TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

天山歩荷の道に

2024年12月26日 | SUWV
最終回から1年9ヶ月経っての追記です。

新春に皇居で行われる「歌会始の儀」に、天山歩荷の歌を詠進していました。
(お題は「夢」)

砂と夢背負ひ登りし天山のあの日の道にまた帰り来ぬ


歌に込めた思いは以下の通りです。

学生時代の天山歩荷
山頂までの長い道
背中には砂を詰め込んだ重いキスリング
汗をダラダラ流しながら登ったアスファルトの照り返し道
山道では喘ぎながら一歩、また一歩
それでもあの頃の私たちには大きな夢があった
背負っていた砂以上の とてつもない夢が

就職してもしばらくは登っていたが
いつの間にか仕事に熱中
山への憧憬は心の片隅に

そして迎えたセカンドライフ
天山歩荷のあの道に
また帰ってきたんだと…


ところで、入選者を伝える新聞記事ですが
「歌会始 入選10人決定」の見出し
本文を読むと10人の筆頭に
「長崎県諫早市の」
一瞬ドキッとしましたが…

別の方でした。


私たちにとって天山歩荷の道は特別です。
今年の1月、先輩のO塚さんから誘いがありました。

「来週佐賀に用事があって、29日に天山歩荷の道を辿って見ようと思っています。S一郎と二人ですが、お知らせまで」

メールをもらい、「天山歩荷の道」に懐かしさがこみ上げ、ぜひご一緒させてもらおうと思ったのですが都合が悪くなり私はいけませんでした。

先輩の登山レポートでは、廃校を過ぎての山道が葛と棘のヤブになってしまっていたということでした。
今は八合目まで車で行く人がほとんどなのでしょう。


天山歩荷の歌
皇居「松の間」で詠み上げられるのを夢見ていたのですが…

拙歌をもう一首
老いてなほ夢中になれる吾が好きあの頃の夢今も追ひつつ



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旭川ラーメン「青葉」さんの思い出

2022年03月13日 | SUWV
今朝の毎日新聞
紙面をめくっていたら「青葉」の文字が飛び込んできた。
あの旭川ラーメンの「青葉」だ。


(「毎日新聞」2022/03/13)

懐かしさが一気にこみ上げてきた。

44年も前のことである。
当時私は大学の1年生で、ワンダーフォーゲル部というサークルに入っていた。
その夏合宿で、北海道を自転車で旅していたときのことだ
(見出しの写真はそのときのサイクリング風景)

旭川で昼食にに立ち寄ったラーメン屋さんが「青葉」だった。
食べ終わって、お店の人に
「この近くにテントを張れるところはありませんか」と、尋ねたところ
「うちに泊まらんね」と、想定外の答えが返ってきたのだった。
泊めてもらうことを期待して尋ねたわけではなかった。
こちらは「木の根枕の渡り鳥」なのだから、公園か空き地でもあればと思って尋ねただけだったので、思いがけない親切にたいへん驚いた。

ちなみに、前日は滝川のバス停が一夜の宿だった。もちろん風呂など入っていない。汚い格好の、見ず知らずの5人連れを、二つ返事で泊めてくれる寛大さに驚いたのだ。

その後、テレビや雑誌で、北海道のラーメンが取りあげられる度に、「青葉」のことが思い出されていた。

今日の新聞記事は、「旭川で愛を受け取る」という見出しで、お店のスタッフが子ども連れの客に優しく対応されたことが綴られていた。記事の内容は心温まるもので、「青葉」が取りあげられたことが自分のことのように嬉しかった。私も旭川で愛をいただいた一人だからだ。
40数年前のことが思い出され、幸せな余韻に包まれる朝となった。


嬉しくなって、あの時の資料を探してみた。
あった!
ワンゲル時代のアルバムに、写真、マッチ箱、店主からいただいた名刺をはさんでいた。


翌日の朝 泊めてもらった上にお見送りをしていただいた。

マッチ箱と名刺



それから、当時の合宿ノートにも青葉のことが残されていた。書いたのはPL(パートリーダー)の阿比留さんだった。「青葉」での出来事を、例によって面白おかしく書いていらっしゃった。

