TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

長崎探訪⑦ 崇福寺 「五足の靴」の足跡を辿るなかで

2022年11月30日 | 吉井勇
吉井勇が若き日に、新詩社の仲間五人と九州を旅した「五足の靴」の足跡を辿っています。
今回は崇福寺です。
崇福寺は長崎にある唐寺の中で吉井勇が最も愛した寺らしく、崇福寺を詠んだ歌の多さがそのことを物語っています。
ただし、吉井が崇福寺をゆっくりと拝観したのは二度目の来崎である大正9年以降で、「五足の靴」のときには人力車の車中から見ただけかもしれません。

吉井勇、長崎再訪の様子。
「私が二度目に長崎に来たとき、即ち大正9年永見夏汀君の所に寄寓してゐた時だらうと思ふ。この時はほとんど毎日のように茂吉君と連れ立って崇福寺、福済寺、浦上と大浦の天主堂を見て歩いたばかりでなく…」(「筑後雑記」の「茂吉を思ふ」より抜粋)

その時詠んだ歌が歌集「夜の心」の「長崎紀行」に収められています。


赤寺の沙門即非の額にさす夕日は悲し支那人ひとりゆく


そんな吉井が愛した崇福寺を訪ねました。

まずは竜宮門(三門)


ひときわ目を引く赤い門で、正面の大きな門の両側に脇門があるので「三門」とも言います。
扁額の「聖壽山」は隠元和尚の筆だそうです。

この竜宮門をくぐって、いざ私自身初めての崇福寺へ。


竜宮門はあまりにも目立つので何度も目にしてましたが、入るのは畏れ多い気がしていました。

振り返ってみても、やはりカッコいい!




そして坂を登ったところにあるのが国宝「第一峰門」です。


この門に対面した時の喜びを吉井は歌に詠んでいます。


これやこの朱塗りの壁の唐づくり沙門即非の額のある寺


この歌は歌集「旅塵」に収められているので、昭和11年の大歌行脚の時に詠んだ歌かもしれません。

「沙門即非の額」アップ!


即非は、竜宮門の扁額を書いた隠元と同じく黄檗宗三筆の一人です。


赤寺の沙門即非の額にさす夕日はかなし支那人ひとりゆく
(歌集「夜の心」の「長崎紀行」)



国宝「大雄宝殿」



もの思へば魚板の音もうらがなし海西法窟の春のゆふぐれ
(「長崎紀行」)

建物の前の廊下


天井がアーチ状になっていて、これは日本にはない特徴で黄檗天井といわれるものです。

宝殿の中


中央に釈迦三尊像、その両サイドには十八羅漢が並んでいます。





護法堂の中にある関帝堂


「三国志」の英雄関羽が祭ってあります。「三国志」ファンにはたまりません。




関帝のおはす御堂に夕日さしこのゆふぐれのしづかなるかも
(「長崎紀行」)


同じく護法堂の天王殿
ここには韋駄天が祭ってあります。




雨降りて堂ぬち暗く韋駄天の像の額も寂しきろかも
(歌集「旅塵」の「支那寺」)


媽祖堂門


旅ごころ少し寂しく支那寺の媽祖堂みちを往きにけるかも
(「支那寺」)

媽祖堂の中


媽祖をお守りする随神の順風耳と千里眼


よく聞こえる耳とよく見える目、この2神にあやかりたいものです。
媽祖は航海安全の神様ですが、そのためにも順風耳と千里眼のサポートは重要だったのでしょう。でも、この2神は昔は悪神だったのですが、媽祖によって改心したそうです。阿修羅みたいですね。

ひと通り見学し竜宮門に帰ってきました。




吉井勇が愛した崇福寺でした。よほど気に入ったのでしょう、吉井はたくさんの歌を残しています。


明僧の超然和尚建てましし寺に来て聴く雨の音かな

支那寺の門の傍の家ゆかし劉としるすは通詞の家か

雨の日の黄檗宗の石だたみ濡いろすがし踏ままくは惜し

赤寺の屋根に降りしく雨のなか石段降りて支那をとめ来る

唐寺の鐘の音にもうなだれてさすらいびとは涙ながしむ



吉井が崇福寺に行くときはいつも雨模様だったのでしょうか、雨とセットで詠んでいる歌が多いです。

吉井はつぶやいたことでしょう。
「長崎は今日も雨だった」


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長崎探訪⑥ あか寺(興福寺) 「五足の靴」の足跡を辿るなかで

