車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

大日本報徳社と掛川城 in 静岡県掛川市

2019年02月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

明治初期、『二宮尊徳』の唱えた報徳思想の普及をめざして設立された「大日本報徳社」。 その建物が、かって掛川藩士の屋敷があったと見られる場所に立地しています。
【「報徳」とは、彼が生涯の生活と体験を通じて社会道徳の規範を考え、人間として社会生活を行うための行動の基本となるものをつくり、自ら実践し、それをそのまま雛形として後世に伝えられたものです。】公式HPより

明治42年に建設された花崗岩製の正門には、右に「道徳門」、左に「経済門」の刻。「天地の徳に報いるには、内にあっては天賦の良心を養成(道徳)し、外にあっては、天地の恵みである作物の育成を助ける(経済)ことである。」という『二宮尊徳』の教えに由来。

門から見える大講堂は、明治36年4月に竣工されたもので、国の重要文化財に指定。 建物は木造2階建て・入母屋作りで屋根は瓦葺き、窓の上部が半円形で、装飾が施された円柱があります。

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「仰徳学寮」は明治17年竣工の有栖川宮邸の一部で、後に霞が関離宮の一部として使われました。大正13年からは、帝室林野局仮庁舎として使われ、昭和13年に大日本報徳社に移築。

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掛川に来たのに掛川城に行かないなんて・・とかなりブーたれましたが、2011年のこの時は時間切れで、太鼓櫓を横目で眺めただけで終わり。

2016年、五年越しの希望が叶って訪問した「掛川城」の筈でしたが・・・このときも外観の見学のみ (^^;) 色々と理由はあったのですが、兎にも角にもこの時は二人旅では無いので・・(´;ω;`)ウッ…
・・数分間の下車の間に、城の遠望とその周囲を写真に収めるにとどまりました。

掛川城は室町時代中期に、駿河の守護大名『今川氏』が築城させたと伝えられています。 明治維新に廃城となりましたが、1194年に日本初の「本格木造天守閣」として復元。

大手門は天守閣に続いて復元されたもので、重厚な桜門造りの木造日本瓦葺き入母屋づくり。 白壁に板ひさしが配されており、棟上にはシャチ瓦が飾られ、勇壮な構えとなっています。

門の内に展示されていた石は1993年の発掘調査で発見された、門の基礎部分「礎石根固め石」の一つ。 大きくて重量のある門が傾いたりしないように、基礎工事には工夫が凝らされていたようです。

江戸時代末期に建てられた番所は、城内に出入りする者を監視する役人の詰め所として使われていました。 現在の建物は、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊後、安政6年(1859)に再現されたものです。

車に戻る寸前に見かけた『一豊と千代』の顔出し。まぁ、せっかく見つけたものです!とりあえず写真に残しておかねば(笑)
天正18年(1590)、『徳川家康』が江戸に入ると、掛川には『山内一豊』が5万石で入封。 城主となった『一豊』は城の大改修を行い、このとき現在の形となる三層の天守が造られたそうです。

息を切らしながらデジカメに収めた掛川城遠望と、付随する周囲のあれこれ。写真を見返して「ああ、あそこはこんな風だったのか」と改めて懐かしんでいます。 東名高速道路「小笠PA」の記念スタンプは、復元された掛川城天守閣。

訪問日:2011年11月16日&2016年12月14日

 

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事任(ことのまま)八幡宮 in 静岡県掛川市

2019年02月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

掛川市八坂に鎮座される「事任(ことのまま)八幡宮」。遠江国一宮で式内社とされています。

御祭神は、言霊の神とされる『己等乃麻知媛命(ことのまちひめのみこと)』。 社殿内に『息長帯姫命 、誉田別命、玉依比売命(三柱合わせて八幡大神と総称)』を配祀。

【創建年代は不詳ですが、大同2年(807)、坂上田村麻呂が勅命を奉じて、当社を再興したと伝わっています。それまでは本宮山にお祀りされていましたが、この年に本宮山より今の地(里宮)に遷座されたようです。もちろん現在も本宮山では、小さな祠でお祀りされています。醍醐天皇の御代に選上された「延喜式神名帳」には、遠江国佐野郡四座の1つとして「己等乃麻知神社」があげられています。】神社HPより