合宿ノート


その中に


「青葉ラーメン」


せっかくなので、活字に。

青葉のラーメン 
旭川市四条○丁目○○号  村山吉彌
六条○丁目○○号
 PLの阿比留さんほど不思議な力を、魅力を持った方はいないだろう。おとといの札幌でのこと、昨日の有珠の噴煙もさけ、一ヶ月前、親子グマが出たという支笏湖でも無事、おまけに3000円も…。ましてや今日である。なんとしても名物旭川ラーメンを昼食に喰わんと旭川にやって来たのであるが、阿比留さんは「青葉」のラーメンを選ばれた。そして今我々は「青葉」の自宅にいる。キャンプ場を尋ねたら「うちに来い」といって仕事中なのに、わざわざ自宅まで。これもひとえに、ただただ阿比留さんの人柄のなせる技と敬服してしまった。
- 一同 -

メンバーが書いたようになっているが、書いたのは当の本人である。
活字にしたものの、写真を拡大して、直筆の方が阿比留さんらしさが伝わるかもしれない。

別のページにも


「今度旭川に来た時は必ず寄ると約束して、かろうじて別れた。おじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん、ちえちゃん。五人の暖かい見送りだった。」

このページ全文


ここに、阿比留さんの感想が書かれていた。

上の文章に続けて
「今回はいろいろな人にお世話になってしまった。まして連発である。これも厳しい冬を過ごし、広い土地と、気持ちのいい夏の天気の中で生きてきた北海道の人の心の広さのためではなかろうか。しかし驚くべし。 -中略- 
今はどうだ、その気になれば、実際そうなったのであるけれど、駅でも何でも寝ることはできるのに、『テントを張れる所が近くにありませんかね』すぐに、『ここに泊まったら、そうしなさい』そう言ってすぐ準備をしてくれるのだから。心の広さにびっくり。できれば僕たちもそうなりたいものである。」 

今朝の新聞記事によると、「青葉」は1947年創業で現在は3代目・村山有一さんが店を切り盛りされているとのことである。「青葉」さんからいただいた親切は終生忘れることはないだろう。
「青葉」さんの益々のご発展を、心から祈念申し上げずにはいられない。

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友の帰国が叶う

2021年12月31日 | SUWV
「友の帰国に思いを馳せて」(12/18)の続きです。

帰国の手続きがスムーズにいかず苦しんでいたT氏は、12/26に、無事に帰国することができました。本人は勿論のこと、ご家族の皆さまもほっとされたことでしょう。

このことは、T氏のブログをご覧になっている方は、ほぼリアルタイムで、SUWVの同期は、S氏がメール等で情報を流してくれたので、その日に知ることができていました。

その後のことをご存知なかった方には、お知らせが遅くなって申し訳ないです。
12/18に記事をアップした後、難航していたビザの取得が叶い、12/25にPCR検査の陰性が確認され出国、26日に帰国し、帰国時のPCR検査でも陰性でした。ハイヤーで予約していたホテルに向かい、現在、14日間の自主隔離中です。

T氏が無事に帰国でき、同期とは「良かったね」と、喜びを分かち合い、それでほっとして油断していました。
ブログで心配な状況を発信していたのだから、帰国の報はもっと早くお知らせしなければならなかったと反省しています。
ご存知なかった方には、年の瀬の最後の最後に嬉しいニュースが入ったということでお許しください。

今年も本ブログを覗いていただき、ありがとうございました。
2022年が、皆さまにとって良い年でありますよう祈念申し上げます。






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友の帰国に思いを馳せて

2021年12月18日 | SUWV
「友の帰国に思いを馳せて」

その友は、ベトナムの若者達の自己実現に力を貸すべく、ベトナムに渡り日本語を教えていました。
でも、コロナ渦が現地の生活を「激変」させ、彼の生き甲斐を奪い取りました。
ロックダウンされた現地ですることがなくなり、彼は今、日本への帰国を熱望しています。
しかし、いくつかの障害が立ちはだかり、「1日でも早く帰国したい」と思いながらも帰国できない状況が続いています。

入国を困難にしている主な障害
①ワクチンの問題
日本政府はベトナムにアストラゼネカ製のワクチン100万回分を無償提供しましたが、彼にはその恩恵は届かず、やむなく中国製のワクチンを接種したという。日本政府はファイザー、モデルナ、アストラゼネカの3種類のワクチンしか認めていないので、帰国が叶っても2週間の自主隔離が待っています。
②スマホに「MYSOS」(入国者居所健康確認アプリ)インストールする問題
入国時にこのアプリの提示がなければ入国を拒否されるそうです。彼はスマホ不要論者でしたが、必要に迫られて購入したとのことで、この件は解決しました。
③ビザの問題
これは現在更新中とのことで、更新でき次第帰国の手続きに入るとのことでした。これまで彼は、公的証明書の取得が日本のようにスムーズに行かないもどかしさをブログで嘆いていましたが、早くこの問題が解決してくれることを願うばかりです。
④その他の問題
自主隔離のホテルやハイヤーの手配、PCR検査陰性証明書の取得など他の問題もありますが、③のビザの取得さえできればあとは先に進みそうです。