2022年11月29日 | 吉井勇
吉井勇が若き日に、新詩社の仲間五人と九州を旅した「五足の靴」の足跡を辿っています。
今回は「あか寺」とも呼ばれる興福寺です。

山門(長崎で一番大きい門)


赤く塗られています。唐寺の特徴ですが、日本最古の黄檗宗の寺院だそうです。

興福寺について



門の右にかけられた垂れ幕には隠元和尚




「熱烈歓迎」は参拝者に対してではなくて、日本に来てくれた隠元和尚に対してです。
隠元を日本に呼ぶにあたっては3代住持逸然が4回も招請状を送っています。はじめ隠元は高齢を理由に断っていたのですが、逸然の熱意にうたれて渡海してきました。高層の来日に「熱烈歓迎」なわけです。3年の約束で日本に来たのですが、隠元は日本の地で生涯を全うし、日本の文化に多くの影響をもたらしました。

ワクワクしながら門をくぐります。



山門を振り返ると


「初登寶地」と書かれた扁額は隠元の直筆だそうです。


大雄宝殿


その窓


「氷裂式組子の丸窓」

組子は釘を使わず木材を組み合わせる技法のことです。この丸窓ですが、「創建当時は裏側全面がガラス張りで、陽の光に輝いて、まるでステンドガラスのような美しさ」(説明板より引用)だったそうです。

ガラスが一部残っている窓がありました。


また、壁には日本の伝統的な組子が施されてるところもあります。


媽祖堂


鐘鼓楼


ここの梵鐘は太平洋戦争のときに金属回収令により国に供出されてなくなったのですが、2021年に中国福建省より新たな鐘が寄贈されました。興福寺の鐘の音が再び響いたのは昨年の大晦日のことです。
先に訪ねた福済寺の、11時2分に鳴らされる「鎮魂の鐘」と同じように、お寺の鐘が鳴るということは普段はなかなか気づきませんが、世の中が平和であることの証なのかもしれません。


魚板


魚板は僧侶に飯時を知らせるために叩く魚の形をした板ですが、この興福寺の魚板は、全国の禅宗のお寺にあるものの中で最優秀作と言われているそうです。
しかも雌の魚板もあり、雌雄一対で掛かっています。

雌の魚板


よく観察すると、おなかの部分が凹んでいます。


何百年もの間叩き続けられてこうなったのですね。こんなところにも歴史が感じられました。


三江会所門(裏側)



境内の随所で赤く塗られた柱や壁が見られ「あか寺」の通称が頷けました。


赤寺の門の甍に降るときはさびしかりけり長崎の雨
(「歌集『天彦』 肥前長崎)





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長崎探訪⑤ 諏訪神社 「五足の靴」の足跡を辿るなかで

2022年11月28日 | 吉井勇
吉井勇が若き日に、新詩社の仲間五人と九州を旅した「五足の靴」の足跡を辿っています。
今回は諏訪神社です。

諏訪神社(地元の人は「おすわさん」と呼んでいます)


明治40年、「五足の靴」の一行は諏訪神社を訪ねていますが、そこから見える長崎の眺望に心奪われたようです。

吉井勇は「与謝野寛先生等と長崎に遊びてより、既に四十年に近き歳月を経たり。その頃を思へば懐舊の情に堪へず」と、歌集「旅人」の「長崎曾遊」に次の歌を詠んでいます。


年経れどいまも目離れず白秋とはじめて見たる長崎の街

秋はつぶら眼をしてゐたりけり諏訪山の上に海を見るとき

白秋が「つぶら眼」になったという海が見える場所に立ちたくて、諏訪神社横の高台を探しました。

駐車場になっている広場に出ました。ここかな?


残念ながら木が生い茂っていてよく見えません。


100年前なら、ここからも海が見えたと思いますが、もう少し上の方まで行ってみることにしました。
大きな木(クスノキ)を残して道が続いていました。



木が中央分離帯になっています。


だいぶ見えてきました。

でも、電線が邪魔
もう少し上へ

ありました!


