TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

吉井勇が詠んだ眉山

2019年02月16日 | 吉井勇
 眉山はながくわが目に残るらむゆふべ寂しと見たるものから  (吉井勇歌集「天彦」より)





 初めてこの歌を目にしたとき、夕暮れの眉山にノスタルジアを感じて詠んだものだとばかり思い、あまり気にとめてなかった。というのも、吉井が島原を訪ねたのは1936年の7月11日で、一人旅に出てから3か月が経っていたからだ。ところが、歌集「天彦」のガイド本ともいうべき「相聞居随筆」を読むと、この歌は地元の人から眉山にまつわる悲話、すなわち1792年に起きた眉山の大崩落の話を聞いてからの心情を詠んだものだとわかる。この眉山の大崩落が世に言う「島原大変肥後迷惑」で、島原で1万、対岸の熊本で5千人の犠牲者を出した日本の災害史上最悪のものだった。

さらにこの歌の後には次の歌が続く。

 天つ日よ夏は来るとも筑紫なる高来の民に障りあらすな


 この吉井が詠んだ「高来」とは、以前のブログにも書いた(「高来」← クリック)が、雲仙普賢岳の麓、すなわちこの場合は島原のことである。昔々の肥前風土記には、この一帯を「高来の郡」、雲仙の山を「高来津座」と記されている。(私が子どもの頃は島原半島は南高来郡と呼ばれていた。)
 山の悲話を聞いた翌日、雲仙に向かう吉井は、夏の太陽に照らされる雲仙の山々を見て、天の神様に、どうか高来津座の麓の民に災害を起こさないでくださいと詠んだのである。



「相聞居随筆 歌行脚短信 島原」
 「11日、多良嶽を轟の瀧まで往き、その夜諫早発の汽車にて島原に赴く。碧梧桐の命名せりといふ南風楼に投ず。宿の主人澁江嶂君は歌人にしてまた写真を好む。同氏の語るところに依れば、放庵君はこの地の風光をいたく愛し、淹留月餘に亘れりといふ。島原は極めて古風なる街にて、士族屋敷のありし鉄砲町の如きは、石垣つづきの静かなる小路、木立の奥ふかく咲ける木槿の花も、よしありけにて忘れがたし。背後にある眉山も、前の海上に羅布せる九十九島も、溶岩噴出の恐ろしき昔も忘れたる如く、晴れわたりたる夏空の下に唯寂寞。
 眉山はながくわが目に残るらむゆふべ寂しと見たるものから」



歌集「天彦」とそのガイドブックにあたる随筆「相聞居随筆」




「天彦」 「眉山は…」の次が「天日よ…」



吉井が泊まった南風楼の玄関 「南風楼」は碧梧桐の書



南風楼前から見た眉山 現在は民家の屋根が…



南風楼の隣の高台(霊丘公園)から


南風楼の近くから



吉井が言うところの「背後にある眉山」と「前の海上に羅布せる九十九島」





なお、「海上に羅布せる九十九島」を俳人高浜虚子は「 山さけてくだけ飛び散り島若葉」と詠んでいる。


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吉井勇と芥川の河童屏風

2019年02月15日 | 吉井勇
芥川龍之介の河童屏風




写真では分かりにくいが屏風は2つ折りでその右側には
「橋の上ゆ胡瓜なぐれば水ひびきすなはち見ゆるかぶろのあたま」
と3行に分けて書いてある。さらに「お若さんの為に 我鬼酔筆」とある。(「我鬼」は芥川の俳号)芥川はこれを書いた翌年(1927年)に自死している。

1936年に吉井は長崎を訪れているが、「その時『お若さん』が経営していた『菊本』という旗亭に招かれ夜が更けるまでしみじみと眺めた。」と随筆「筑紫雑記」に書かれていた。さらに、