そんな彼が「帰国後に思いを馳せて」と題したブログに、帰国したら「近場の八木山に登りたい」「山とサイクリングプランの実践をしたい」「孫達と楽しく会話できるようポケモン語を…」と綴っていました。

彼の帰国を、彼の家族は勿論のこと、友人・知人みんなが心待ちしています。

そんな彼の帰国に思いを馳せて、私も新たな目標・夢ができました。
彼が近場(帰国後の拠点地から)と書いていた「八木山」を地図で調べたら、その近くに若杉山もありました。
私は、今、若杉山や三郡、宝満、四王寺山、背振の山々にとても興味をもっています。
それは先月末に行った九州歴史資料館で「九州山岳霊場遺宝」展で、それらの山々の歴史や今も残る仏像等に強く心をひかれたからです。

私の勝手な目標ですが、九州の山岳霊場の舞台となった福岡の山々に行くとき、帰国した彼と一緒に歩く機会があればと思っています。

コロナが収束し、以前のように同期会が復活したり、英彦山のときと同じようにみんなで山にのぼれる日を心待ちにしています。








上の写真は、12月4日にあった諫早の史跡巡りの様子です。専門家の説明を聞きながら地元の神社、仏閣などを訪ねました。「九州山岳霊場遺宝」展もこの関係で知りました。そして今、福岡の三郡山系や背振山系へと興味が広がっています。

PS
Tよ、逆境にあっても健康づくりは続けていると思うけど、身体はしっかり鍛えておこう。
そして、福岡の山歩きにつきあってくれ。
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スマホに変えました

2020年09月27日 | SUWV
長年愛用したガラケイをスマホに変えました。
2022年には今のガラケイが使えなくなると聞いていたので、そろそろ変えなければとは思っていたのですが、その日は突然訪れました。

ある用事でワンゲルの先輩Sさんにお会いしたのですが、その足でそのままAuショップに連れて行かれたのです。
その先輩からは、以前から「スマホに変えろ、変えろ」と言われ続けていたのですが、一向に私が変えないものですから、ついに業を煮やされたのか「今から近くのAuに行くぞ」と連れて行かれました。
あいにくその日のAuショップは予約客でいっぱいで受け付けてもらえませんでしたが、店の前で先輩から、「会の幹事をするのに連絡をするのも、集約をするのもLINEの方が断然早い。何もかも時代に合わせろとはいわないが、時代についていくところはついていかんば」と意見をされたのです。

この年になったら、本気で意見してくれる人はそういません。そこはやはりワンゲルの先輩だなとありがたく思いました。
そこまで心配してくださるのならと、翌日店に行ってスマホに変えた次第です。
ガラケイからの切り替え割や貯まっていたポイントを使い、手出しなしでスマホを手に入れることができました。しかも毎月の使用料がガラケイよりも安いのには驚きました。


今まで自分が使った携帯を並べてみました。




初代はトランシーバー型でしたが、そのうちに二つ折りのものに変わりました。2代目のグリーンのが割と早く壊れたので、3代目に変えたのが2008年の10月で、それを先日まで13年間使い続けたわけです。
ところが、3代目のガラケイのメーカーはそれを2020年を越えて使うことは想定していなかったようです。内蔵のカレンダーが2019年12月31日までしか組んでありませんでした。

これまでのガラケイ



さて、遅まきながらのスマホデビューです。
まだ使い方をあれこれ研究しているところですがスマホは便利です。
またもや新しい世界を勧めてくださった先輩に感謝です。
「またもや」とことわったのは、学生時代にワンゲルに誘ってくださったのもこの先輩でした。
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いざ多良岳へ

2020年07月30日 | SUWV
冷たい飲み物やデザートをクーラーボックスに詰めて、いざ多良岳へ。
多良岳は今、オオキツネノカミソリの盛で、それを見に先輩が登られています。

