安曇野市穂高有明宮城、「有明山」を御神体とする「有明山(ありあけやま)神社」。有明山の麓に本宮(里宮)があり、御祭神は『手力雄命・八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)・大己貴命』。有明山山頂(中岳・南岳)に「奥大宮」が鎮座されます。
由来「手力雄命が天の岩戸を投げ飛ばしたのが、戸放(とはなら)ヶ岳、又は有明山と呼ばれる霊峰と伝えられる。第八代孝元天皇の五年に社殿を造営「戸放権現」と称す。延歴二十四年(805)、東国平定途上の坂上田村麻呂が八面大王征討の際、戸放権現に祈願し、見事に成伐したという。後島羽上皇は領主仁科盛遠に国家安泰を祈願させ、建保三年(1215)「暁時雨」と題した御歌を奉納。江戸時代に一時衰退するも明治に入って豊科寺所出身の岡村阜一氏が再興のため尽力、現在地に社殿を増築し、神域を拡張、信濃日光と称され、大正昭和に至り多くの皇族方のご参拝を頂いた。日本海軍「有明」の艦内神社に分祀。また、海上自衛隊の護衛艦「ありあけ」の艦内神社にも分祀されている。」
境内入り口参道脇、橋上の上左右より神域を守護されるのは、「明治38年日露戦争戦捷記念」のブロンズ製狛犬さん一対。満開の桜の下、勇ましくも優しい眼差して参拝者を出迎えてくれます。
参道右手には市有形文化財で切妻瓦葺の「手水舎」。飛騨の匠『山口権之正』の作で、虹梁・天井には見事な彫刻が施されています。その数の多さは半端なく、どれを削るなんてとても考えられない程にどれも秀逸。という事で手水舎彫刻は~其の二で改めて紹介します。
参道正面に、明治35年(1902)に日光東照宮の陽明門を模して建てられた「祐明(ゆうめい)門」。和様に唐楼を混ぜ、精巧美麗を極めた切妻軒唐破風付八脚門で、同じく市有形文化財の指定。どの部分を切り取っても秀逸過ぎる彫刻の数々・・これも手水舎同様、改めて詳細に。
神門内左右より神域を守護されるのは『浜猪久磨・鑛一』作による、珍しいブロンズ製の随身様一対。アップで撮りたかったのですが生憎の花曇りの下の金網越し・・流石に何を写したのか良く分からない画像😅
神域では境内の外にあるもの以外、フラッシュは使わない事にしているのでこれもやむを得ません。金網の隙間から写した随身様の台座は、多分笑っておいでの虎。
境内側からみる「祐明門」、こちらには『清水虎吉』作による一対の御神馬が神域を守護されています。
漆黒の御神馬もやっぱり撮影失敗。右手の白馬のみ金網の隙間からアップで・・・😅
「祐明門」の先より神域を守護されるのは「明治二十三年九月十五日 松本町石工・伊藤幸太郎」作の狛犬さん一対。
久々に美しい狛犬さんに出会ったので、又しても特別扱い、まずは満開の桜を背景に阿形さん。
更にアップで!
有明山麓の緑を背景に端正な顔立ちの吽形さん。背中から胸にかけて流れる毛先が、まるで生きた蛇を連想させます。
更にアップで!
屋根に七つの鰹木を持つ神明造りの拝殿は、明治二十一年(1888)の再建。有明山そのものがご神体である為、本殿は無く、拝殿が有明山遥拝所となります。
拝殿額の横には『天照大神』を岩戸からお出まし願う大役を担った『天鈿女命』と、天孫降臨の際に先導を勤められた『猿田彦命』。もう一方には「三宝に御神酒」の額。
裕明門と同時期の明治35年(1902)に建てられた神楽殿。内部を拝観する事はできませんが、格天井には51名の画家による81枚の板絵があり、安曇野市文化財の指定を受けています。
拝殿渡り廊下の下をくぐった先に、注連縄が張られた「妙見 里の瀧」が見えてきました。清らかな水が流れ落ちる音は、春とは名ばかりの冷たい空気と相まって思わず背筋が伸びるような不思議な感覚。
瀧は水の神が住まう場所。時に恐ろしく、時に人の命の糧をもたらす龍神は、天翔けて世の穢れを洗い流すと云われています。この地には『法壽(ほうじゅ)龍神』が祀られています。
瀧の傍らに奉納された灯篭の傘の上から私たちを見守るのは、なんとも優しい眼差しの瓦材の獅子と、小さな天狗さん。多分・・諸事情が有ってこちらに移されたのでしょうが、目があった瞬間に笑みがこぼれそうな優しいお顔をされています。
有明神社の境内、まだまだ紹介しきれないあれこれが有るのですが、続きはまた明日🌸
参拝日:2016年4月18日
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