更に【平安時代後期に八幡信仰が広まると、康平5年(1062)、『源頼義』が「石清水八幡宮」から八幡神を勧請し、「日坂八幡宮」や「八幡神社」とも称されるようになった。】

古来「願い事のままに叶う」という有難い神社として、東海道を往来する多くの人々が参詣したといわれ、神社HPには【主祭神の『己等乃麻知比売命』は、真を知る神、言の葉で事を取り結ぶ働きをもたれる神様。 言の葉を通して世の人々に加護を賜う「ことよさし」の神として敬われています。】

主祭神が遷座される前に祀られていたと言う「本宮山」には、今も神社の奥社が鎮座します。 太鼓橋を渡って直ぐ、上に登る細い道を進むと結界に守られた「本宮遥拝所」。「奥社」は、参道前の旧1号線を跨ぐように架けられた歩道橋を渡った先に鎮座されまが、そこに至るには長い石段と斜面が続く道を行かねばなりません。残念ですが、遥拝所からのお参りとさせていただきました。

本殿の西隣に鎮座される「五社神社」。御祭神は『天照大神、八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)、大国主命、火乃迦具土神(ほのかぐつちのかみ)、東照大権現』の五柱。

朱の鳥居の向こうに鎮座されるのは摂社「稲荷神社」。御祭神は『宇迦乃御魂神(うかのみたまのかみ)』

さらに隣には『大物主神=大国主命』をご祭神とする「金刀比羅神社」が鎮座。

新たな鳥居の南口が整地されるまで、その一隅には鯨の形をした「くじら山」がありました。そこには、神様が投げた碁石によって山になってしまったという「鯨」の伝説が残されていると云います。

その昔、事任八幡宮の神様は大そう碁が好きで、ある時海の神様を呼んで碁を打ちました。 ところがそこで美しい姫神様を見た海の神様、さっそく求婚の使いを鯨に頼むことにしました。
けれど求婚を断られてしまった鯨は海にも帰れず、姫神様を飲み込んでさらおうとしたのです。 大きく口を開けて姫神様を飲み込もうとした有様を見た神様は、とっさに側にあった碁石を鯨に投げつけました。
そして鯨はそのまま山に・・ ここに祀られた石は、整地された場所から出たという「くじら山・みたま石」だそうです。はてさて・・神様も随分と身勝手で無慈悲な事を・・・

境内を覆う御神木の「クスノキ(掛川市指定天然記念物)」は、樹高31M、目通り周囲は6M。 注連縄で結界を施された巨木は、パワースポットとして多くの参拝者の人気を集めているそうです。

奉納絵馬には、事任八幡宮に伝わる「羅陵王(らんりょうおう)舞楽」

最後は、表参道に架かる太鼓橋の近くに建立されていた句碑ですが・・・読めません(^^;)  見た感じでは句は二つ刻まれているようですが、神社のHPにも何の記載もありません。こういうのってもの凄く消化不良なんですが、もしもご存知の方いらしたら、是非、ご教授を!!

余談ですが、事任八幡宮諏訪大社下社春宮戸隠山は、ほぼ南北一直線上にあるのです。 それが何か?と聞かれても何にも答えられないのですが・・・でも、もしかしたら古代祭祀の謎とか・・ちょっとワクワクしませんか(⌒∇⌒)

参拝日:2016年12月13日

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『己等乃麻知媛命(ことのまちひめのみこと)』。興台產靈  (こごとむすひ)の妃神で、天児屋根命(あめのこやねのみこと)の母神。天の声を言の葉を通して世の人々に伝え、加護を賜う「ことよさし」の神としても知られる。

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日坂宿そぞろ歩き in 静岡県掛川市

2019年02月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

掛川市日坂にある「日坂宿(にっさかしゅく)」。東海道五十三次二十五番目の宿場で、「箱根峠」「鈴鹿峠」と並び、東海道三大難所と呼ばれる「小夜の中山峠」の西麓に位置します。

『歌川広重』の東海道五十三次に描かれた、真っすぐに切り立った急斜面。それと並行して作られた街道を歩く旅人たちの様子からも、その険しさがうかがい知れる小夜の中山。東海道で一番小さな宿場と言われた「日坂宿」はそんな難所の麓に位置します 急斜面の真ん中に描かれているのは、遠州七不思議の一つ「小夜の中山の夜泣き石」

