TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

晴登雨読2 辻村伊助の「神河内」 VS 三宅修の「上高地」

2016年06月28日 | 山にまつわる話


辻村伊助の続編です。氏の代表作である「スウィス日記」は読んでいません。
実はこの「ハイランド」という本の「ハイランド」は読んでなくて、日本の山に関するものだけ愛読しています。

「飛驒山脈の縦走」
「高瀬入り」
「神河内と常念山脈」
「嘉門治を憶う」
「登山の流行」

本ブログ「独り言」で、変わりゆく多良岳を嘆きましたが、同じような思いが「神河内と常念山脈」にはくり返し綴られています。本書の解説にあたる「解題」を書かれた小島鳥水氏の言葉を借りると神河内を愛する者の「慟哭の声」です。

「上高地」は、辻村氏の書籍では「神河内」と表記されています。
(地名の表記の変遷でしょうか。「雲仙岳」が昭和9年以前は「温泉岳(読みは「うんぜんだけ」)」と表記されていたように)


「神河内」から変わった「上高地」のシンボル的存在 河童橋と梓川


梓川の清流と河童橋に代表される上高地は他の観光地とは一線を画する特別な聖地と思っていました。
しかし、100年前に、変わりゆく神河内に辻村氏は「慟哭の声」をあげています。

次の文章は「神河内と常念山脈」の中から氏の文章の抜粋です。

「上高地はすでに神河内ではなかった。桂、栂(つが)、落葉松、ことに思い出多い白樺はいつの間にか伐り尽くされて、白い冷たい切り株が、僅かに昔を語っているだけである。伐り残された小梨の幹に寄りかかって、しんとした山の空気を振るわせて、地響きをさせながら倒されてゆく森の木立を見つめた時、こうしなくては生きてゆかれないのかと、腹が立つよりも、なさけない心持になってしまった。」
- 途中省略 -
「かくして神河内は林道が直線に貫かれてから、河童橋が、田舎臭い釣橋に変わってから、渡りものの人足が浴場で俗謡をうなるようになってから、交通が便利になったと云う名のもとに、茶代の受取が活字で組まれ、茶碗に温泉の名が焼きつけられ、手拭が間違いだらけの横文字で染められて、温泉は「上高地」と云う名と共にしかく俗了してしまったのである。」
- 途中省略 -
「くれぐれも云う、神河内ならぬ「上高地」は不快なところである。」


ここまで断言されたら「上高地」はいよいよピンチである。
今の上高地を見て感嘆の声を上げる人たちは私を含めて立つ瀬がない。
ところがだ、そんな辻村氏の意見を承知の上で三宅修氏は、昭和51年「山渓」発行の「上高地・槍・穂高 常念・燕 乗鞍」アルパインガイドの中で、私が引用した辻村氏の文章をそのまま紹介し、次のように述べています。

「失われていく仙境への愛惜を述べたのは「スイス日記」の辻村伊助である。なんと大正元年のことだ。それから世界も日本も、変わりに変わり、人間が月面を歩く時代になった。大正時代から比べたら、上高地は昔をしのぶよすがもあるまい。バスが老若男女を吐き出し、自家用車やタクシーがほこりを巻き上げて走る。それでも、かっての栄光を知らない私たちには、上高地は美しい。他の要素がどんなに変わっていても、仰ぎ見る岩峰も、流れゆく梓川もすべて心をとらえる。 - 途中省略 - その時代に生きるものにとって、その時代のよさこそ永遠のものだ。上高地をはじめて訪れた人は、昔の人が受けたものと同じくらいの感動や驚きを、今も受けている。河童橋のほとりで、そんな歓声をいくらでも聞くことができる。それでいい。上高地に来たら、昔の上口(古文書による「上高地」の表記)を求めることはない。腹の底からいいな、と思ってほしい。それがあなたの心に、いつかあなただけの上高地をつくることになる。」

すごいですね。辻村氏の「慟哭の声」もすごいのですが、真っ向から反論した三宅氏もすごい。
今を生きるものの一人として三宅氏の文章に救われる思いです。

「アルパインガイド」は私が学生時代に使っていたガイドブックですが、内容が今のそれよりはるかに抱負です。山のルートガイドだけでなく、山の歴史や自然、山に対する考え方や心の持ちよう、そしてマナー面まで網羅しています。「昔のはよかった」などといえば、先ほどの上高地論争と同じで、その時代その時代のガイドブックこそがあなたにとって最高の一冊と若い人から意見されそうです。

【学生時代から使っている年代物のガイドブック】


【小さな活字がびっしり組まれたその中身】


今回もついつい長くなりました。(同期のSさんから「写真は見るけど、文章は読まんちゃん」といつも言われているのですが…)

