TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

平戸 「五足の靴」の足跡と歌碑について

2022年04月26日 | 吉井勇
平戸を旅したのは4/19~20でしたで、もう1週間前のことになります。
旅の目的は3つありました。
①志々伎山に登ること
②川内峠の歌碑と吉井勇との関係を調べること
③「五足の靴」の足跡をたどること


明治40年、吉井勇が与謝野寛等と九州旅行をしたときに立ち寄った平戸での足跡をたどってみました。

紀行文「五足の靴」によると
明治40年8月6日 午前10時 佐世保港より汽船で平戸に向かう。
午後2時頃平戸に着いた一行は、下島氏宅を訪問し、その後下島氏の案内で亀岡神社を訪ねています。

亀岡神社に続く参道


近くにはマキノキの巨木並木


亀岡神社


「マスクしてね」と、無言で訴える狛犬


大きな神社でした



その後、五人連れは阿蘭陀塀を見に行っています。

阿蘭陀塀






この塀は、当時居住していたオランダ人が、生活の様子を日本人に覗かれないように築いたものだそうです。この塀について「五足の靴」に興味深い記述がありました。

「当時の蘭人が築いたものだそうだ。磁石をセメントで繋いだというが、どうも漆喰らしいと其道に深いB生が言った。漆喰だとすると三百年後の今、多少吟味する価値があるそうだ」

情報が少なかった時代、「磁石をセメントで繋いだ」と言い伝えられていた阿蘭陀塀の材質を、B生こと平野萬里は「漆喰」と見抜いていたのです。現在の説明板には「漆喰」とはっきり書いてあります。


恐るべしB生こと平野萬里の慧眼。それもそのはず、「其道に深い」と書かれている萬里は、東京帝大工科大学応用化学科の学生だったのです。


その後、阿蘭陀井戸、阿蘭陀燈台へ行っています。

阿蘭陀井戸


この井戸は、深さが8m、海の近くにありますが海水が浸入しないそうです。

前の海岸
当時、ここから阿蘭陀船の荷揚げをしていたそうです。


近くに、えびす様が祀ってありました。


斜めに生えたアコウの木

(アコウの木左の白い塀が「阿蘭陀塀」)

「五足の靴」に記述がないので、120年前はまだ小さかったのでしょうか。



阿蘭陀燈台


港に残る石塀


五人連れは、この後米屋で休憩、夕食。食後に幸橋を訪ねています。

幸橋




1702年に造られた石橋が今日に残っています。当時は「阿蘭陀橋」と言われていたそうです。


「五足の靴」によると、五人連れはこの後、仮睡をとった後、夜半の船で佐世保に向かったとあります。


明治40年の吉井勇の平戸路は歴史探訪が主で、平戸の自然にふれる時間はなかったようです。
したがって、平戸の美しさを詠んだ歌碑の歌はもっと後の作ということになります。

山きよく海うるわしとたたえつつ旅人われや平戸よくみむ


吉井勇が、平戸の雄大な自然にふれたのは、2回目の訪問、つまり昭和31年5月のことでしょう。

昭和30年頃と言えば、吉井勇が再び世に評価され、全国に歌碑が建ちはじめた頃です。
吉井勇の歌碑でいうなら、長崎県は全国に先駆けて吉井の歌碑を多数建てています。
昭和27年の「じゃがたらお春」と「黒龍」碑
昭和29年の「蛍塚」と「蓬莱の池」碑
昭和30年の「雲仙湯守の宿」碑

有名な京都の祇園白川「かにかくに」碑も昭和30年です。

そんな中、「五足の靴」で平戸に縁があった吉井勇を、当時の平戸市長山鹿光世氏が平戸の観光PRの事業の一つとして招いたのではないかと推測します(これを裏付ける資料は見つけられませんでした)。
昭和31年5月に吉井は平戸を訪れ山鹿氏と会っています。そして昭和32年に、山鹿氏のご尽力で川内峠に先ほどの歌を刻した歌碑が建てられました。




歌に詠まれたように平戸の海や山は清く麗しいものでした。

河内峠より


志々伎山より


山きよく海うるわしとたたえつつ旅人われや平戸よくみむ
     吉井勇
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吉井勇と平戸の関係

2022年04月25日 | 吉井勇
平戸の川内峠には立派な吉井勇の歌碑が建っています。


山きよく海うるわしとたたえつつ旅人われや平戸よくみむ

碑のあまりの大きさに「空前絶後」と、吉井は絶賛したそうです。

その大きさが分かる別の写真

(人間が小さく見えます)