車泊でお世話になった「小笠PA」の記念スタンプにも、広重描く「小夜の中山の夜泣き石」がデザインされています。

日坂宿:片岡本陣扇屋跡に残されているのは、家紋を染め抜いた門と、当時を語る説明だけ。 嘉永5年の日坂宿大火で全焼した「扇屋」は、のちに再建しましたが、明治3年に閉店。その後、跡地は日坂小学校の敷地とされ、家屋は校舎として利用されましたが、そのいずれも今は現存していません。

門の奥に広がる跡地に建立された碑は、『明治天皇』東幸の際に『片岡金左衛門』宅にて小休された旨が刻まれています。

天保14年(1843)の記録によると、日坂宿には本陣1軒、旅籠屋33軒、168軒の家があり750人が居住していたとあります。
『大田南畝』の「改元紀行」には【日坂宿の家々はわらび餅を売り、足いたみの薬、足豆散・足癒散等を売るものも多い】と記されており、難所と言われた峠越えの厳しさが伝わってきます。

本陣は跡形もなく消え去りましたが、宿場の街道沿いには当時を物語る建物が僅かながらも残されています。

ここは日坂宿最後の問屋役を務めた『伊藤文七』の自宅で、「藤文」の屋号で呼ばれていました。維新後の明治4年(1871)には、日坂宿他27カ村の副戸長に任ぜられたそうで、宿場の実力者的存在だったようです。

ちなみにですが・・2011年に訪問した折には、右隣には別の建物が付属していました。

「萬屋」は間口四間半。幕末としては中規模の造りで、もっぱら庶民の泊まる旅籠として使われました。 一階が「みせ」と「帳場」で、二階には宿泊のための「座敷」が今も残されています。

宿場の西に建つ「川坂屋」は、問屋役を務めていた『斉藤次右衛門』が始めたと伝えられています。 身分の高い武士や公家などが宿泊した記録などから、格の高い脇本陣格であったことが伺えます。

「川坂屋」は、明治3年まで旅籠屋として存続し、以後も要人には宿を提供していたそうです。 内部は江戸より招いた棟梁の手で、精巧な木組みと細やかな格子が造作され、格式の高さが今も残されており、休日には内部の無料公開もあるとの事・・。生憎と日程の折り合いがつかずで、外観のみ。

「川坂屋」の向かいにある「紫雲山 光善寺(宝聚山 相傳寺)」。境内入り口には火防鎮護の「秋葉常夜灯」が奉納されています。

「遠江:三十三観音霊場」『聖観世音菩薩』を霊場本尊としており、境内には沢山の幟が奉納されています。折角宿場の外れまで来たのですから、みんなで旅の無事と安全を願い手を合わせましょうか。

相傳寺横の「高札場跡」には、記録に基づいて復元された天保年間の高札八枚が掲げられています。親子高札は忠孝札とも呼ばれ、親子・兄弟・夫婦・親類縁者みなともに、仲良くするように。火付高札は、火事の際にみだりに騒がず、また火事場泥棒は厳罰に。毒薬やにせ薬の売買を禁止する毒薬高札。みだりに徒党を組むことを禁止する徒党高札・・切支丹高札、伝馬高札、駄賃増高札等々。信教の自由を声高に言い募って「切支丹高札」を批判する人も、たとえばそれのみを国教とする国で、他国の念仏や呪術を大っぴらにやれば・・多分胴体と首が離れ離れになります。

宿場の外れと呼ぶべきか宿場の入り口と呼ぶべきか。古宮橋が架かる逆川のこの位置が、当時の「下の木戸」の跡。下の木戸は宿場への出入り口にあたるところで、ある一定の時刻になれば通行出来ないように閉ざされてしまいます。場所によっては「見附」「棒鼻」などとも云われ、特に見附はそれがあった場所にちなんで地名となった所も多く見かけます。

鳥居の奥の「秋葉常夜灯」は、「事任八幡宮」参拝後に日坂宿に入る途中で見かけたもの。 何よりも火事を恐れた人々にとって、火防鎮護である秋葉権現への信仰は絶大なものだったのでしょう。

訪問日:2011年11月14日&2016年12月13日

 

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ご当地マンホール~規格蓋 in 静岡県掛川市

2019年02月05日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

デザインのないマンホールや、上水道関連の蓋は地味すぎるのが難点ですが、それでも各自治体を現す立派なご当地マンホール。集めて歩くと結構な種類になったので別記事に掲載です。そうそう、ちなみに掛川市役所の敷地内に設置されているベンチの足には、もれなく掛川市の市章がデザインされています(^-^)