一行のリーダーであった与謝野寛は感嘆して次の歌を残しています。

長崎の円き港の青き水ナポリを見たる眼にも美し


この眺望は、白秋だけでなく全員を「つぶら眼」にしたことでしょう。

諏訪の山から海が見えたことに満足して帰ろうとしていたとき、諏訪神社横の公園にある石碑が目に留まりました。

これです。


「郷土先賢紀功碑」


長崎の発展に貢献した人の名前が刻んであります。



シーボルト、即非、隠元…

説明版に
「この種の碑で外国人がまとまって顕彰されている例は珍しく、全国に、さらには世界に誇れる国際交流都市長崎ならではの碑といえる」
と書いてありました。

長崎探訪の1日目はここ諏訪神社で時間となりました。
続きは先ほどの碑に名前が出ていた隠元、逸然等と関わりの深い唐寺を訪ねました。
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長崎探訪④ 筑後通り 「五足の靴」の足跡を辿るなかで

2022年11月27日 | 吉井勇
吉井勇が若き日に、新詩社の仲間五人と九州を旅した「五足の靴」の足跡を辿っています。
紀行文「五足の靴」には長崎の記述がすっぽりと抜けているので、消えた足跡を辿るのは簡単ではありません。
そこで、このことについて研究された鶴田文史氏の著書「西海の南蛮文化探訪『五足の靴』幻の長崎編・要の島原編」を参考にさせてもらい、氏が発掘された「『五足の靴』長崎ロード」を基に吉井と縁の所も加えながら長崎の街を歩くことにしました。

今回は西坂から筑後通りを歩きました。

西坂


西坂は二十六聖人殉教の地です。明治40年の九州旅行「五足の靴」が「切支丹の遺跡探訪を主としたような旅行になってしまった」(「筑紫雑記一」)と吉井勇が述懐しているので、浦上天主堂から諏訪神社の途中にあったこの地には立ち寄ったかもしれません。もちろんその頃は写真にあるような記念館は建ってはいませんでしたが。

この西坂から諏訪神社まではお寺が続きます。昼に稲佐を出て、浦上天主堂、諏訪神社、そして夕刻には上野屋旅館に着くためには、筑後通りにあるお寺は素通りだったと思われますが、後年の吉勇と縁があるお寺もあるので今回の私の長崎探訪では本蓮寺、福済寺、聖福寺と訪ねました。

本蓮寺


左上に見えているのが本堂です。「長崎三大寺」と言われるほどの大きな寺でしたが、原爆で焼失したそうです。写真の階段下にはかっての山門の礎石がそのまま残されています。写真上部の真ん中に日蓮上人の像が海に向かって建てられています。本蓮寺は「昔は野母半島をも望む景勝地だった」(長崎公式観光サイトtravel nagasaki)そうですが、今はビルが立ち並び、海は見ることができません。



実はこの本蓮寺は吉井勇と縁のあるお寺になっています。それは吉井勇の蓬莱池を詠んだ歌碑がこの地に移されているからです。(この辺の経緯は →「本蓮寺に移されていた吉井勇の歌碑 「とこしへに水清かれと祈らまし…」

本蓮寺にある吉井勇の歌碑


とこしへに水きよかれと祈らまし蓬莱の池を見はるかしつつ


突如と現れる大観音様にドッキリ!


あの観音様が次に行く福済寺です。


福済寺

福済寺は黄檗宗のお寺で「長崎4福寺」の一つですが、他の唐寺とは趣が異なります。昔は大きな寺で今の国宝にあたる特別保護建造物だったそうですが原爆で焼失し再建されました。戦後、原爆被災者と戦没者の冥福を祈って建てられたのが先ほど見えていた大きな観音様「万国霊廟長崎観音」です。







この観音様の下はお堂になっていて、地下には平和について考えさせられる遺品や、原爆で焼けた瓦や戦前の写真などが展示されていました。

「シノザキと記した水筒」


「シノザキと記してあり遺族を探しています」と。

「テニアン島にて」

「テニアン島」の文字と、さらには「遺骨は13柱収集したが他の多くの遺骨は来年度収集に行く予定」の文字が心に残りました。



「テニアン島」は太平洋戦争末期の激戦地で、日本軍が玉砕した島であり、その後B-29の基地になった島です。そのテニアン島を飛び立ったB-29が祖母山系の障子岳付近で墜落する事故があったことを、障子岳に登ったときに知りました、「テニアン島」という名前も。