私は午前中仕事だったので、遅まきながら午後から合流しようと車を走らせました。



多良岳は雲の覆われています。
下界は梅雨が明け一気に真夏日になりましたが、山は曇りで涼しいのかなと思いながら車を走らせています。心は早くも多良の山の中です。

国立諫早少年自然の家を通過し、まさに多良岳林道に入ろうとしたら「通行止め」の看板が道をふさいでいます。
「えっ!」聞いてないよと、思ったものの、通行止めには勝てません。

「しまった」
私はいいにしても、1週間前に、先輩から多良岳林道についての問い合わせが私にあっていたのです。そのとき、
「通行止めなど情報は入っていません。大丈夫です」と答えていたのでした。

確認もせず安易に返事していたことを後悔し、あわてて市役所に電話しました。
多良岳林道は、7月6日の大雨以降通行止めで復旧は未定。また、山茶花高原からも通行止めで、金泉寺登山口には行けないとのことでした。

はたして、先輩方はどうされたか。携帯に掛けるもつながりませんでした。
予定を変更され、電波が届かないような山に行かれたのかなと思いながら、私は引き返しました。

その日の夕方、多良岳の予定でしたが、私はいつもの上山に登りました。
上山から見た多良岳ですが、多良岳の上には夏の雲が湧いています。


その頃、やっと先輩に電話がつながりました。
多良岳の林道が通行止めだったので、どこに行かれたのかと心配していたら、なんと多良岳に登ったということでした。
山茶花高原の方から入り、崖崩れの手前まで車で行き、あとは歩いて行かれたそうです。
通行止めから歩いて30分。金泉寺へ通じるコンクリート道をさらに30分かけて金泉寺に到着したとのことでした。

オオキツネノカミソリは咲いてはいたが、表土が流され球根がむき出しのものがあり、来年以降が心配だとも話されていました。

アクシデントはありましたが無事に下山したとの報にほっとしました。
天草のOさん、有家のMさんお疲れ様でした。

またの機会にご一緒させていただきます。
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昔の仲間と英彦山に シャクナゲ荘に集う

2020年01月27日 | SUWV
昔の仲間が、英彦山に登ろうとシャクナゲ荘に集結した。
私たちの同期会は、年に2回、1月と7月に開催しているが、今回は、幹事のT福の提案で英彦山登山、そしてシャクナゲ荘に一泊ということになった。
同期のメンバーで温泉宿に泊まるのは実に38年ぶりのことである。
半年前から周到に準備し、この企画を成功させてくれた幹事のT福に感謝である。

はじめに英彦山登山、天気とメンバーの体力(勿論、私も)が心配されたのだが……

シャクナゲ荘を出発


宿のマイクロバスで、参道の中腹(神宮下)まで送ってもらう。銅の鳥居からの趣深い参道を歩けないのは残念だったが、脚力が温存できるのは正直ありがたかった。ましてや、午後3時以降は雨の予報で、早めの下山が必要とされているからだ。

いざ、参道を歩き始める。途中からだが、歴史を感じさせるこの参道は実に味がある。


いいね!


あっという間に奉幣殿に到着。元気な顔のうちに記念撮影ということになった。


すぐにはじまる急な登り。誰かが言った「石段の間隔が広すぎる!」


ほどなくして休憩 誰からも異議は出なかった。


杉の巨木の中、石段は続く。


木立の間から


ゆっくりだが確実に高度をあげた。行者堂の前で小休止。誰からも異議は出なかった。


すこぶる順調で、上宮下の広場へと降りていく。


そしてランチタイムの準備。


幹事からコッフェルとブスの応援依頼があっていたが、さすがに今の時代はガスコンロだろう。
ただ、私が持参したコッフェルは38年前のものだ(エバニュー製)。
皆さん手慣れたもので、あっという間に食事の準備ができた。さすが元ワンゲルと感心する。







小雨の降る中、山頂で記念撮影 まだまだみんな笑顔


さて下山 上宮前でも1枚


下山開始


中腹はすっぽり雲の中


ガスの中を降りていく かろうじて天気はもってくれている。


下りも順調で、お互いの近況などを話しているうちに奉幣殿が見えてきた。




降りてきた道を振り返る。杉の木立が霧でフェードアウトしていてなんとも幻想的である。


さらに参道を下る。


ウン?右手の小枝は梅?否! 桜だ。


バスに乗る前に花山商店に立ち寄る。前回、英彦山の古い地図をもらっていたのでそのお礼も兼ねて。

店の中


昔ながらの英彦山がらがら


寄り道をしたので、みんなを待たせてしまっていた。


次は宿泊編である。
まず、温泉で汗を流し


夕食前に反省会と称して4時過ぎから飲み始める。


これらも幹事が準備してくれたもの。
この後、T福の奥さん手作りのがめ煮や鳥の照り焼き、サラダが並び、みなさん異口同音に「宿の夕食はいらないね……」と。(写真を撮り忘れて申し訳ない……)



