平戸を旅したのは4/19~20でしたで、もう1週間前のことになります。
旅の目的は3つありました。
①志々伎山に登ること
②川内峠の歌碑と吉井勇との関係を調べること
③「五足の靴」の足跡をたどること
明治40年、吉井勇が与謝野寛等と九州旅行をしたときに立ち寄った平戸での足跡をたどってみました。
紀行文「五足の靴」によると
明治40年8月6日 午前10時 佐世保港より汽船で平戸に向かう。
午後2時頃平戸に着いた一行は、下島氏宅を訪問し、その後下島氏の案内で亀岡神社を訪ねています。
亀岡神社に続く参道
近くにはマキノキの巨木並木
亀岡神社
「マスクしてね」と、無言で訴える狛犬
大きな神社でした
その後、五人連れは阿蘭陀塀を見に行っています。
阿蘭陀塀
この塀は、当時居住していたオランダ人が、生活の様子を日本人に覗かれないように築いたものだそうです。この塀について「五足の靴」に興味深い記述がありました。
「当時の蘭人が築いたものだそうだ。磁石をセメントで繋いだというが、どうも漆喰らしいと其道に深いB生が言った。漆喰だとすると三百年後の今、多少吟味する価値があるそうだ」
情報が少なかった時代、「磁石をセメントで繋いだ」と言い伝えられていた阿蘭陀塀の材質を、B生こと平野萬里は「漆喰」と見抜いていたのです。現在の説明板には「漆喰」とはっきり書いてあります。
恐るべしB生こと平野萬里の慧眼。それもそのはず、「其道に深い」と書かれている萬里は、東京帝大工科大学応用化学科の学生だったのです。
その後、阿蘭陀井戸、阿蘭陀燈台へ行っています。
阿蘭陀井戸
この井戸は、深さが8m、海の近くにありますが海水が浸入しないそうです。
前の海岸
当時、ここから阿蘭陀船の荷揚げをしていたそうです。
近くに、えびす様が祀ってありました。
斜めに生えたアコウの木
(アコウの木左の白い塀が「阿蘭陀塀」)
「五足の靴」に記述がないので、120年前はまだ小さかったのでしょうか。
阿蘭陀燈台
港に残る石塀
五人連れは、この後米屋で休憩、夕食。食後に幸橋を訪ねています。
幸橋
1702年に造られた石橋が今日に残っています。当時は「阿蘭陀橋」と言われていたそうです。
「五足の靴」によると、五人連れはこの後、仮睡をとった後、夜半の船で佐世保に向かったとあります。
明治40年の吉井勇の平戸路は歴史探訪が主で、平戸の自然にふれる時間はなかったようです。
したがって、平戸の美しさを詠んだ歌碑の歌はもっと後の作ということになります。
山きよく海うるわしとたたえつつ旅人われや平戸よくみむ
吉井勇が、平戸の雄大な自然にふれたのは、2回目の訪問、つまり昭和31年5月のことでしょう。
昭和30年頃と言えば、吉井勇が再び世に評価され、全国に歌碑が建ちはじめた頃です。
吉井勇の歌碑でいうなら、長崎県は全国に先駆けて吉井の歌碑を多数建てています。
昭和27年の「じゃがたらお春」と「黒龍」碑
昭和29年の「蛍塚」と「蓬莱の池」碑
昭和30年の「雲仙湯守の宿」碑
有名な京都の祇園白川「かにかくに」碑も昭和30年です。
そんな中、「五足の靴」で平戸に縁があった吉井勇を、当時の平戸市長山鹿光世氏が平戸の観光PRの事業の一つとして招いたのではないかと推測します(これを裏付ける資料は見つけられませんでした)。
昭和31年5月に吉井は平戸を訪れ山鹿氏と会っています。そして昭和32年に、山鹿氏のご尽力で川内峠に先ほどの歌を刻した歌碑が建てられました。
歌に詠まれたように平戸の海や山は清く麗しいものでした。
河内峠より
志々伎山より