B-29墜落の地(障子岳から親父岳に伸びる尾根の鞍部)


旧日本兵の遺骨収集や遺品を遺族に届ける活動をされているの方々と同じように、異国の地に墜落したB-29の遺族を探したり、いまだに機体の残骸を掘り出したりしている人たちとつい先日遭遇したばかりでした。「墜落の地」の説明板に書かれていた「テニアン島」の文字を、まさか長崎探訪のお寺で目にするとは思いもしませんでした。

焼け野原となった跡地に建てられた観音様
静かに長崎の街を見渡しておられます。


同じく焼け野原に建立された「鎮魂の鐘」

この鐘は原爆が投下された11時2分に、毎日7打(1打で1万人の魂を鎮める)されるそうです。


「五足の靴」当時の福済寺の写真も展示してありました。


福済寺国宝大観門


「国宝大観門ヨリ鐘鼓楼ヲ望ム」

貴重な建物でしたが、5人連れの一行は人力車の車窓より眺めただけで先を急いだことでしょう。



福済寺の隣に建つのが聖福寺です。


聖福寺

聖福寺も「五足の靴」当時は素通りしたと思われますが、後に吉井勇と関係の深いお寺となります。というのは、昭和27年に「じゃがたらお春」の歌碑がここの境内に建立されたからです。なお、その除幕式には夫人同伴で吉井は長崎を訪れています。

「じゃがたらお春」の歌碑


長崎の鶯は鳴くいまもなほじゃがたら文のお春あはれと


除幕式にて詠んだ歌
長崎に来る旅人の目にながく残れよと思ふ碑にむかひて


今回聖福寺を訪れたら大掛かりな改修中でした。


狭い通路を抜けていくと


大雄宝殿はシートに覆われ見学できませんでした。


2年前、改修前に訪ねた時の聖福寺の様子 → 「長崎探訪1 聖福寺」 2020年

2年前になかったのが坂本龍馬の像です。


うん,凛々しい!

ここ聖福寺は幕末の「いろは丸事件」の会談が行われたところで、海援隊率いる坂本龍馬と縁の深いお寺です。
また最近では、さだまさし原作の映画「解夏」のロケ地になったことでも有名です。


さて、この日は稲佐、浦上天主堂、西坂、筑後町通りのお寺を回ったらお昼を過ぎていました。
聖福寺を出たところにあるホテル「セントヒル長崎」で昼食。

長崎名物ちゃんぽん



「五足の靴」の長崎での足跡は、1日で回れるだろうと思っていたのですが、とても1日では回れそうにありません。

―続く―
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長崎探訪③ 浦上天主堂 「五足の靴」の足跡を辿るなかで

2022年11月25日 | 吉井勇
吉井勇が若き日に、新詩社の仲間五人と九州を旅した「五足の靴」の足跡を辿っています。
紀行文「五足の靴」には長崎の記述がすっぽりと抜けているので、消えた足跡を辿るのは簡単ではありません。
そこで手掛かりになるのは吉井勇の歌や当時のことを述懐した随筆です。

「大江の宿」と題した「五足の靴」時代の回想随筆には次のように書いてあります。
「明治四十年の八月、与謝野寛先生に率ゐられて、北原白秋、木下杢太郎、平野万里、それに私の五人連で、九州を旅した時の思ひ出をうたったものである。この時の旅は、一路汽車で下関から門司へ渡り、福岡で九州路における第一夜を明かしたのであって、それから私達の一行は平戸へ往き、そこにあった阿蘭陀塀とか阿蘭陀井戸とかいふやうな、紅毛遺蹟を見物した後長崎へ往った。そこでは浦上の天主堂や諏訪神社などを見てから、石畳の多い古びた街を歩き廻ったが、その頃はまだ何処の商店の看板にも、日本字と並んで露西亜の文字が用ひてあった。長崎に一晩泊まった後、私たちは茂木の港から船に乗って、天草島の島はづれにある富岡といふところへ渡ったが(略)」

長い引用になりましたが、「浦上の天主堂や諏訪神社など」とはっきりと書いてあります。問題は「諏訪神社など」の「など」です。これに関しては鶴田文史氏の「西海の南蛮文化探訪『五足の靴』幻の長崎編・要の島原編」を参考にさせてもらい、鶴田氏が発掘された「『五足の靴』長崎ロード」を基に吉井と縁の所も加えながら長崎の街を歩くことにしました。


