小松市安宅町タ、日本海に面する地に『富樫氏』が設けたと言われる関所「安宅の関」。傍らに与謝野晶子:歌碑
安宅の関は、室町期の謡曲「安宅」や江戸時代後期の歌舞伎「勧進帳」の舞台として語られ、「判官贔屓」と言う言葉と共にすっかり定着した物語となりました。「安宅住吉神社」の社地、松林の中の木漏れ日に包まれた一画。昭和14年に石川県史跡に指定された「安宅の関跡」に立つ数々の碑。そこには事実なのか、伝承なのか、単なる物語なのか・・そんな理屈などを超えた空間が存在しています。
物語は、文治3年、兄『源頼朝』に謀反を疑われた義経主従が、奥州平泉へと落ちのびる為に山伏姿で安宅の関を越えようとした場面から始まります。何とかうまくやり過ごせかけたその時、関守・富樫泰家に見咎められ詰問される場面。(国道360号線・小松市前川に架かる浮柳新橋・弁慶と富樫の像)
弁慶は旅の目的を、東大寺再建の為の勧進と言い、命ぜられるままに実は白紙の勧進帳を朗々と読み上げます。(安宅住吉神社境内)
堂々とした態度に感服しつつも、しかし富樫の疑いは晴れず、傍らに控える山伏を義経に似ているとし、人相を改めようとします。(浮柳新橋の欄干)
とっさに立ち塞がる弁慶!「おまえの顔が軟弱な故にいらぬ疑いをかけられたのだ」と責めたて、手にした錫杖で激しく打ち据えだしたのです。
打たれるままに「申し訳ありませぬ」と手を突き、地に額をつけて詫びる義経。
弁慶の血を吐く忠義の心に感じいった富樫は、彼を義経と知りながらも「疑って済まぬと」詫び、関を通る事を許可します。
安宅関跡には詮議の場面の銅像が建ち、下に「勇・仁・智」の文字が刻まれ「智は弁慶の知恵、仁は富樫氏の情け、勇は義経の勇気である」と添えられています。(武蔵坊弁慶(七代目松本幸四郎)、富樫泰家(二代目市川左團次))
こうして無事に関所を通り抜けた義経主従、道林寺まで来たとき、弁慶は己の仕打ちを涙ながらに義経に詫びるます(現・能美市道林町:弁慶謝罪の地)
さて、この話のモデルとなった逸話、実は「義経記:如意の渡し」がモデルと言われています。「如意の渡し」は、越中国(富山県)の小矢部川を渡るために設けられていた渡し船。如意の渡しから乗船しようとした義経一行でしたが、渡守の平権守に義経でなないかと見咎められます。この時、弁慶はお前が軟弱だからと扇で義経を打ち据えるという機転で、無事に乗船できたのです。
結袈裟の紐が空を舞うほど激しく打ち据える様に、まさか主に其処までは・・と渡守の疑いを解かせた咄嗟の機転。設定は違っても鼻の奥がツ~~~ンと・・(2016年5月・富山の旅での「如意の渡し」像。)
安宅住吉神社の境内社である「関ノ宮」。御祭神は『源義経・富樫泰家』。
社地には、安宅住吉神社に詣でた著名人の歌や句が碑として建立されています。「安宅の関跡」近くに建立された『与謝野晶子』歌碑
【 松たてる 安宅の沙丘その中に 清きは文治 三年の関 】
【 落ちて行く 主従を偲ぶ 松しぐれ 塩田紅果 】
森山啓文学碑「遠方の人」より【かれらは永劫止むこともないやうな潮騒と松風の音に包まれ触れあふ手さへ全身に燃え上るもののために震えた。】
【 雲に思ひの 高館遠し 昼がおに 森本之棗】
小松市内には様々な場所に安宅関の銅像が建立されています。小松空港入り口に建立されていた弁慶と富樫の像。日差しがきつくて弁慶さんは今ひとつ。
こちらは空港ターミナルの入口近くにあった弁慶と富樫・・・可哀想なくらい義経さんの存在感が・・
都を落ちてゆ義経主従の話には少し逸れてしまいますが、尼御前(あまごぜ)SA横にある尼御前公園。そこに尼御前岬を見つめるように立つ尼姿の美しい女性像があります。
源頼朝に追われ、北陸路を奥州に落ちのびる義経に従って都を出た『尼御前(あまごぜん)』。加賀の地まで来た時、待ち受ける安宅の関で足手まといになる事を憂い、岬の絶壁から身を投げてしまいます。
尼御前様の視線の先・・夕陽の中に寄り添う人の姿に重ねて見るのは、叶う事なら一緒に添い遂げたかった我が身と義経殿の姿でしょうか。
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国定公園加賀海岸として知られる石川県加賀市美岬町、条件が揃わなければ見られない「尼御前岬のだるま夕陽」。泣きたいような・・胸を締め付けられる程美しい日の入り・・尼御前様の慰めとなりますように。
訪問日:2011年10月12日&2015年10月21日