それだけではやっぱり地味なので、新東名「掛川PA」の記念スタンプ。「粟(あわ)ヶ岳の茶文字」はとても有名だそうで、運がよければ走る車の中から見ることができます。 

2005年8月6日制定の市章は【掛川市の頭文字「K」をモチーフにして、掛川市の将来像「海と山と街道がつながり、夢・未来を創るまち」をキキョウの花の形でイメージ・デザインしました。公式HPより

でも・・一枚しか見つけられなかった(^^;)

旧掛川市の市章は昭和31年2月28日の制定で、「雲霧城(掛川城)の桔梗御紋を引用したものです。」

微妙な違いで恐縮してしまいそうですが(笑)、意外と沢山ありました(笑)

仕切弁・電気・電話の市章の花びら部分ですが、丸くなくて、剣菱のようにとがっています。 たまたまこのようになったのだと思いますが、蓋によって微妙な違いがあり、それもまた興味深いです。

これは掛川城近くで見つけた「耐震貯水槽・消火栓」ですが、自治体を示すものは何もありません。おそらく整地の際に設置された規格蓋でしょう。

撮影日:2011年11月14日&2016年11月14日

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 静岡県掛川市

2019年02月04日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

掛川市(かけがわし)は静岡県の西部、牧之原台地のすぐ西に位置しており、掛川城の城下町として発展してきました。袋井市・島田市・菊川市・御前崎市・森町に隣接。地名の由来は、中心部を流れる逆川の流れが、切り立った崖のように見える事から「缺(か)けた川」のようであり、それが次第に略されて「懸(かけ)川」となり、後に現在の「掛川」と改名されました。「市の木:金木犀」「市の花:桔梗」「市の鳥:鶯」を制定。

高速道路から見えた「粟ヶ岳の茶文字」。この茶文字ですが、茶の草かんむりの横棒だけでも100メートル以上あるとか。昭和7年頃、東山のお茶のPRのために、茶業組合や村民が力を合わせ、粟ヶ岳の急斜面にマツの樹を植え付けたのがはじまりとか。その後、松の木がマツクイムシの害にあい、ヒノキに植え替えられ、今も定期的にメンテナンスが行なわれているそうです。

キャッチフレーズは「海と山と街道がつながり、夢・未来を創るまち」「 ~ 健康・安全・安心、幸せ感じるまち 掛川 ~」

明治22年(1889)、町村制の施行により、佐野郡掛川町・南郷村・大池村・栗本村・西山口村・曽我村・東山口村・西郷村・倉真村・日坂村が発足。城東郡上内田村が発足。

1893年、佐野郡南郷村下俣・南西郷・結縁寺地区を編入。

1895年、掛川町南西郷・結縁寺・下俣の一部が分立して佐野郡西南郷村が発足。

1896年、郡制の施行により城東郡と佐野郡が合併、小笠郡が発足。

1925年、小笠郡大池村を編入。

1950年、小笠郡上内田村を編入。

1951年、掛川町、西南郷村、栗本村、西山口村が合併し、新たに小笠郡掛川町が発足。

1954年、小笠郡西郷村・倉真村が合併、小笠郡三笠村が発足。

1954年、小笠郡曽我村、東山口村を編入し、市制を施行、掛川市が発足。

1955年、小笠郡日坂村と合併。

1960年、小笠郡三笠村を編入。

2005年、掛川市、小笠郡大東町、大須賀町が合併、新たに掛川市となりました。

マンホールには、復元された「掛川城天守閣」と、「市の花:桔梗」が描かれています。(掛川駅南口付近のタイル歩道上)

「東海の名城」と呼ばれた掛川城、1994年に日本初の「本格木造天守閣」として復元されました。

「日坂(にっさか)宿」地区の農業集落排水の蓋には、駕籠に載って峠越えする旅人が描かれています。

「秋葉路地区」のマンホールは、「秋葉山」と「常夜燈二基」がデザインされています。

上内田地区の農業集落排水の蓋には、上内田の文字が中心から外側に放射状にデザインされています。

掛川市公式キャラクターは『二宮金次郎』をモチーフにして誕生した『茶のみやきんじろう』。頭の天辺にあるのはお茶の新芽「一芯二葉」で、今日もせっせと「お茶のまち掛川」をPRしています。

