換部品は全部で13点、内訳は
外装品7点
基盤が4点
それにレンズのところは丸ごとのようです。

試運転をしましたが


バッチリでした。

13もの部品を換えているので、外側だけでなく中身もほぼ新品状態で戻ってきています。
9年目で壊れてパーツを交換したので、あと9年は使えないかな、なんて思っています。


カメラといえば昔のスチールカメラは丈夫でした。
41年前に買った Canon AE1 プログラムは使おうと思えば今も使えるはずです。
押し入れから取り出してみました。

これです。


社会人になって給料をもらうようになり、毎月1万円の月賦で買った初めてのカメラです。
学生時代から欲しかったカメラだったので、奮発して明るめのレンズを付けたら、なんと初任給一月分にあたる10万円もしたのでした。


わが家にはフイルムカメラがもう一台眠っています。


これは子どもの成長を撮すのに、操作が簡単なものをということでつれ合いが買っていたものです。


取り出したついでにこれらを並べてみると、今のデジカメがいかにコンパクトかということがよく分かります。


デジカメが出始めてからフィルムカメラは使わなくなりましたが、思い出の品なので大切にしまっています。

今はスマホのカメラが進化しているので、そのうちデジカメも使わなくなるかもしれませんが、せっかく修理したデジカメなので、あとしばらくは使い続けようと思っています。
できればあと9年。
その前に私が壊れたりして…
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