中山道六十九次:五十一番目の宿場「太田宿」。中山道の三大難所の一つに数えられた「太田の渡し」があり、飛騨街道と郡上街道の分岐点でもあった事から大いに栄え、本陣:1軒、脇本陣:1軒、旅籠:20軒を擁し、家数は108軒。今も宿場町の面影を残す町並みには、当時の建物が幾つか現存しています。
「旧太田宿本陣門は、広大な敷地を誇る太田宿の本陣において唯一現存する史跡で、文久元年(1861)10月、皇女和宮の幕府への下向のために建てられたと伝えられます。この門は、一間の薬医門で、両袖に半間の塀がつき、旧本陣の偉容を偲ばせる格式あるつくりです。また、当時の本陣には、幕府大老井伊直弼、水戸の天狗党武田耕雲斎などの有力者も宿泊していたようです。」(中山道会館HPより)
脇本陣:林家住宅は、主屋うだつの鬼瓦の銘から、明和6年(1769)の創建と判明。 林家は江戸中期、脇本陣を勤めるかたわら庄屋として尾張藩太田代官の指揮下で宿の行政事務を取り、また、家業として質屋や味噌・溜の製造販売も営んでいた旧家です。 最盛期には、東西25間の間口、土蔵9棟、馬屋3棟、離れ座敷などを持つ壮大な構えでした。(中山道会館HPより)
大田宿の中では一際目を引く存在で、在りし日の繁栄の様子が伺える佇まい。国重要文化財の建物では、今も普通に暮らしが営まれ、見学は外観のみ。 棟続きの「隠居家」は一列三室型の町屋形式で、最初に建てられた時期は不明。現在の建物は、文政12年(1829)の家相図に基づいて修復されたもので、こちらは内部の見学もできます。
全体を一枚に収めようと思うと、相当後ろに下がらなければ、それでも真正面は無理。
林家住宅向かいの一画を占める「御代桜醸造」、元々太田宿で料理屋を営んでいましたが、明治26年(1893)に酒造業を開始。 御代桜醸造に残る蔵は、明治時代に脇本陣林家のものとして利用されていた蔵を移築、再利用されたといわれています。
「小松屋」の屋号で営まれていた旅籠は、大田宿のお休み処として活用。建物内には、美濃加茂市出身の文学者『坪内逍遥』の資料なども展示されており、畳の室内でゆっくりと寛げる場所となっています。
大田宿の最後は、臨済宗妙心寺派の禅寺「龍興山祐泉寺」。開山の歴史は文明6年(1474)に遡るといわれています。
境内には、大正3年(1914)にこの地を訪れ、旧太田町から旧犬山町までの木曽川がヨーロッパのライン川に似ているとして「日本ライン」と命名した地理学者『志賀重昂』の碑や、槍ケ岳を開山した『播隆上人』の墓碑などが建立されているそうです。
私達が見たのは、境内の立ち入りやすい一画に建立されていた、三つの碑だけ。まずは脇本陣3代目で芭蕉の門弟『林由興(冬甫)』が、師を悼んで建てた芭蕉句碑。
【 春なれや 名もなき山の 朝かすみ 】
太田で生れ育った明治の文豪『坪内逍遙』が述懐の念をこめて詠んだ「椿の歌」二首
【 山椿 咲けるを見ればいにしへを をさなき時を 神の代をおもふ 】
【 この木の 実ふりにし事ししのばれて 山椿はな いとなつかしも】
『坪内逍遙』歌碑の後ろに見えるのは、『北原白秋』が祐泉寺を訪れ茶席でしたためた歌碑。
【 細葉樫 秋雨ふれりうち見やる 石燈籠の あを苔のいろ】
生憎の雨で、のんびりゆっくりとはいかなかった大田宿の町並み散策はここまで。こうした町歩きは予定時間に縛られず歩かないと、思いがけない発見は見つかりません。
しかも後になって見返せば、見逃してしまった場所の多い事😔、ちょっと悔しいかな。
訪問日:2018年10月11日
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