碑の説明板には


これらの写真を撮ったのは2年前のことでした。(→「平戸・生月へ」)

あのとき、すぐにでも吉井勇の平戸詠についてまとめようと思っていましたが、ある疑問が解決できなかったのでそのままになっていました。

その疑問とは、説明板に書かれていた次の一文です。
「この歌は、この川内峠から望む風景をこよなく愛した晩年の吉井勇が、感動の中で詠んだもので西海国立公園のすばらしさが表現されています。」

川内峠からの景観のすばらしさは万人が認めるものですが、吉井はいったい何時この川内峠を訪ねたのだろうかという疑問です。
吉井勇が初めて平戸を旅したのは明治40年の九州旅行ですが、このときには半日だけの滞在だったので川内峠には行っていないはずです。それは紀行文「五足の靴」を読めば明らかです。
では川内峠を訪れたのは何時なのか?
歌碑が建ったのが昭和32年で、その前年、吉井は九州旅行の折に平戸に行っています。そのときに川内峠を訪ねたのだろうと思われるのですが、それを具体的に示すものを見つけられずにいました。

ネット、吉井の書籍、平戸史など、どれを調べても出てきませんでした。

そこで、現地に行けば何か手がかりがつかめるかも、というのが今回の平戸行きだったのです。


平戸の図書館(未来創造館)


カウンターで尋ねたら、とても親切にいろいろと調べてくださいました。
資料を数点持ってきてくださいましたが、それらは既に調べていたことでした。
郷土コーナーに「吉井勇」の棚がありましたが、それは主に「五足の靴」に関するものでした。
ただ、その中に混じって吉井勇全集の第3巻が立ててあったのです。
「なぜ3巻だけ?」
吉井勇の全集は8巻(出版社によっては9巻)あるはずなのに…
そのことも係の人に尋ねたら
「ここには郷土に関係ある本を集めています」とのことでした。
半信半疑で目次を見ると、「玄冬」から「形影抄」までの歌集が収められていました。「なんだ、これらは読んでいる」と落胆しかけたそのとき、「『形影抄』以後」という項目が目に飛び込んできました。
「形影抄」は吉井が出した最後の歌集ですが、それ以降に詠んだ歌がまとめてあることは知りませんでした。
「さすがは全集!」と、心を踊らせながらページをめくると、
「あった!」
思わず声を上げそうになりました。

それは昭和31年のところに「平戸遊草」として7首
 
 川内峠のぼり来れば夏日照薊の花はここかしこ

 見はるかす玄界灘に照り満つる海の光はまばゆかるかも

 このあたり對馬も見ゆと示すなり山鹿市長は太指をもて



さらに、昭和32年の「洛東新春」の中には
 この春は筑紫平戸に歌碑建つと思ひうれしく年むかへすも

図書館では撮影禁止でしたので、一生懸命メモしました。

「足で稼ぐ」などといいますが、現地に行ったからこそ解決できたことです。現地の図書館に1冊だけ立ててあった吉井勇全集の第3巻、そこに解決の糸口がありました。
「足で稼ぐ」ことは、情報化の時代と言われる今日でも大切なことだと実感しました。
今回の平戸行きの一番の目的が達成され大満足です。

余談になりますが、急激に「吉井勇全集」が欲しくなり、平戸から帰るとすぐにネットで検索しました。するとメルカリにとんでもなく安い値段で出品されていました。
全8巻、送料込みで2600円。一般的な古書の1/4です。
メルカリは初めてで、購入に不安もありましたが、あに図らんや、注文した翌日には宅配便で届きました。





吉井勇の研究をすることもセカンドライフの夢の一つです。


※ 追記 
  この全集のおかげでさらに吉井勇と平戸の関係が詳しく分かりました。
  → 「ついに解決、吉井勇と平戸の関係」 2022/08/21 アップ
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志々伎山へ

2022年04月24日 | 山(県内)
今回の平戸行きの目的の一つが志々伎山(しじきやま)登山でした。

登山口のある野子町までは、平戸大橋からさらに1時間かかります。
細い車道を登った所に志々伎神社の駐車場があり、そこから登りました。

鳥居には「志自伎神社」と


急登はロープを頼りに



海が見えたら頂上はもうすぐ


山頂


見晴らしは良く、遠く五島列島まで見えていました。




北に目をやると


生月島、その右に安満岳 手前は屏風岳


山頂の祠


賽銭は何故か「寛永通宝」ばかり


志々伎山は、登山口までのアプローチが3時間、そこから山頂までは1時間もかかりません。
山頂でたっぷり西海の青い海を堪能しました。

豪華ランチ!