掛川市社会福祉協議会のマスコットキャラクター『キョーちゃん』。市の花の桔梗がモチーフ、お茶の葉の尻尾がチャームポイントです。

撮影日:2011年11月14日&2016年11月14日

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マンホールカード、頂きました

2019年12月14日、第11弾として全国63自治体で66種類(累計502自治体605種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「掛川市」のマンホールカードは、「東神楽町役場」でいただけます。

1994年に設置開始されたマンホールには「掛川城」と「ききょう」がデザインされています。

「掛川市の観光名所のひとつである「掛川城」と市の花である「ききょう」を描いたマンホール蓋です。 掛川城は室町時代、駿河の守護大名であった今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのがはじまりです。 その後、戦国時代には、山内一豊が城主として大改築を行いました。 マンホール蓋には、平成6年(1994年)4月に「東海の名城」と呼ばれた美しさそのままに、日本初の「本格木造天守閣」として復元した姿を描いています。 また、掛川市内にはこの他にも地区ごとのデザインマンホール蓋が点在しているため、それらを探していただくのもおすすめです。」

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 静岡県吉田町

2019年02月03日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

榛原郡吉田町(よしだちょう)は静岡県の中部に位置し、大井川河口から下流域右岸側に広がる町です。町域の大半が大井川と坂口谷川に挟まれた平野部で、湯日川や大幡川が駿河湾に面する吉田漁港に注いでいます。この吉田漁港はシラスの揚がる港としても知られ、周辺にはシラスの加工場が点在。また吉田たんぼといわれる条里制遺跡があり、今日でもレタス栽培がおこなわれ、ダイヤ印ブランドのメロンと共に、町の特産品として出荷されています。島田市、焼津市、牧之原市に隣接。町の北西部は牧之原台地の支脈・湯南原台地の東端で片岡原とも呼ばれます。「町の木:松」「町の花:菊」を制定。

キャッチフレーズは「水と緑と花、えがおいっぱい 吉田町」「人と人、心やすらぎ 健康で住みやすいまち吉田町」

明治12年(1879)、吉田村・片岡村・川尻村・神戸村・大幡村が第六組合を結成。

明治22年(1889)、町村制の施行により、第六組合が榛原郡吉田村として発足。

1949年、吉田村が町制を施行、榛原郡吉田町となりました。

マンホールは、しらす漁で有名な「駿河湾の荒波とかもめ」「住吉海岸の松並木」。(スーパーカネ八住吉店近くのタイル歩道に設置)

吉田町川尻にある「吉田公園」のみに設置されている蓋で、中央が「町の花:菊」、周囲には「サツキ」がデザインされています。

昭和47年9月1日制定の町章は【住吉、川尻、片岡、北区の4つの地区を示す外側の“ヨ”は、丸く形どり、この4つの“ヨ”で“吉”を表しています。さらに、“田”を示す真ん中の十字を軸として、固い団結と限りない発展を表現しています。】HPより

静岡県営吉田公園は、2001年開催の「しずおか緑・花・祭」の会場跡地に整備された公園。

吉田公園にいたる花園橋の欄干には、美しくレリーフされた静岡県内・各自治体の花。

またカラーマンホールがある通りの街灯のレリーフは、「奴道中」で使われるお道具がモデル。 7月中旬の土、日、吉田町川尻に鎮座される「八幡津島」の夏祭り、きっと賑やかでしょうね。

吉田町PR部長の『よし吉』は、吉田町を流れる大井川の湧き水から誕生した水の妖精。特産品の「しらす」「うなぎ」「レタス」を身につけています。頭の帽子は小山城をデザインしました。

撮影日:2011年11月15日&2016年12月12日

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マンホールカード、頂きました

2020年12月17日、第13弾として全国50自治体で50種類(累計557自治体717種類)の マンホールカードの配布が開始されました。「吉田町」のマンホールカードは、「しらすのまどぐち」でいただけます。