今回は浦上天主堂です。

鶴田氏の「『五足の靴』長崎ロード」では、稲佐の後の訪問地です。稲佐から約3.5㎞、その後の行程を考えると普通に歩いて行ったとは考えにくいので、別の交通手段を利用したと思われます。


浦上天主堂




今は「カトリック浦上教会」と言うそうで、今の建物は1952年に再建されたものです。

吉井達が訪ねた時(1907年)の教会は

1895年より建設に取り掛かり19年の歳月を要したそうですから、上の写真の教会の建造中だったかも知れません。

1945年、原爆で倒壊





今も原爆の悲惨さを伝えるために残されている鐘楼の一部





原爆で破壊された浦上天主堂ですが、鐘楼にあった2つの鐘のうち1つが奇跡的に瓦礫の中から見つかったことはよく知られています。朝ドラ「エール」でもこのことをモチーフにした件がありました。

戦争中は鳴らすことができなかった鐘を、敗戦後、瓦礫の中に見つけて掘り出し、なんとか丸太3本で組んだ櫓に吊るして、クリスマスイブに鳴らしたという話です。

その鐘の音は、藤山一郎が歌った「長崎の鐘」(サトウハチロウ作詞)の歌詞のように、絶望に打ちひがれる人たちの心を「なぐさめ はげまし」たことでしょう。




「長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る」

慰め、励まし勇気を与え続けた鐘の音は、今では、何事もなかったかのように澄んだ音色で長崎の街に響き渡っています。


さて、吉井勇も浦上天主堂を切支丹遺跡探訪として訪れています。もし鐘の音を聞いたのであれば、それは現代のように平和の響きとというより、辛い禁教の時代を経てやっと訪れた「信仰の自由」の証の音に聞こえたことでしょう。


「五足の靴」より40年後、吉井は長崎の教会の鐘の音を歌にしています。

長崎の南蛮寺の鐘の音に心さそはれい往きしもわれ
(歌集「旅塵」長崎曾遊)

なお、歌集には次の一文も添えられています。
「明治四十三年与謝野寛先生等と長崎に遊びてより、既に四十年に近き歳月を経たり。その頃を思へば懐舊の情に堪へず。」
(注:「明治四十三年」は「明治四十年」の間違いと思われます)
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長崎探訪② 黄檗展 「五足の靴」の足跡を辿るなかで

2022年11月24日 | 吉井勇
長崎探訪3日目、長崎歴史文化博物館で催されていた「長崎の黄檗」という企画展を見に行きました。
「黄檗」といえば日本史で出てきた「黄檗宗」という名前ぐらいしか知りませんでしたが、吉井勇を調べる中で、黄檗宗の僧侶の名前やお寺が出てくるのでかなり気になっていました。そんな折、長崎探訪と称して長崎の寺町を歩いていたら、黄檗企画展のポスターを行く先々の唐寺で目にしたのです。これは天祐とばかりに見に行くことにしたのでした。

話はそれますが、天祐といえば諫早の「天祐寺」に何故か黄檗宗の僧侶の書が遺っていて、そこでも「黄檗」が気になっていました。(天祐寺は曹洞宗、黄檗宗は臨済宗なのに…)

天祐時の山門


この額は、黄檗宗の僧侶であり医師でもあった独立(どくりゅう)の揮毫です。


天祐寺横の愛宕社には肥前鳥居がありますが


その額束


この額束は「黄檗宗の三筆の一人『即非』の揮毫」と説明版にかいてあります。


アップ






この愛宕社の石段は、私の普段の上山歩きのコースなので鳥居も「即非」の名前もよく目にしていました。



その「即非」ですが、吉井勇の短歌に

赤寺の沙門即非の額にさす夕日はかなし支那人ひとりゆく
(歌集「夜の心」の「長崎紀行」)

これやこの朱塗りの壁の唐づくり沙門即非の額のある寺
(「歌集「旅塵」の「支那寺」)

即非の額が出迎えてくれる崇福寺の第一峰門


額の「第一峰」が即非の揮毫


さらに興福寺入り口には


巨大な垂れ幕に
「熱烈歓迎 隠元和尚」


そして、そこに置いてあったパンフレット


「11月27日まで」と、これは急がなければ!