今年は還暦の年でもあった。お祝いにとT福は純米大吟醸を準備してくれていた。


夕食は宿のレストランで(上の「反省会」は部屋の居間)


そして再び部屋で反省会
実は夕食の30分ほどが酒なしで、4時過ぎから10時までずっと飲んでいたことになる。

別れの朝 最後までみんな笑顔だった。




そういえば38年前は佐賀の佐里温泉だったな。
学生時代はほとんどがテント泊で、みんなで温泉宿に泊まるのは初めてのことだった。
あの時はみんな口々に「ぜいたくしたね」と言っていた。

今は少しニュアンスがちがう。みんなが健康で笑顔で再会できることがなによりだ。
同期のS永とは、思い出の中でしか会えない。

昔の仲間で山に登ろうという、簡単そうで実は難しい企画を実現させてくれたT福に、そして集まった皆んなに感謝の気持ちでいっぱいだ。
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懐かしの作礼山

2019年10月03日 | SUWV
実は… 宝満山に登る前日、9月28日に作礼山に登った。
正確には「登った」ではなく「行った」のだが。

9/28、29は天気予報では午後から雨だった。
できれば祖母山あたりの遠征を考えていたのだが天気が悪くてはと見合わせていたのだ。

今年はいろいろとあってまだ一度も県外に出ていない。
ふだん登らない県外の山を渇望していた。

はたして、その28日。
朝から青空が広がっていた。これでも午後からは雨なのかと天気予報を確認するもやはり雨。
ところが9時過ぎの予報からは雨マークが消えた。

何なんだあの予報はと腹立たしく渇きがピークに達した。
どこでもいいから山に登ることにした。
とりあえず車中泊もできる装備を積み込んで車を走らせた。

この時点で10時を回っていた。
運転しながらあれやこれや候補は浮かぶものの目的地が決まらない。

中山キャンプ場から経ヶ岳も頭によぎったが今ひとつ食指が動かない。
多良山系はいつでも行ける。

そうこうしているうちに鹿島を過ぎた。
天山か。天山もいいが、天山はこの天気では暑すぎる(9合目から樹林帯がないから)。

そうだ、久しぶりに作礼山に行こう。
あそこなら木もいっぱいあるし、しかも9合目まで車で行ける。
なんと軟弱なと思いながらも36年ぶりの作礼山を目指すことにした。

車中、作礼山の想い出が蘇ってくる。

作礼山は追い出し(「老い出し」とも書く)ワンデリングの山だった。
老い出しは、荷物をその年の卒業生に担がせ、池のほとりのバンガローに泊まり、酒を飲みながら夜遅くまで思い出話に花を咲かせるというそんなワンゲルの恒例行事だった。


老い出しのワンデリングの登り初めは厳木駅



部員みんなで記念撮影

(4年の時)



(3年の時)


凍った池でサッカー(?)



そういえば、ほぼ全員が二日酔いでレクどころではなかった年もあったな…


いろいろなことを思い出しながら車は作礼に向かった


途中の多久、「花祭」というバス停付近


畦道の彼岸花が満開







厳木手前から山道に入り9合目の駐車場




車には車中泊もできるほどの装備を積んでいたのだが、ウエストバッグにカメラ・携帯という超軽装備で懐かしの作礼に足を踏み入れる。





駐車場から池へと向かう道。
久しぶりの作礼に期待が高まる。

- 続く -





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宝満登山・前段  「宝満の思いで」

2019年09月30日 | SUWV
9月29日。雨の予報が曇りに転じたので急きょ宝満山に登ることにした。
久しく遠ざかっている県外の山への飢えから、手軽な山ということで宝満山を選んだ。何を根拠に「手軽な山」かと聞かれれば、それは私の記憶なのだが、今回登ってみてイメージとの違いに苦戦することになった。(苦戦はしたが後悔はしていない)