  うつしよをはかなむ心起こりたり河童屏風を見てあるほどに


と吉井が歌にした思いも記してあった。以下はその抜き書きである。


 「芥川龍之介君が丸山において酔筆を揮った『河童屏風』は近来大分有名になったが、この前に来た時には、遂に見る機会がなく、私は今、上の句は忘れたが『河童屏風は見ずてかへらむ』と云う歌を一首残しただけで崎陽を去ったが、今度はやっと思いが叶って、しみじみこの『河童屏風』を見ることができた。 ―中略― これは芥川君三十一歳の時の作ださうだが、絵も字もともに老熟していて、今では少し銀の字が黒ずんで来ているためにすべてがもの寂びて、『河童屏風』らしい鬼気さへ何処かに感じられる。 ―中略― 私はこれを見ているうちに、『点鬼簿』『玄鶴山房』などの晩年に近い作品に現はれている凄愴の気が、既にこの『河童屏風』にもまざまざと浮き出しているように感ぜられたが、それというのも芥川君の短い生涯を、傷む情に堪へなかったかも知れない。私が最後に芥川君に会ったのは、たしか改造社の祝ひが歌舞伎座に於て催された時のことで、廊下で出会うと芥川君は、しげしげと私の貌を見つめていたが、やがてまるで磋歎するように、『君は健康で羨ましいなあ』と云ったと思ふと、そのまま向ふへ往ってしまった。その時の傷ましい声は、今猶私の耳の底に残っている。兎に角私は『河童屏風』を見て、今更ながら一代の才人であった亡友が、自ら死を早めたことを惜しまないではいられなかった。」
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吉井勇の見た精霊流し

2019年02月12日 | 吉井勇
  にぎやかに精霊船のゆくなかに童心丸はあはれなるかな (吉井勇歌集「天彦」より)


 詩にしても短歌にしても読み手がその作品から感じたものがすべてであって、いろいろと講釈しない方がいいのかも知れませんが、吉井の随筆「筑紫雑記」の中に長崎の盆の様子やこの歌にまつわることが書いてあったので紹介します。


 今から約80年前の昭和11年に、その精霊流しや長崎の盆を目の当たりにした吉井は次のように感想を随筆「長崎見聞抄」の中に記しています。(ちなみに長崎では、「精霊流し」は「しょうろうながし」と読みます。)

 「長崎の盂蘭盆会は、この土地の人達の言ふ通り、『盆まつり』といった方がふさわしい。それほどその晩は長崎の街中が、お祭気分でざわめき立つ。 -略- ちょっと想像では思い描かれぬ位、話に聴いていたより以上の壮観である。そのうへにまた箭火矢、音火矢などと称する花火を、そこかしこの街の周囲の山腹にある墓地から夜空に向かって打ち上げるかと思ふと、路上や街頭では至るところで、唐人鉄砲という爆竹花火が、まるで小銃を撃ち合っているやうな音を立てる。火焔の海を見ながら、花火の爆音を聞いていると、まるで市街戦でも始まったやうな騒ぎで、『盆まつり』というよりもむしろこれは、『火祭り』といった方がいいかも知れない。」


 長崎の盆は今も昔も変わっていないことが分かり、嬉しく思いました。さらに吉井の目にとまったのは次の光景でした。


 「夜が更けるに従って、街の雑踏はますます激しく、精霊船の行列もだんだん賑やかに威勢よくなって往った。喇叭を吹き鳴らしたり楽隊を前に立てたりするのがあるかと思ふと、法華太鼓をたたき立てて、大きな声で南無妙法蓮華経を唱えながら往くのもある。しかしまた中には、赤い小さな燈籠十数個つるし「極楽童心丸」と書いた幡を立てた、三四人で担げる位の可愛らしい精霊船もあったが、あとからついてゆく二十三四位の女が、しきりに涙を拭いているのを見ると、それはきっとわが子の新盆の魂送りをするのだらうと思われて哀れを覚えた。」


 冒頭の歌の情景はある程度想像はしていましたたが、ここまでとは思ってはいませんでした。我が子を亡くした悲しみに耐えながら船の後を歩いていく母親の姿が不憫でなりません。


  にぎやかに精霊船のゆくなかに童心丸はあはれなるかな


下の写真は、島原の精霊流しです(長崎のがなかったので)。




 島原も同じで、勇壮な掛け声や、けたたましい爆竹の音で表面上は賑やかです。悲しみは心の中に蓋をして故人の船の後をついて行きますが、幼い我が子を亡くした悲しみは蓋などできなかったのでしょう。