パンフを開くと


俄然興味がわいてきました。
吉井勇を深く知る上で、これは黄檗は必須とばかりに長崎探訪の3回目は、五足の靴の足跡巡りから離れて、歴史文化館行きを決めたのです。


さて本題の「長崎の黄檗」展ですが、3階の展示フロアーは撮影禁止でしたので写真は撮れませんでした。黄檗宗の僧侶は、はるばる中国から選ばれて渡来しただけあって多才です。宗教の見識は勿論なのでしょうが、書、絵画、詩などでも優れた才能を発揮していて、遺された作品を鑑賞するとそのことがよく伝わってきました。


2階の常設フロアーはストロボなしの撮影は可能でしたので、そこの展示物の一部を紹介します。

黄檗の三筆


左が即非です。
坊さんは坊主頭でなくていいの?
即非の言葉が残っていました。

「我無煩悩不除髪」

「私には煩悩が無いので髪は剃らないよ」だそうです。




木庵の書画(これは撮影可でした)


別のパネル


左上、冒頭の天祐寺山門の額を揮毫した「独立」の書が紹介されています。

アップ




長崎には黄檗宗のお寺、いわゆる「唐寺」が残っています。
興福寺、福済寺、聖福寺、崇福寺ですが、吉井勇たちが「五足の靴」の時にそれらの寺を訪れたかどうかは、歌集「酒ほがい」(「羇旅雑詠」其🉂 「海の悲み」(明治四十年八月 九州の旅にて)の中に歌が出てないので分かりません。

吉井は明治40年の「五足の靴」の後、何度も長崎を訪れています。
2度目の来崎である大正9年には、随筆「筑紫雑記」に書いているように「ほとんど毎日のように茂吉君(斎藤茂吉)と連れ合って、崇福寺、福済寺、浦上と大浦の天主堂を見て歩いた」とあり、その後出された歌集に唐寺を詠んだ歌が多く出てきます。そういったことから「五足の靴」の足跡を辿る長崎探訪ですが、長崎の寺社巡りをしています。


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気になる木をバッサリと

2022年11月22日 | 日常
「えっ?」と思うような暖かい日が続いています。
昨日は2回目の長崎探訪で長崎の街を歩き廻りましたが、暑くて暑くてシャツ1枚になり、袖をまくって歩くほどでした。
今日も風もなく初夏のような天気でした。
これも温暖化の影響でしょうか、そのうち「小夏日和」というようになるかもしれません。

さて、こんな天気の良い日を逃したらもったいないとばかりに、今日は気になっていた伸び放題の樹木をバッサリと切りました。


気になる木 その1


ビワの木


木になる木 その2




サルスベリ
前回の切り方が悪かったので、枝が枯れたり病気になっています。

まずはビワから


切った枝と葉は細かくして箱へ

これは連れ合いが入れたもの

私のは

おおざっぱ(漢字で書くと「大雑把」で「杷」はビワの『ワ』)

切り口には癒合剤を塗りこみます。


思い切ってバッサリと切りました。


サルスベリも



寒くもなく暑くもなく、作業をするには最高の天気でした。

切り終えた後ですが,剪定の本で確認すると「一気に短く切ったらダメ!」(「切るナビ!庭木の剪定がわかる本」上条祐一郎著)と書いてありました。こんな切り方をすると、切ったところからたくさんの徒長枝が出てきて樹形が乱れると。その現象を「木が暴れる」というそうです。

「あちゃ~」と思いましたが後の祭りです。

とりあえず作業は終わりました。

★ビフォー


☆アフター


切った枝葉を明日クリーンセンターに持っていって気になる木の作業は完了です。
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長崎探訪① 稲佐 「五足の靴」の足跡を辿るなかで

2022年11月21日 | 吉井勇
実家の改修が終わったころ、山は纏っていた紅葉葉を散らしていました。
秋山への未練がなくなった今、中断していた吉井勇研究に心置きなく時間が使えるようになりました。その手始めが、吉井勇が若き日に新詩社の仲間五人と九州を旅した「五足の靴」の足跡を辿ることです。