下山もあっという間


帰路、車窓より

志々伎よさらば また来る日まで…

平戸行きの一つ目の目的は無事に達成しました。
残りの目的については次回に
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映画「あなたへ」のロケ地 薄香を歩く

2022年04月22日 | お出かけ
高倉健さん主演の映画「あなたへ」のロケ地の一つが平戸でした。
薄香という漁師町です。
ロケ地散策は予定にはなかったのですが、宿泊したホテルにあったパネルがきっかけで訪ねることにしました。



何の予備知識もなかったので、郵便局で「富永寫眞館」跡を訪ねたらすぐに教えてくださいました。
歩いてすぐでした。

この雰囲気。映画で見たような…


ありました!


映画と同じです。
写真館跡に映画のパネル?が貼ってありました。

パネル


これだ!


そして感慨深く見つめる健さん


その健さんのまねをしてみました。


町の様子は映画のままです。いや、映画が町をそのまま撮したのか…


坂を下ってたら


この小屋も映画のままです。

パネル


薄香のバス停


そして海





健さんが亡くなった奥さんの遺骨を撒きに行った海です。
そういえば、船長役の大滝秀治さんも名演技だったな…

旅から帰ったらすぐに映画「あなたへ」を見ました。
いい映画でした。
ただ、あれが健さんの遺作になったのが残念です。
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ちょっとイイ話…

2022年04月21日 | エッセイ
平戸の宿でのことです。
ロビーに、皇族方が宿泊されたときのパネルが展示してありました。



皇族方の写真に混じって、高倉健さんのパネルもありました。



映画「あなたへ」のパネルです。


「あなたへ」は、10年前に作成された健さん81歳の時の映画です。
そういえば、ここ平戸もロケ地の一つでした。


説明をしてくださった支配人さんの話では、この映画の撮影のために、健さんをはじめ役者やスタッフの方が、このホテルに一ヶ月ほど滞在したそうです。
そのときの話で、ホテルとしては主役である健さんに一番良い部屋を用意されていたそうです。
ところが、健さんは自分より年上の大滝秀治さんがいらっしゃるのに、大滝さんより良い部屋に泊まるわけにはいかないと、部屋の変更を申し出られたそうです。
「そうでしたか」と、驚く私に
「健さんはすごい人でしたよ」と、支配人さん。

「すごい人でした」と、嬉しそうに話をされる表情から、健さんの人柄が伝わってきて、こちらまで嬉しくなりました。
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国東半島へ⑥ 国東の石仏

2022年04月18日 | お出かけ
60を過ぎたあたりから少し石仏に興味をもつようになりましたが、石仏については全くの素人です。
ましてや2,3日の国東旅行で、国東の石仏について論じるのはおこがましいと思いましたが、素人なりの気づきを述べてみたいと思います。

国東は「仏の里」と言われていて、多くの石仏があります。

有名な国東塔


いたるところで目にすることができる石仏








大きな塔(文殊仙寺:大宝篋印塔:9m)



そんな中、国東を巡る中で発見がありました。
それはレリーフ調の石仏の割合が多いということです。何となく多いとは感じていましたが確信に変わったのは、富貴寺の参道入り口に建つ石幢を見たときです。



左手の石塔は六地蔵石幢ですが


幢の六地蔵が、私がこれまで見たのとは違い、レリーフ調だったからです。
(「レリーフ」という言い方が適切かどうか分かりませんが、素人なので)

諫早の六地蔵(参考画像)


さらに富貴寺の参道を行くと、龕部が置かれていましたが


やはりレリーフ調です。
六面ではなく四面に、2体と1体を彫り込み、合計で6体の六地蔵です。

真木大堂の六地蔵





次に仁王像について



両子寺の仁王像ですが、ふつう仁王像はこんな感じです。ところが、旧千燈寺跡の仁王像はちょっと感じが違っていました。



レリーフ調なのです。
後ろや横から撮していないのが今思えば残念です。

このような仁王様は珍しいのではないのでしょうか。



役行者の石像
文殊仙寺の役行者は一般的な石像ですが


天念寺の役行者は


崖に彫られたレリーフです。


その隣の石仏もレリーフです。


レリーフと一般的な石仏のどちらが優れているというのでなく、私が言いたいのは、国東半島にはレリーフ調の石仏の割合が多いということ、そういう特徴があるということです。
半島全部を調べ歩いたわけではなく、専門の先生方からは、「ほんの一部分を見ただけで何を言っているのか」といわれるかも知れませんが、素人が感じた率直な感想です。