 この他に、吉井が長崎の盆を詠んだ歌を紹介します。
 
  長崎の盆のまつりにゆきあひし機縁かしこし念佛申さむ

  いつかまた見るとは思はむ長崎の盆の夜空はしみじみと見む

  夜はくだつ雨とやならむ空暗し精霊ながす大波止の濱 


 
以上の3首は「天彦」に収めてありますが、「形影抄」では後年、長崎の盆を懐かしく振り返り次のように詠んでいます。

  長崎の盂蘭盆の夜の爆竹の音も今もなほ忘られなくに (「筑紫路を思ふ」より)

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吉井勇が詠んだ多良嶽

2019年02月09日 | 吉井勇
多良岳に登るようになって歌人吉井勇の歌に興味をもつようになった。

山のガイドブックに、
 石楠花の大群落のなかに来ぬうつし世のこといかで思はむ


多良岳林道の広場に、
 多良嶽の摩尼の山路のゆきかへり狙仙の猿に会ふよしもがな




轟の滝で、
 多良嶽の九十九瀑の水けむりあつまるところ雲もこそ湧け




調べてみるとこれらの歌はいずれも昭和11年の作だ。東京生まれ(当時は高知の山奥韮生に隠棲)の吉井がどうしてあまり名も知られていない多良岳を歌にしたのか疑問だった。よほどの山好きか、それとも当時心の頼りにしていた空海つながりかと思っていたらそうではないことが分かった。

吉井が当時のことを綴った随筆「長崎見聞抄」の中の「多良岳」にその経緯が書いてあった。
吉井は昭和14年4月より141日という長きにわたって西日本を歌行脚している。その途中7月3日に長崎入りしているが、そこで長崎の史料風俗研究家の林源吉から森狙仙(そせん)の猿に関する逸話を聞いた。森狙仙は江戸時代後期の絵師だが、猿を描かせては当代きっての名人といわれ生き生きとした猿の絵を多く描いている。





林氏も引用したという狙仙の逸話
「狙仙、森氏、長崎の人、浪華に住す。猿を写して画名一時に鳴る。世に狙仙の猿と称して渇望する者多し。其初め長崎にあるの日、猟者に託して一猿を買い得たり。是を庭園に繋ぎ置き、その傍らに横臥し、紙筆を出して写すること数編にして、一日絹本に清写せり。然して来舶の某氏に鑑を乞ふ。某氏曰く、惜しむべし、この絵は人家養育の形にして、山中自在の趣に非ず、と言はれたれば又山中に入りて切磋すること両三年、終に其眞面目を得たりと。」(「近世逸人画史」岡田樗軒)

有名な絵描きに逸話はつきもので、林氏からはさらに、「狙仙が評者の言に発奮して、紙筆を携へて分け入った山が、多良岳だらう」と聞き、多良岳に興味を持ったということだった。さらに吉井は正直に「多良岳という名前を聞いたのはこのときが初めてだった」とも記している。そして7月11日、湯江口から境川の渓谷に沿って行こうとしたが、前日までの豪雨で水かさが増し遡行は困難を極めた。靴を脱ぎ、洋袴の裾をたくし上げなんとか轟の瀧付近まで行っている。以下括弧は随筆からの引用である。
「靴を脱ぎ沓下を除って、膝の上あたりまで、徒渉しなければならないやうな、急流に逢着してしまった。私もみんなと一緒に渡って往ったが、清冽な水は冷たく跡から體中に、染みわたるやうに感じられて、はじめて山氣のすがすがしさを覚えた」のそのそはい回る真っ赤な山蟹を見たり、渓流の音に混じる河鹿やホトトギスの鳴き声を聞きながら川をのぼること20分、「もうそこは轟の瀧で、この渓谷中第一と云はれているだけあって、すさまじい地響きを立てて落下する奔流の豪壮さは、さすがに名瀑であると思った。」その後抑柳の瀧、潜龍の瀧を見た後、紫雲山に登っている。地元の人から、その奥に野生の猿が棲息している「猿渡し瀧」があることを聞いたが「そこまで足の及ばなかったためか、私は遂に狙仙の描いたやうな猿を、目のあたり見ることが出来なかった」
その時の思いが次の歌であった。