最後に、アルパインガイドに書かれている心の持ちようについて紹介します。
昔のガイドブックにはここまで書いてくれています。

「上高地の中心、河童橋のあたりには宿の浴衣がけ、ミニスカートやショートパンツにサングラスといった人影が往来する。その間を大きなザックの登山者パーティが通る。奇妙な図柄だが、こんなことに驚いても嘆いてもはじまらない。目を上げれば大きな風景が広がっている。それはいつも変わらない山々である。まわりの旅館が立派になったり、いろいろな人が来たりしても、山の姿も川の流れも昔のままだ。山と向かいあっていつも新鮮な喜びにひたりたいなら、よけいなものは見ないほうがいい。自分の心の持ち方さえ整えておけば、たとえ夏の上高地でも、すばらしい土地になるはずだ。」


晴登雨読の後はビール!
山に登っても、登らなくても一日の終わりはビールなのだ。


どうです、このグラス。先週、父の日のプレゼントに娘からもらったその名も富士山グラスです。
コメント

晴登雨読  「飛驒山脈の縦走」・辻村伊助

2016年06月26日 | 山にまつわる話
3週間ぶりです。
久しぶりなのでテンプレートを模様がえしました。

前回のブログで、山登りの三拍子は「時間、体調、天気」と書きましたが、その3つはなかなかそろってくれません。昨日は久しぶりの休日でしたがあいにくの雨で、カッパを着て登るほどの登魂はなく、晴登雨読とばかりに本を読んで過ごしました。

愛読書、辻村伊助の「ハイランド」



この本の中に収めてある「飛驒山脈の縦走」が好きです。久しぶりに読み返しました。

これは明治42年に筆者が上高地から槍ヶ岳、双六、鷲羽岳、赤岳、黒岳、真砂、野口五郎、烏帽子岳を縦走し濁沢から大町に下山するまでの5日間の紀行文です。
100年以上前に書かれたものですが、文章に古臭さは一切なく、むしろ格調高くリズミカルです。なによりも書かれている内容が新鮮で、当時の山行の様子に憧憬を抱きます。

昨年北アルプスに登りましたが、宿泊と食事は山小屋を利用しました。
35年前のワンゲル時代はテント泊で、食事はブスを使っての自炊でした。
この本に記されている100年前の山行はすべて野宿です。(以前「旅と野宿は男の至福」にも書きましたが、「野宿」という言葉に冒険心がくすぐられます)
「劒岳 点の記」の劒岳登頂も明治の同じ時期ですが、あの測量チームはテント泊だったので、てっきり辻村氏達もテント泊だと思っていたら違っていました。桐油紙と言われる油を塗った紙一枚で夜露をしのいでいた様子が描かれています。そして食事はすべて焚き火。極めつけは、途中仕留めた雷鳥を味噌汁にして食する場面、今では考えられません。その場面を紹介します。

(三俣蓮華の山頂に立った後、濃霧でさんざん道に迷う。急斜面の雪渓を鉈で足場を刻みながら下り、ほうほうの体でさまよい歩いた後大きな岩に出会う)
「ここを一夜の宿と定める。火が焚かれ、飯が煮える、嘉門治が蓮華で打った雷鳥の味噌汁もできあがる。実はこれを取ったとき、まだろくに舞えぬ雛が、側でピーピー啼くのを聞いたら、何だか妙な心持ちがして、今夜の料理は断じて食うまいとまで、決心したけれど、肉となって鍋の中に浮いていれば、そんな心持ちは毛頭おこらない、忘却は人間至上の幸福である、肉を食わなくともあの雛を如何することもできないと、思い切って箸をとる、肉は鶉(うずら)に似てすこぶる美味だ。」

(文中の「嘉門治」はあの上條嘉門次さんのことですが、本書ではこう表記されています。)

宿泊の様子もダイナミックです。

「草の床に草鞋(わらじ)を枕にして寝ていると、嘉門治は自分の桐油紙を出して、我等の上に屋根を張ってくれた、わしは荷が軽いから疲れましねぇと、人足を焚き火の側に、自分は夜露のかかる草の中に寝ている。」

一泊目、槍ヶ岳手前の坊主小屋での宿泊の様子。
(「坊主小屋」は国土地理院の地図にも「坊主岩小屋」と記載されている槍岳開祖・播隆上人がこもったという単なる岩の穴)

「窟(いわや)の中には一面に雪が溜まって、外よりなお冷や冷やする、やむを得ず、焚き火の側に桐油をひっかぶって、ごつごつした岩の上に寝ることにする、例によって少しも眠れない。うとうとする瞳を貫いて、かっと電光がほとばしる。驚いて飛び上がる耳もとに、槍も崩れたかとばかりどっと雷が鳴った。あとは再び寂然として、槍ヶ岳の夜は太古のごとく森厳である。」

こんな感じで、100年前の飛驒山脈の縦走の様子が綴られています。読みながらワクワクします。何度読んでも憧れます。このようなワイルドな山行がしたい、と。
また、風景の描写も実に巧みです。出だしの一文だけ紹介します。気に入られた方はぜひ原文をお読みください。約20ページの山岳紀行文です。