「国東にはレリーフ調の石仏が多い」
それは国東の独特の地形からレリーフが多く生まれたののではと考えました。

あまりにも有名な熊野磨崖仏はレリーフです。
国東のそびえ立つ岩峰や磨崖に畏怖の念じ、そこに仏を刻んだのでしょう。




不動明王と如来に目が行きがちですが、その間にも小さな仏が刻んであります。


岩峰と磨崖の多い国東の地形がレリーフを多く生み出したのではないでしょうか。
磨崖に仏を彫るのには危険が伴い相応なエネルギーが必要ですが、そうさせるだけの力を岩峰や磨崖に感じたのでしょう。

元宮磨崖仏







天念寺川中不動尊





名前は知りませんがレリーフ調の石碑




走水観音の裏にも



ついつい長くなりましたが、「仏の里」国東では、石仏の他にも心を癒やしてくれる風景がありました。

間戸の岩屋 


そこを流れる川岸の桜は終わりかけでしたが


川面を花びらで埋め尽くしていました。「花筏」です。



田染荘小崎地区の田園風景




田の区画は、1000年以上前の姿と同じで、世界農業遺産に認定されているそうです。

6回に渡り国東の山、史跡、石仏などを綴りました。それらは魅力あふれるものでしたが、今回紹介できなかった普通の景色、場面の中にも国東の良さは満ちていました。

-「国東半島へ」終わり-








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国東半島へ⑤ 史跡巡り・天念寺

2022年04月15日 | お出かけ
国東半島へは山に登るのが一番の目的でしたが、下山後は近くの史跡を訪ねました。
その中でも天念寺の阿弥陀如来像は強く印象に残っています。

天念寺


天念寺耶馬と呼ばれる岩峰群の下に寺は建っています。
この峰々も修行の道で、目を凝らして見みると



とんでもないところに橋が懸かっています(黄色の矢印)。
「無明橋」と言われている橋です。



あそこまで行ってみたい衝動にかられましたが、この日は両子山に登る予定だったので、下から見るだけにして寺を見て回りました。
寺の前を長岩屋川が流れているのですが、その川の中に磨崖仏がありました。



何ということでしょう、不動三尊のレリーフです。


さて、天念寺ですが、崖の真下に茅葺きの講堂があります。


その中


薬師如来と修正鬼会で使う香水棒


修正鬼会で使う巨大な松明


全て天然素材でできていました。




講堂の裏の崖には十六羅漢




本堂の左手の磨崖には役行者

レリーフです。

本堂には


釈迦如来像、左に月光菩薩、右に日光菩薩
(「追記」あり)

天念寺のすぐ隣に食堂を兼ねた資料館「鬼会の里」があります。
(写真右の建物)


そこの資料館で見た阿弥陀如来像の立ち姿には、あまりにも有り難く感じられ、なぜか目頭が熱くなりました。
館内は撮影禁止でしたので写真はありません。代わりにパンフレットに載っていた写真で紹介します。



例え写真が撮れたとしても、仏像が放つ空気感みたいなものは伝わりません。仏像との相性もあるのでしょうが、これまで3回ほど、仏像と対面したとき体の中を電流のようなものが流れるのを感じたことがありました(個人の感想)。今回はじわっとした温かさに包まれ、涙が出そうになりました。

この仏像の説明がパンフレットに載っていましたので紹介します。

「-途中省略- 天念寺本坊の国宝堂と呼ばれた建物に安置されていましたが、大正8年、当時の帝室博物館に飾置のため貸与されていました。それから、天念寺を襲った昭和16年の大洪水により流された本堂などを再建するために、当時国宝(旧国宝)であったこの仏像は昭和36年に埼玉県の鳥居観音に売却されました。その後地元民の悲願により、平成9年に市が県の補助を受け買い戻し、大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館(現大分県立歴史博物館)に預けられ、平成15年本施設設置により、実に42年ぶり(天念寺を離れてからは84年ぶり)のご帰還となりました。」(「歴史資料館 鬼会の里」パンフレットより引用)

この仏像は、偶然にも大水害の難を逃れ、水害後は再建の資金として寺を助け、紆余曲折を経て天念寺に戻って来た有り難い仏像ということになります。


【追記】
1971年に毎日新聞から出された「国東半島」(写真:堀内初太郎・文:戸井田道三)を読んでいたら、本堂の仏像のことが書いてありました。写真で紹介した「釈迦如来像、左に月光菩薩、右に日光菩薩」ですが、これらの仏像は昭和16年の大水の折に海まで流されたそうです。仏像を見知った人がいて「これは天念寺のものだ」と届けてよこしたそうです。
先の阿弥陀如来像だけでなく、平安朝の仏像が今日まで残るということはそれ自体が奇跡に近く、有り難いことだと改めて思ったところです。
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国東半島へ④ 両子山へ