山きよく海うるわしとたたえつつ旅人われや平戸よくみむ
旅の目的は3つありました。
①志々伎山に登ること
②川内峠の歌碑と吉井勇との関係を調べること
③「五足の靴」の足跡をたどること
明治40年、吉井勇が与謝野寛等と九州旅行をしたときに立ち寄った平戸での足跡をたどってみました。
紀行文「五足の靴」によると
明治40年8月6日 午前10時 佐世保港より汽船で平戸に向かう。
午後2時頃平戸に着いた一行は、下島氏宅を訪問し、その後下島氏の案内で亀岡神社を訪ねています。
亀岡神社に続く参道
近くにはマキノキの巨木並木
亀岡神社
「マスクしてね」と、無言で訴える狛犬
大きな神社でした
その後、五人連れは阿蘭陀塀を見に行っています。
阿蘭陀塀
この塀は、当時居住していたオランダ人が、生活の様子を日本人に覗かれないように築いたものだそうです。この塀について「五足の靴」に興味深い記述がありました。
「当時の蘭人が築いたものだそうだ。磁石をセメントで繋いだというが、どうも漆喰らしいと其道に深いB生が言った。漆喰だとすると三百年後の今、多少吟味する価値があるそうだ」
情報が少なかった時代、「磁石をセメントで繋いだ」と言い伝えられていた阿蘭陀塀の材質を、B生こと平野萬里は「漆喰」と見抜いていたのです。現在の説明板には「漆喰」とはっきり書いてあります。
恐るべしB生こと平野萬里の慧眼。それもそのはず、「其道に深い」と書かれている萬里は、東京帝大工科大学応用化学科の学生だったのです。
その後、阿蘭陀井戸、阿蘭陀燈台へ行っています。
阿蘭陀井戸
この井戸は、深さが8m、海の近くにありますが海水が浸入しないそうです。
前の海岸
当時、ここから阿蘭陀船の荷揚げをしていたそうです。
近くに、えびす様が祀ってありました。
斜めに生えたアコウの木
(アコウの木左の白い塀が「阿蘭陀塀」)
「五足の靴」に記述がないので、120年前はまだ小さかったのでしょうか。
阿蘭陀燈台
港に残る石塀
五人連れは、この後米屋で休憩、夕食。食後に幸橋を訪ねています。
幸橋
1702年に造られた石橋が今日に残っています。当時は「阿蘭陀橋」と言われていたそうです。
「五足の靴」によると、五人連れはこの後、仮睡をとった後、夜半の船で佐世保に向かったとあります。
明治40年の吉井勇の平戸路は歴史探訪が主で、平戸の自然にふれる時間はなかったようです。
したがって、平戸の美しさを詠んだ歌碑の歌はもっと後の作ということになります。
山きよく海うるわしとたたえつつ旅人われや平戸よくみむ
吉井勇が、平戸の雄大な自然にふれたのは、2回目の訪問、つまり昭和31年5月のことでしょう。
昭和30年頃と言えば、吉井勇が再び世に評価され、全国に歌碑が建ちはじめた頃です。
吉井勇の歌碑でいうなら、長崎県は全国に先駆けて吉井の歌碑を多数建てています。
昭和27年の「じゃがたらお春」と「黒龍」碑
昭和29年の「蛍塚」と「蓬莱の池」碑
昭和30年の「雲仙湯守の宿」碑
有名な京都の祇園白川「かにかくに」碑も昭和30年です。
そんな中、「五足の靴」で平戸に縁があった吉井勇を、当時の平戸市長山鹿光世氏が平戸の観光PRの事業の一つとして招いたのではないかと推測します(これを裏付ける資料は見つけられませんでした)。
昭和31年5月に吉井は平戸を訪れ山鹿氏と会っています。そして昭和32年に、山鹿氏のご尽力で川内峠に先ほどの歌を刻した歌碑が建てられました。
歌に詠まれたように平戸の海や山は清く麗しいものでした。
河内峠より
志々伎山より
山きよく海うるわしとたたえつつ旅人われや平戸よくみむ
吉井勇