 多良嶽の摩尼の山路のゆきかへり狙仙の猿に会ふよしもがな


 注:「摩尼(まに)」→ 宝玉。濁水を清らかにする不思議な働きがあるとされる。(広辞苑)


摩尼の山路(詠んだ日は川を遡上したというのでこんな感じか)







吉井が多良岳に行った日が特定できたことで、私のお気に入りの「石楠花の…」の歌が実際の多良岳の石楠花を見ての歌ではないことも分かった。少しがっかりしたが、多良岳の石楠花が美しいことを聞き、韮生の山の石楠花と重ねながら作ったのだろうが、人の心に染みこむような歌が詠めるのは流石歌人である。
随筆の中に、湯江の登山口の宿屋で昼食をとった折りに、一行を案内してくれた助役より「先ず写真に依っていろいろと山の説明を聴いた」とあるので、その時に石南花の写真を見せながらツクシシャクナゲやその大群叢について話があったのだろうと推測される。




以下、多良岳を詠んだ歌7首。吉井勇歌集「天彦 羇旅三昧・多良嶽」より


 むくむくと湧く夏雲もいさぎよき大多良嶽の山びらきかも


 多良嶽の九十九瀑の水けむりあつまるところ雲もこそ湧け


 瀧を見む岩を見むとてゆくひとに荒くな吹きそ多良の山風


 多良嶽の摩尼の山路のゆきかへり狙仙の猿に会ふよしもがな


 石楠花の大群落のなかに来ぬうつし世のこといかで思はむ


 雲ふかし山頂きはいづこぞと見えざる多良の社をろがむ


 おのづかなる心にもなりるらむ多良嶽に来て山に親しむ


轟の瀧



石楠花(ツクシシャクナゲ)




九十九瀑の水けむり



多良の社



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大貝彌太郎と「無言館」

2019年02月03日 | エッセイ
前回の続きである。
大貝彌太郎の「飛行兵立像」は長野県上田市郊外にある「無言館」に寄付されたという。

無言館の存在は知っていた

かれこれ20年以上前のことだが、私が中学校の時の美術の先生が書かれた戦没画学生に関係する一文を娘の育友会新聞で発見したのだ。この美術の先生には親子2代にわたりお世話になったのだが、物静かでとても几帳面な方だった。「文は人なり」というが記事には先生のお人柄がにじみ出ていた。以下はその記事の抜粋である。

 「展示品が、先の日中戦争、太平洋戦争で亡くなった画学生たち約40名の遺作、遺品となったこともあり、館内の雰囲気も何となく暗く、来館者には年配の方が多かったように思います。五十余年前に画家への道を志しながら、やむなく戦地に行かされ、生還の望みも薄いなかで、最後まで絵筆を取り描いた作品の数々。どこまで伸びたか未知数の才能が、戦争によって無残にも断ち切られてしまったことが、私にはとても悲しく思われました。これまでいろんな美術館を数多く見てきましたが、今回の戦没画学生「祈りの絵」の中に「戦争」という時代下にありながらもけっして最後まで絵筆をはなそうとしなかった画学生たちの描くことへの無垢な情熱にとても感動させられました。」

また、昨年夏に、長崎で無言館所蔵の戦没画学生たちにの作品展が開催された。「無言館・祈りの絵」展だ。行くつもりだったが忙しさにかまけて気づいたら終わっていた。

その無言館に寄付された大貝彌太郎の作品。



平和な時代だったら、もっといろんな絵を描きたかっただろうに… 戦争に行くための飛行機乗りの指導などしたくなかっただろうに… ましてやその学生の軍服姿など描きたくはなかっただろうに… 顔や服をごちゃごちゃと塗りたくったのはどうにもやるせない心の表現だったのだろうか。

前回紹介した自画像でも、飛行機乗りの帽子をかぶった自画像の目は鋭さというより怒り,あきらめ、最後は狂人のそれにも見える自虐的なものへと変わっていっていた。



大貝彌太郎は昭和21年に結核のため諫早で逝去した。大貝は戦地には赴かなかったが、戦時下にあって自由に描くことのできなかった画家としての苦悩を誰よりも間近で見てきた夫人は、彼の作品を戦没学生の絵が納めてある無言館へ寄付された。終生画家であった夫への、そして作品へのせめてものレクイエムになればとの思いからであろう。
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