宝満山には19歳の秋に2回登っている。41年前のことだが、楽しかった想い出、ほろ苦い想い出はあるものの、きつかったという記憶は時間のフィルターの中で、きれいに消去されている。また、歴史を感じさせる登山道は魅力に満ちていて、今の私のフィーリングにピッタリなのだが、その登山道のことは全く覚えていなかった。今回登ってみて、その味わい深い登山道にあらためて魅了されることになる。


さて、今回の山行を紹介する前に、ワンゲル時代の宝満山の想い出を綴ってみる。

まず、1回目は大学1年生の秋休みだった。1年生だけでお互いの親睦を深めるためにパーワンを組もうとS永が言いだし、それに賛同したT福、私、そして入部したてのS島の4人で出かけた。「親睦を深めよう」は大義名分で、先輩のいない同期ばかりで気楽な山行を楽しもうというのがその目的だった。コースもS永が組み、若杉から三郡を経て宝満までをなんと2泊3日で縦走したのだ。1泊目が確かしょうけ越だったと思う。簡単な小屋みたいなのがあってそこに泊まったのだが、夜中に小屋の周囲に集まった野犬からけたたましく吠えられたのを覚えている。恐怖の一夜だった。

若杉山山頂 入部したばかりのS島はユニフォームが間に合わなかった


翌日は宝満山のキャンプ場に建つ山小屋に泊まった。晩飯を終え山頂に夜景を見に行くことになった。岩場の山頂からは福岡の街のまばゆいばかりの夜景が一望でき、それを肴に飲む酒は最高だった。「岩場で酒」これが1年生ばかりの山行の判断の甘さだったのだろうか。そして滑落未遂が起きた。もしも本当に滑落していたら大変なことになっていた。大怪我もしくは死亡事故…。部の責任も問われ、1年間の活動停止は免れなかったろう。みんなに大迷惑をかけるところだった…

滑落未遂というか、あの時私は本当に足を踏み外し滑落したのだ。夜景を満喫し、山頂の岩場から石の階段を降りようとしたときのことである。あっと思ったときには遅かった。自力では制御不能の状態に陥り、体は宙に浮いた。酔いが一気に吹っ飛び、頭の中が恐怖でいっぱいになったとき、私の体は前を降りていたT福にぶつかり、そこで止まったのだった。T福は何事もなかったよう平然としていたが、その後の会話は覚えていない。とにかく強靱なT福のおかげで玉突き滑落は回避できた。


キャンプ場の山小屋前にて



PLのS永



T福と言えばもう一つ、そのT福が話した「百段雁木」のことも思い出される。「ヒャクダンガンギ」という言葉の響きもさることながら、その百段雁木でT福が高校時代にバテたというのだ。同期で一番体格のよかったT福は久留米出身で、高校時代は山岳部だった。その時のトレーニングの歩荷で、百段雁木にさしかかった時、太ももがつり、そのまま横にひっくり返ったというのだ。あのT福でさへバテさせる百段雁木とは大変な難所なんだろうというイメージが焼き付いた。今回の登山でその百段雁木の有り難さをしみじみ味あうこととなった。

一の鳥居の前

今では珍しいキスリングが写っている 今見てもT福の脛はたくましい!
彼がいたから私は助かった


さて、1年生で行った1月ほど後に2回目の宝満登山が計画された。その時は、1年生から3年生までの有志14人が参加していた。この時も登山道の記憶は全くない。記憶に残っているのは、太宰府の茶屋で梅ヶ枝餅を食べたことやキャンプ場の山小屋で水炊きをし酒を飲んだことくらいで、キスリングを背負って登ったのだが、登りできつかったという記憶は全く残っていないのだ。楽しかったことだけがほんわかと思い出される。あらためて写真を見てみて、若杉まで縦走していたことに気づいた。そのことも全く覚えていない。当時の写真が縦走したという事実を伝えてくれている。


登山前 太宰府の茶屋で梅ヶ枝餅



天満宮前にて



キャンプ場にて  バックは山頂の岩場



記憶にはないが若杉山(この時は1泊2日で縦走したのだろう)







次回は、「41年ぶりの宝満登山」です。
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同期会'19

2019年01月27日 | SUWV
すっかり恒例となったT君の帰国に合わせての同期会が博多でありました。
今回は私たちの同期に加えて、後輩二人の参加もあり合計10名での酒宴となりました。








いつもながら楽しい時間をありがとうございました。
みなさんお互いに元気でまた夏に会いましょう。
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