まずは地元の長崎からと思ったのですが、実はその長崎が一番難しいのです。
なぜならば、その旅の紀行文である「五足の靴」には、長崎のところだけがすっぽりと抜けているからです。
紀行文「五足の靴」は一緒に旅をした五人が輪番で書いていたのですが、長崎の番だった与謝野寛が怠けたために全く記録が残っていません。

しかし、後に出版された吉井勇の歌集に収められている歌から、一行が長崎で立ち寄ったところが見えてきます。

つれなくも稲佐少女はことさらに酸き木の果をわれに与ふる 

これは明治43年(1910年)に出された処女歌集「酒ほがい」に収められていますが、「明治40年(1907年)8月、九州の旅にて」と補足まであるので、この歌から稲佐に行ったことがわかるのです。

このように、長崎での足どりを掘り起こすことができる歌を探してみました。

歌集「夜の心」の「長崎紀行」には

その昔稲佐にわたる船にして見し夕雲に似たる雲かな

露西亜文字遊びの家としるしたる招牌も見ゆ稲佐おもへば


歌集「旅塵」の「長崎会遊」には

露西亜語の招牌多き街にさすさびしき夕日いまも忘れず


以上の歌からも、「五足の靴」の一行が稲佐を訪れたのは間違いないようです。

稲佐は、幕末の開港以来ロシアの軍艦の寄港地で、水兵相手の遊郭とし賑わっていた街でした。吉井達が訪れた時には、街のいたる所にロシア語表記の看板(招牌)はあるものの、2年前の日露戦争でロシアの軍艦が来なくなり寂れた街になっていたのでしょう。しかし、その光景が吉井の心に強く残ったのでしょうか、そんな街の様子を吉井は詩にもしています(ここでは省略)。
ただ、「五足の靴」御一行様の稲佐訪問の目的は遊郭視察にあったというのが私の考えです。当時はロシア人は来なくなったものの、日本人相手に遊郭は細々と続いていたでしょうし、ちょうどお昼頃だったので、どこかに登楼し豪華な昼食をとったのではなかろうかと思います。夜は夜で丸山の遊郭にでかけ、紀行文さへ書けないほどに遊び惚けたのではなかったのかと。
「失礼な」と言われそうですが、そう考えたのはメンバーの一人であった北原白秋が次の回想記事を遺していたからです。
「(略)殆ど九州の西部の都会は大半見尽くして来た。而して殆ど毎夜のように酒にも女にも親しんで来た」


さて、そんな稲佐を訪ねてきました。

稲佐の街並み(左手が稲佐山)



稲佐の遊郭への途中にある悟真寺



「五足の靴」当時の悟真寺 ☆あの上野彦馬が撮影した写真だそうで境内の説明板にありました。


唐風の朱塗りの山門は一行の目に留まったはずです。

本堂

当時の本堂はロシア将校の宿舎にもなったことがあるそうですが、原爆で焼失したために今の本堂は戦後再建されたものです。

この悟真寺の横には広い異人墓地(現在は「長崎国際外人墓地」)があります。当時もあったのですが、吉井達が訪れたかどうかは記録が残っていません。



赤煉瓦の両側が墓地です。


ロシア人墓地





墓地内にあるロシア正教の教会


日露戦争の日本海戦で亡くなった艦長の墓


碇のレリーフは海軍さんの墓でしょうか。









オランダ人墓地


鎖国政策時代、出島に住むオランダ人のための墓地で、オランダ商館長の墓や日本人遊女が恋人のために建てた墓もあるとのことです。


中国人墓地


「福州」の文字が読み取れます。


異人さんが眠る墓地は、長崎の港が見下ろせる静かな所でした。



「五足の靴」の一行がこの墓地を訪れるのは時間的に無理だったろうと思われますが、私にとっては、かっての国際交流都市であった長崎の歴史が肌で感じられる所でした。
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遠征2日目 親父山でのこと

2022年11月13日 | 山(県外)
順不同の変な遠征記ですが、今回のが最終話です。
2日目の親父山での出来事があまりに強烈すぎて、簡単には書けないなと後回しにしていました。

障子岳とその周辺を堪能した後は親父山まで戻り、黒岳・三尖と周回する予定でした。

さて、その親父山山頂下のB-29墜落を伝える説明板


あれ?
竹竿や金属のスクラップは行きにはなかったはず



尾根のすぐ下で食事をとられていた3人


この3人は今年古希を迎える高千穂高校の同級生だそうです。

この3人で谷に埋もれていたB-29の残骸を掘り出して、先ほどの説明板下まで引き上げたそうです。これをさらに親父山山頂まで持っていくとのことでした。

山頂を目指して


一休み


私も手伝わせてもらいましたが、見た目以上重いです。
これはエンジン部分のターボチャージャーだそうで40㎏を越えています。

見た目よりはるかに重いターボチャージャー


やっとの思いで山頂まで運びました。
山頂には別の残骸も展示してありました。


左のは車輪の部品だそうで90㎏!