2022年04月14日 | 山(県外)
2泊3日の国東半島の旅
いよいよ最終日 4月9日

両子寺から両子山を目指しました。
両子山は国東半島の最高峰です。
神仏習合の発祥地と言われる六郷満山の最高峰に、おのずと期待が高まったのですが、はたしてそこに待っていたものは…

両子寺の境内を通り抜け


奥の院を経て


山道に入ります


両子寺の七不思議の一つ
「針の耳」


この穴を通り抜けます




同じく七不思議「鬼の背割り」


中から見上る


この鬼の背割りから山頂につながる山道があるはずなのですが、見つけることができませんでした。またその山道はYAMAPの地図にも出ていませんでした。これも七不思議の一つ❓
仕方なくコンクリートの車道を登ったのですが、その長かったこと…

山頂が見えてきました。


あれ…

まさか…

山岳霊場の最高峰が…



期待が大きかっただけに、田原山・中山仙境・不動山が趣深い山頂だっただけに、この両子山の山頂には「剱岳点の記」の主人公がラストシーンで受けたような衝撃を受けました。

下山後、再び両子寺


仁王門




無明橋


シャクナゲ


ツクシ


これも両子寺七不思議の一つ
「走水観音」の水場




お水をいただいて文殊仙寺へと向かいました。
-続く-


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国東半島へ③ 旧千燈寺跡から不動山へ

2022年04月13日 | 山(県外)
4月8日の午後、旧千燈寺跡を訪ねました。
史跡巡りを兼ねた山登りです。

午前中に行った中山仙境とは打って変わって、道はなだらかです。


往事をしのばせる石垣


そして


一対の仁王像

これが見たくてここに来ました。





仁王像の後ろには石段が残るのみ…


「昔の光今いずこ…」

やがて奥の院へ




中には無数の石仏




さらに進むとおびただしい数の五輪塔

説明板によると約1000基だそうです。

不動山852mを目指して山道を登ると一気に視界が開けました。海です。


山頂への最後の登り


山頂の岩下にある五辻岩屋不動尊


お堂の中


天井絵


五辻岩屋からの展望


豊後水道に浮かぶ姫島が見えています。

帰路は車道を下りました。
-続く-







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国東半島へ② 中山仙境

2022年04月12日 | 山(県外)
セカンドライフが始まり、節目の記念にと2泊3日の日程で大分県の国東半島に出かけたのは4月7日のことです。7日は前回の田原山、そして8日には中山仙境と旧千燈寺跡を訪ねました。

中山仙境


夷谷から見た中山仙境。
今回歩いたのは下の看板にある「中山仙境の峰道」です。



「中山仙境の峰道」の最高峰は高城で標高317mです。この峰道は、歩行距離3.2㎞、2時間半もあればゆっくりと周回できますが、かって修験者達が「大魔所」と言って恐れたスリルに富む難コースなのです。

このことは次の説明板に詳しく書かれています。



さて、そんなコストパフォーマンス(ここでは「疲労対効果」)に優れた中山仙境峰道のレポートです。

登山口である夷耶馬農村公園から20分で縦走路にでます。


コース中至るところに石仏が祀ってあります。




段々と道が険しくなります。


やせ尾根を進んでいくとすぐに「無明橋」


御利益があるように渡ります。


実はこの無明橋はさほど恐くはありませんでした。ガイドブックで「無明橋」の写真を見て、勝手にイメージをふくらませていただけで、実物は思いの外小さく拍子抜けしました(失礼ながら)。
本当に恐い所はコースの後半ですが、そこの写真は撮っていません(撮れなかった…)。





こんな名もなき橋もありました。
「無名橋」


高城への登り


高城山頂


おやつ


次のピーク


これより下り


天空の道




大キレットは摑まる岩や鎖がありますが、ここは摑まるものが何もありません。風の日はまず通れないでしょう。無理して通るなら匍匐前進でしょうか。

この後はかなり危険な崖を降りていきます。
写真好きの私ですが、撮る余裕がありませんでした。
連れあい曰く「由布岳のお鉢巡りよりはるかに恐い」と。

危険地帯を通り過ぎたところにある「隠洞」


この後はふつうの山道を下り「下山口」へ


車道を10分ほど歩くと「登山口」に戻ります。

(実相院、霊仙寺)

これぞ国東半島の山、標高こそ低いものの修験道の山を堪能することができました。
この後お昼を食べ、午後からは旧千燈寺跡へ。
-続く-

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