1919年に設置開始されたマンホールには「よし吉」と「小山城」、「チューリップ」「富士山」がデザインされています。

「吉田町PR部長である「よし吉(きち)」に、「チューリップ」「展望台小山城」「富士山」を配したマンホール蓋です。 よし吉は特産の「しらす」「レタス」「うなぎ」のデザインを身に着けた水の妖精。 豊かな水に恵まれた吉田町は春には、小山城では美しい桜を、吉田公園では約10万本のチューリップを見ることができます。 小山城からは町内を一望でき、ふもとの小山城売店「しらすのまどぐち」では町内で水揚げされたしらすなどの特産品が購入可能。 富士山は小山城からも見えますが、町内には富士見幹線や富士見橋といった富士の名を冠する場所があり、多くの場所からその姿を楽しめます。」

 

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蓬莱(ほうらい)橋~其の二 in 静岡県島田市南町

2019年02月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

昨日に続いて、蓬莱橋のご利益スポット(縁起の良いスポット)の紹介は、仲良く寄り添う「愛和同祖神」。同祖神は外から来る魔・災いを防いでくれる守り神。 ここでは「旅人の安全を守る神」「男女愛和縁結びの神」「安産子供の守り神」と紹介されています。

縁起が良く、しかも長寿の代表とされる鶴。これは天に羽ばたく鶴を刻んだ「昇天鶴の像」。 ちなみに近くに「萬年亀」なる亀の像もあった筈なのですが・・・(^^;)

「高砂」は、目出度い場所によく使われるもので、関西では結婚式場や結納などでも登場します。 「尉と姥像」は【お前掃く(白)まで わしも九十九(熊手)まで 共に白髪の生ゆるまで】 私たちもそうありたいと願っています。ずっと昔から謡われてきたお目出度い言葉遊びですが、こういう日本人の感性って大好き。

「尉の松(黒松)」・・・はて?「姥の松」はあったかしら??

「蓬莱の島台」から時折聞こえてくる澄み切った音は、長寿を願って鳴らす「長寿の鐘」。 「蓬莱に 不死の仙薬無けれども 長生き橋(長い木橋)にあやかりて 長寿祈願の鐘一つ打つ」 お互いに健康で何時までも旅が楽しめるように・・・

「長寿の鐘」のすぐ側にあるのは、籠の中に保存された「貝群化石」。250万年前のものだとか。 どのような経緯をへてここにあるのか詳細は不明ですが、まさに太古の大井川の象徴です。

「蓬莱七福神散策道」、恵比寿様に大黒天、ここまではそんなに大変ではなかったのですが・・

蓬莱橋の対岸から「法林寺」までは約30分の道程で、道はまだ続いています。Jさんはすっかり歩きつかれて行きたくないと言うし、行ったらまた橋を渡って帰らなきゃいけないし・・ という事で、三分ばかりの協議の結果「蓬莱七福神巡り」はこの二神で終わり(笑)

さぁ、眼下に伸びる蓬莱橋が私たちを手招きしています。名残は惜しいけどまたいつかを期待して。

ほらほら、待ちくたびれたご亭主殿が「ど真ん中」で手招きをしていますよ。

蓬莱橋の近くで見つけた詩碑と文学碑。理論物理学者で歌人でもあった作者が蓬莱橋のほとりで晩涼のひとときを楽しんだときの詩です。

【 五百五十間の 長い木橋が ゆらゆらと揺れる… 】『石原純』

【春のみ山路】は、鎌倉時代中期から後期にかけての公家で、歌人でもあった『飛鳥井雅有』の文学碑。【 こえはてて  ゆひという所すぎて   又あまのしほや  五六ばかりなる所は こかげあり   とへがせぎさわとぞ云うなり   あまのすむ里おば  こがねとぞ申  うみすらを四里ばかりゆきて 神原という宿にとどまりぬ はるかにきかざりし浪の音  ただ枕の下にきこゆ 】

更新世の時代(180万年前から1万年前)よりも更に遠い、太古の時代から存在すると云う「大井川」。「太古の大井川玉石」と刻まれた石が実際にどれほどの時代を経てきたのか、私にはわかりません。 それでも石肌に触れて、悠久の時の流れに思いを馳せる事が出来るなら、ちょっと素敵ですね。

お気に入りの場所と言うのは、どれだけ時間を過ごしても、何度見直しても名残はつきません。 もう一枚、もう一箇所だけと言いながら、何枚同じようなアングルで写真を写したことか(笑)