「河沿いの、楊(やなぎ)も樺(かんば)も水音も、ただ一色の朝霧の底に鎖(と)ざされて、梓河原は呼ぶとも醒めぬ景色である。」

リズミカルで何と美しい文章でしょう。音読するといっそう味わい深いものになります。


ところで、辻村伊助氏は「日本アルプス」という当時はやりだしたこの言葉が嫌いです。
この本に収められている「登山の流行」の中に次のような一文を見つけました。
「かって、飛驒山脈の連峰、今、日本アルプスと云う不快な流行語を与えられている山岳地を…」

また、別の一文にはハッとさせられました。
「重い荷物を自ら背負い、幾度も幾度も瀑布のような激流を渡って、一歩一歩山に近づいて行った、かくして彼等は永久に絶えることのない希望を抱いて山また山と放浪したのだ。あるものは、幾度か生死の境を出入りした、そして彼等の心を理解し得ない人々の嘲笑に対して、無関心に、何等の弁明をしようとする気にすらならずに、一向に彼等の信念に基づいて行動した、登山の利益とか、弊害とか云うことは、彼等に対しては何等意味をなさなかったのだ。」 (「登山の流行」辻村伊助)

純粋に山に登っていたワンゲル時代のことが100年も前に書かれていたのです。

35年前、「なぜ山に登るのか?」という級友からの問に対して、同期の末永は
「山はすかん。すかんけん登るったい。」と答えていましたが、今は亡き彼の笑顔が思い出されました。


書きだしたらついつい長くなりました。辻村伊助氏についてはまた後日第2弾を出します。



晴登雨読、やがて昼になり、無性にうどんが食べたくなりました。
うどん屋は近くにも4、5軒あるのですがそれらを通り越してわざわざ順番待ちのできるうどん屋さんに出かけました。その店の手打ちうどんの食感が忘れられなかったのです。あまり食べ物にこだわらない自分としては珍しいことです。

お目あての「とり天ざる大盛り」


コシのあるうどん2玉とジューシーな鶏の唐揚げ5個のセットで、一度食べたらやみつきになります。
この店はいつも行列ができているのですが、並んででも食べたくなるおいしさです。

コメント

ヤマボウシ 九千部岳'16

2016年06月06日 | 山(県内)
今日は月曜日ですが仕事の振替で休みです。
「振休は、九千部岳のヤマボウシを絶対見に行くぞ」と仕事をバンバンさばいて、この日には他の用事は一切入れずに楽しみにしていました。

バイオリズムだったら「知・情・意」
野球選手だったら「走・攻・守」
山登りだったら三拍子は「時間・体調・天気」

山行の計画を立てて、それに向けて体調管理まではできても最後の天気だけは天まかせ、人間の努力ではどうすることもできません。

本日の天気は曇り。雨でないだけましかと愛車アトレーで九千部に向かいました。
この時期、九千部は大人気で、土日だったら雨でも多くの人が登りに来ます。
今日は平日だからと油断していたら先客が…

吹越登山口近くの路肩にすでに3台。いずれも県外ナンバー




山はガスの中です…


それでもみんな山に入っていきます。


登山道はうっすらとガスの中。樹木についた水滴で衣服を濡らしながら徐々に高度を上げていきました。




稜線に出ましたが、ガスで視界はききません。





「時間・体調・天気」
登山の三拍子はなかなかそろってくれません。

山頂手前の岩場でコーヒーを飲みながら天気の回復を待ちました。

(平日でなければこの岩場も人でいっぱいで、悠長にコーヒーどころではありません)

お昼には少し早かったのですが、ランチの準備をしていたらガスの間からヤマボウシの咲く山肌が見えてきました。



この時、あちこちで同時に歓声が上がりました。
(真白のガスの中で気づきませんでしたが、みなさん適当な場所で待機していたようです)










本日はヤマボウシレストラン、特等席



これより帰路。来た道をゆっくりと下りていきます。










この後、濡れた岩で足を滑らせ瞬間的に横受け身!
長袖を着ていたのでけがはありませんでしたが、一つまちがうと大けがでした。

道沿いに咲く花を写しながらゆっくりと下りていきました。
















無事に下山!
この後、車で田代原に向かいました。

田代原から見た九千部岳


牧場の牛


吾妻岳方面


田代原トレイルセンター


久しぶりの山だったので、張り切って写真をいっぱいアップしました。
最後まで見ていただきありがとうございました。


PS
本日、意外にもアクセスが多かった3年前の「ヤマボウシを見に鳥甲山へ」ものぞいてください。
コメント

多良岳に沈む夕日

2016年06月04日 | 山(県内)
前回の「茜に染まる多良岳」の第2弾ではありませんが、仕事帰りに目にする多良岳の夕焼けです。
雲仙や多良の山々がいろいろな表情を見せてくれます。
しばらく山には登っていませんが、遠くからそんな山々を眺めるだけで癒やされています。











一日の仕事を終え家路を急ぐ車中で、思わず「穂高よさらば」を口ずさんでいました。

 穂高よさらば また来る日まで
 奥穂に映ゆる あかね雲…


「近いうちに雲仙のヤマボウシを見に行くぞ」という思いがむくむくと湧いてきました。
コメント