これも大変な思いをして谷から引き上げたとのことでした。

先ほどのターボチャージャーを毛布で包んでいるところ




「何故に?」とお尋ねしたら、これを登山口まで下ろすときに金属の縁で怪我をしないようにとのことでした。

「下ろすのも人力ですか?」

「はい」


お名前をお聞きしたところ工藤寛さんとおっしゃって、もう30年以上も残骸の発掘を続けているそうです。
頭が下がります。

※ このへんの経緯を知りたい方は次をクリックしてください。

  → 「(資料)B29・隼墜落事故」

工藤さんは本(「LAST FLIGHT 奥高千穂隼・B-29墜落秘話」)も出されていましたので、さっそくネットで注文しました。


発掘したB-29の残骸は高千穂歴史資料館に展示されるそうで、今度の11/20に10人ばかりで登山口まで下ろすそうです。


30年も平和活動を続けられている工藤さん、手弁当でそれを手助けする同級生仲間、3人はとても生き生きとされていました。
工藤さんたちと有意義な時間を過ごし、その後黒岳に向かいました。


黒岳へ


この尾根はシャクナゲがいっぱい


でも、今は冬枯れの道




枯れたアザミの群生


三尖山頂


三尖の下り、わずかに残っていた紅葉


四季見橋がみえました。ゴールです。



戻り着いた車の中で、中身の濃い山登りだったなとしみじみ思いました。
テーマが重すぎて後回しにしていた工藤さんたちの活動については、結局は表面的なことしかお伝えできませんでした。古希を迎えてなお情熱を持って取り組む姿は今も尊く感じられます。

この後は、四季見原のキャンプ場を見学してから月廻り温泉・公園に向かい、そこで月見をするのでした。(「遠征2日目の夜 天体ショー」


- 終わり -



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遠征2日目 障子岳を目指す

2022年11月12日 | 山(県外)
遠征2日目の朝

車中にて朝食

(全部スーパーで買ったもの。この遠征自体が急な思いたちだったので)

登山口である四季見橋に到着


ボトルに水を補給して出発


登山道に入ってすぐの所


枯れている。
この辺の山域は、スズタケやクマザサが枯れているのを多く目にします。

それでも


希望の芽 ガンバレ!


再生してくれるでしょうか。

行く手に立ちはだかる大きな岩


1526ピークのようです。

そこからの眺め


これから向かう親父山とその先に障子岳が見えます。

後を振り返るとには釈迦涅槃図が



何だ、何だ…


星条旗がはためいています。

説明板があって


この稜線付近で、1945年8月30日にB29が墜落したとのことです。
一通り説明を読んで、先を急ぎます。

障子岳へ続く稜線は木々が立ち枯れ、殺伐としていました。


枯れ木の向こうに祖母山

凛としていてカッコいい!

山頂到着

山頂からの眺め






前日、先輩に教えてもらっていた山頂横の、鹿よけの防護柵の中から撮影しました。
ここは北風があたらないので温かく、しかも眺望抜群のいい場所でした。
そこで昼食をとり、その後烏帽子岩まで

ところが、烏帽子岩を通り過ぎて、気づいたときには天狗岩の手前のピークまで行っていました。

そのピーク


祖母山が「おいで、おいで」と手招きをしています。

現在時刻11時

指呼の距離に見えるのですが、片道1時間半。

黒岳や三尖に行く予定だったので、祖母の誘惑を絶ってここで引き返しました。

今度こそ烏帽子岩 そこからの眺め




下に見えるのは尾平の集落です。
TANEさんたちはあそこから黒金尾根を登ったようです。

障子岳を後に黒岳を目指して来た道を引き返します。

再び星条旗


あれ?
説明板の下に何やら置いてあります。


行くときには無かったぞ…

- 続 く

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