「また来ようよ」というご亭主殿の声を合図に、半ばしぶしぶ(笑)車に。ラスト画像は「大井川 記念碑のイメージ」

渡り来た橋過去であり(蓬莱吉祥天女で厄払い)無病息災長寿を願い これから渡る未来への橋(八九七・四米 世界一長い木橋) 蓬莱とは不死の仙人が住む幻の霊山 不老不死千秋万世

訪問日:2011年11月14日&2016年12月12日

 

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蓬莱(ほうらい)橋~其の一 in 静岡県島田市南

2019年02月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

島田市南にある「蓬莱(ほうらい)橋」。世界一長い歩行者や自転車専用の木造の有料橋。 通行料金は一回あたり、自転車と中学生以上が100円、子供は10円でそれ以外は通行禁止。

大井川右岸、蓬莱橋の正面に見える緑の一画は、全国でも有数の茶園として知られる牧之原台地。 橋ができる前、大井川は小舟で渡るしかなく、行き来する為には、時に非常な危険を伴うこともありました。

そこで、島田宿の開墾人総代達は、時の静岡県令(現在の知事)に橋をかける願いを出しました。 これが許可され、明治12年(1879)1月13日に農業用の橋として「蓬莱橋」が完成。

しかし木製の蓬萊橋は増水のたびに被害を受けた為、昭和40年に橋脚部分をコンクリートに変更。 現在も茶農家が対岸の茶園を管理するために利用しており、農道としての重要な役割を担っています。

さて、冒頭で世界一長いと書きましたが、ではその長さは・・・何と「897.4m」もあり、1997年12月「世界一長い木造歩道橋」として、英国ギネス社から認定を受けました。

またその長さの語呂から「8(や)9(く)7(な)4(し)」=「厄無し」として厄払いのスポットに。 更に「長(なが)い木(き)の橋」=「長生きの橋」として、長寿のご利益スポットとしても知られるようになりました。そういった事もあってかどうか、橋の対岸には七福神像など、様々なご利益スポットが点在しています。

2011年に訪ねた折は、災害の影響で橋の中央までしか渡れず断念。そんなわけで無事に再訪を果たすことが出来た今回は、もうワクワクが止まりません。お天気は良いし、12月なのにそれほど寒くも無く、しかも空は青く澄んで気分は上々。

橋の中ほどまで来たところで、左手に富士山を発見!!そうか、ここから富士山が見えるんだ! 富士山の下に見えている長い橋は「島田大橋」、942.5mで、蓬莱橋より50mほど長いのです。

と、そんなことはどうでも良くて(笑)橋の端が怖いはずの私が、今回ばかりはと端っこににじり寄り・・。富士山大好きで、静岡・山梨方面への旅の第一目的は「富士山」と言い切る私には最高の展望。 たとえ一瞬でも苦手な橋の上という怖さを忘れさせてしまうなんて、富士山の威力ってホント、侮れない(笑)

橋の中ほどから振り返って見ると島田の市街が遠くに見え、改めて橋の長さに思いをはせて感嘆の吐息。 左右に見えるのは、川越当時が想像できないほど水量の少ない、広大な砂地を見せる大井川。

先を行くご亭主殿がしきりに足元を指差し手招きするので近づいてみたら、なんとここが橋の「ど真ん中」だって! 気がつかなかったら絶対にそのまま行き過ぎていたかも、細かい目配りのご亭主殿に感謝(笑)

ワイワイと賑やかに橋を渡り終え、早速ご利益スポットと呼ばれる場所の散策に繰り出します。 

足元には赤い実を付けた万年青と、万両の白実・・何かとっても縁起がよさそうで思わず顔がほころぶ(*^^*)。

御利益スポットの最初は「蓬莱吉祥天女像」。「蓬莱山」は不老不死の仙人が住むと云われた幻の山。

麗しい天女像に旅の無事と安全を願い・・少し足場は悪いけど、更に上に登ります。

「蓬莱の島台」と呼ばれる高台から見る蓬莱橋、こうしてみると結構沢山の人が行きかっています。

ご利益スポットの最初のご利益は、ここから見える富士山。ホント!何処から見ても富士山(笑)

橋を渡った先には、色々と話題になりそうな場所もありまだまだ紹介は終わりそうにありません。という事で、恒例の「続きはまた明日」・・・要するに何処も彼処も素敵すぎて、どれも端折れないのです(笑)

訪問日:2011年11月14日&2016年12月12日

 

コメント (2)
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