散歩の途中、諫早市美術・歴史館で大貝彌太郎展があっていたので立ち寄った。
大貝彌太郎の簡単なプロフィール
美術の教員だったが、戦争が激しくなるにつれて航空機乗員養成所の教員にならされたという。どのような思で日々生きていたのかが絵を通して伝わってくる思いがした。
自画像の変遷
「鋭い目でこちらを見据える自画像からは画家としての強い信念が感じられる」と説明のプレートには書いてあるが、後半の自画像からは「画家としての信念」というより戦争への怒りや、自分自身が戦争の歯車に組み込まれ矛盾を感じながらもどうすることもできない無力感みたいなものが伝わってくる。「戦争反対」と口に出すことも許されなかった時代に、絵筆をもって作品の中にその思いを閉じ込めたように感じられてならない。
諫早時代の大貝の説明
敗戦の色が濃くなった1944年作の「飛行兵立像」からはもっと強いメッセージが感じられる。
制作途中
「描きながら若い瞳に切なさを感じると云っていた」その結果完成した作品が下
大貝彌太郎はこの絵を描いた2年後に結核のため38歳の若さで亡くなった。なおこの絵は奥様によって無言館に寄贈されたという。
大貝彌太郎の簡単なプロフィール
美術の教員だったが、戦争が激しくなるにつれて航空機乗員養成所の教員にならされたという。どのような思で日々生きていたのかが絵を通して伝わってくる思いがした。
自画像の変遷
「鋭い目でこちらを見据える自画像からは画家としての強い信念が感じられる」と説明のプレートには書いてあるが、後半の自画像からは「画家としての信念」というより戦争への怒りや、自分自身が戦争の歯車に組み込まれ矛盾を感じながらもどうすることもできない無力感みたいなものが伝わってくる。「戦争反対」と口に出すことも許されなかった時代に、絵筆をもって作品の中にその思いを閉じ込めたように感じられてならない。
諫早時代の大貝の説明
敗戦の色が濃くなった1944年作の「飛行兵立像」からはもっと強いメッセージが感じられる。
制作途中
「描きながら若い瞳に切なさを感じると云っていた」その結果完成した作品が下
大貝彌太郎はこの絵を描いた2年後に結核のため38歳の若さで亡くなった。なおこの絵は奥様によって無言館に寄贈されたという。