郡上市八幡町柳町、八幡山の頂上に建つ「郡上八幡城」。戦国時代末期の永禄2年(1559)、『遠藤盛数』によって砦が築かれたのが「郡上八幡城」のはじまりとされています。古名を「積翠城(せきすいじょう)」「虞城(ぐじょう)」とも称しました。
寛文7年(1667)、6代城主『遠藤常友』の修復によって、幕府から城郭として格上げされ、のちに井上氏、金森氏と相次いで入部。宝暦5年(1755)の大規模な農民一揆で12代城主『金森頼錦』がお家断絶に追い込まれると、金森氏に代わって、丹後の宮津から『青山幸道』が転封。城下の殿町に居館を築き、旧二の丸は本丸、旧本丸は桜の丸、松の丸と改められました。
明治6年(1873)の「廃城令」により、郡上八幡城は石垣を残してすべて取り壊されましたが、昭和30年(1955)に城郭一帯の石垣すべてが県の史跡に指定。
現在の天守は、大垣城を参考に昭和8年(1933)に再建。全国的にも珍しい木造の模擬天守で、現存する木造再建城としては日本最古であり、昭和62年(1987)に市の有形文化財に指定されました。
城内の一画に据えられた「赤髭作兵衛の力石」。この石にまつわる伝説の内容が・・切ないと言うか・・純真素朴と言うか、気になる方はググって下さい😓
城山公園内に建立されていたのは、昭和12年(1937)の「国民文学」に掲載された『千代国一』の歌碑。
【 城の垣 苔生枯れつつ積む石の 容さながら 歳月を負ふ 】
見晴台から見下ろした城下町のたたずまいは、見る角度によって町の形が魚のように見えるとか・・でもそんな風に見るには、天守閣のような高い位置からでないとダメなのかも。
私たちに限っていうなら、お城は、展示品よりもお城そのものを眺めているほうが好き。とはいえ、全部を見るには時間も体力もかなり不足。結局後になって、あれもこれも見残した事に気がついてガッカリするのですが・・そんなガッカリにも慣れた気がする今日この頃😄
郡上八幡城案内図の横に、日中の日差しの下で無いと遠慮したい「首洗い井戸跡」なるものが残されています。慶長の合戦に際して討ち取られた敵方の首についた血や泥を洗い浄めていたと云います。「首洗い」という言葉から連想されるイメージは血なまぐさく、恐い・・ですが、きちんと洗い清める事に武士の心を感じます。
城近くの駐車場から公園まで下ると、「山内一豊 千代」の像が出迎えてくれます。傍らの説明によれば、郡上市の「慈恩寺」が所蔵する遠藤氏の系図に、『遠藤盛数』の娘が山内一豊室であるとの記載があったことから、千代が盛数の娘であるとする説が有力視されています。それをもって、郡上八幡は千代の出生の地となっています。
公園の一隅に「円空の癒しの水」と呼ばれる湧水があり、穏やかな微笑みを浮かべた「円空仏」が訪問者を見守っています。美濃路の旅の随所で出会う「円空仏」さん。いつ何時見ても、心にやさしく微笑みかけて下さいます。
訪問日:2012年5月20日