車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

三石町の覚書 in 岡山県旧三石町(備前市)

2021年11月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

旧和気郡三石町(みついしちょう)は岡山県南東部に位置した町です。和気郡備前町・日生町・吉永町、さらに県を跨いで兵庫県赤穂市、赤穂郡上郡町に隣接。山陽道沿い東端の船坂峠越で播磨国有年宿に、三石宿を経て方片上宿に向かってほぼ直進。村名は、福石・基石・守石という石があったことに由来。白蝋石土の採掘や耐火煉瓦で栄えた町で、市街地では今も耐火煉瓦の煙突を見る事が出来ます。

明治22年(1889)、町村制の施行により、和気郡三石村が発足。

1906年、三石村が町制を施行、和気郡三石町が発足。

1971年、和気郡備前町と合併、備前市三石となりました。

明治39年以降~自治体が消滅した昭和46年までの間に制定されていた町章は、三つの菱形を箱に組み合わせた形ですが詳細は不明。どんな形でも良いのでと地面に穴が開くほど探したマンホール関連の物も何一つ見つけることが出来ませんでした。

三石駅付近には地元産の煉瓦で築かれた明治期の古い「拱渠(こうきょ)」が数箇所残されており、「三石の煉瓦拱渠群」として、土木学会選奨土木遺産に認定されています。

金剛川を跨ぐ4連アーチの拱渠は、中央2連を金剛川が流れ、両脇は道路トンネルになっており、近くの神社参拝の往復の為に実際に車で通過しました。

訪問日:2010年8月12日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特別史跡・閑谷(しずたに)学校~其の二 in 岡山県備前市閑谷

2021年11月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

昨日に続いての閑谷学校、校地を出て右に行くと、『津田永忠』が閑谷学校守護の願いを込めて築いた椿山の門に至ります。特別史跡「椿山(つばきやま)」。参道の左右には守護の願いが込められた約400本近いヤブツバキが植えられています。

空気が変わった・・・そんな形容がこれほど相応しい場所はないでしょう。生い茂るツバキの枝は決して出しゃばらず、静かに影を落としています。そう言えば、研修の一環でここを訪れた時、担当講師の話しの中に「武士の世界では椿は嫌われていた。それは花が落ちるさまが首が落ちるようで不吉であるから。しかし、あえて潔さを求める為に池田藩ではこの木を植えた。だが本当の所は、種から取れる椿油が刀を磨く為に最適であったからだ」。それを聞いてもの凄く納得した事を思い出しました。

参道の奥には池田光政公の髪・爪・歯などを納めた供養塚「御納所」が、玉垣の奥、緑の褥の中で大切に祀られています。

お文庫の後方に見える人工の緑地は「火除山」。この西側に学舎や学房(寄宿舎)などがあり、そこからの出火が講堂などに及ばないようにするため、防火の目的でつくられた山です。

「火除山」を右手に見て先に進むと、明治三十八年(1905)に建てられた国登録有形文化財の「旧閑谷中学校」が見えてきます。

明治38年(1905)『江川三郎八』の設計によってに閑谷学校の学房跡地に建てられた「私立閑谷黌(しずたにこう)」

幾多の変遷を経て閑谷校舎は閉鎖され、昭和40年からは青少年教育施設として活用。1991年にセンターが移転した後は、「閑谷学校資料館」として活用されています。

館内の展示はいずれも興味深く、閑谷学校の歩んできた歴史などが仔細に紹介されています。ことに閑谷学校講堂の模型は、決して見ることの出来ない内部の構造などが俯瞰でき、かなりの時間を費やしてしまいました。

入り口近くに建立されていた『西薇山(にしびざん)』先生顕彰碑。薇山の教えを慕う教え子たちによって大正十四年に建立された碑文には、「西薇山(本名毅一)に組織された閑谷保黌会と、その中心となって閑谷学校の再興をはかり、同十七年教頭(翌年黌長)として家族とともに閑谷に移り住み、その半生を閑谷黌教育にささげた」旨が記されています。

特別史跡を巡るコースもいよいよ終盤。ここは、藩主の命を受けて閑谷学校を創建し、椿谷を築いた『津田永忠』の屋敷跡。と言っても、案内板がなければ何にも気づかずに通り過ぎてしまいそうです。

更に川沿いの細い道を進むと、初秋の残り少ない日差しの中に浮かび上がるように、文化十年(1813)に建てられた「黄葉亭」が、優雅な姿を表しました。

かって生徒から儒者、文人までが茶を楽しんだ憩いの場・・閑谷に来訪した『頼山陽』『管茶山』も、ここで茶を楽しみ酒を汲み交わしたと・・・資料は伝えています。

 

もと来た道を引き返し、もう一度閑谷学校の美しさを目に焼き付けて帰路につく事に。そういえばこの電話ボックス、国宝の講堂を模したデザインだったんですね。

かっては茅葺であった講堂の屋根が、閑谷窯で焼かれた窯変瓦に変えられたのは何時の事だったのでしょう。釉薬を使用しない瓦は、焼き具合によって1枚1枚色合いが異なるとか・・それは数百年の時を経ても変わる事無く鮮やかです。

帰路に立ち寄った「閑谷学校」の入り口にあたる特別史跡「石門」。閑谷学校の校門として、元禄10年(1987)に立てられたものです。今は3分の2が埋もれていますが、当時の門柱の高さは380cmであったとか。江戸時代には、ここから北が閑谷学校の校地であり、門の両側には柴垣が設けられていました。

「国宝の講堂をはじめ、聖廟や閑谷神社などほとんどの建造物が国の重要文化財に指定されている「閑谷学校」。寛文十年(1670)、岡山藩主池田光政は日本ではじめてとなる「庶民のための学校」を創建しました。その谷深き地の学校は閑谷学校と名付けられ、明治、大正、昭和とさまざまな分野で、現在の日本の歴史をかたち作る有能なリーダー達を輩出してきました。」閑谷学校公式HPより

訪問日:2006年9月30日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特別史跡・閑谷(しずたに)学校~其の一 in 岡山県備前市閑谷

2021年11月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

備前市閑谷にある「特別史跡:閑谷(しずたに)学校」。江戸時代前期、岡山藩によって設けられた藩士の為の「岡山学校」に続き、庶民の為の教育施設とするべく、約30年の歳月を費やし、元禄14年(1701)に完成しました。

紹介するほぼ全ての画像が、国宝・もしくは重要な文化財として登録されている「閑谷学校」。まずは、芝の手前に広がる長方形の「泮池(はんち)」に架かる「石橋」。橋の上で立ち止まると色とりどりの鯉が餌を求めてやってきます。

学校全体を取り囲むのは元禄十四年(1701)に完成した、総長765mにも及ぶ「石塀」。「切り込み接ぎ式」の工法により、ゆるやかな曲線を見せる石塀は『河内屋治兵衛』を棟梁とする石工集団によって築かれました。

石橋を渡りきった先に見える荘厳な佇まいの門は、聖廟の正門として貞享三年(1686)に造営された「校門」。両脇に花頭窓のある付属屋など、中国の建築様式を模した作りとなっており、中国最古の詩集である「詩経」の中の詩に因んで「鶴鳴門」とも呼ばれます。

左右を「楷(かい)の木」に守られるように延びる石段参道。その突き当たりに儒学の祖、孔子を祀る「聖廟(せいびょう)」。孔子廟、西御堂とも呼ばれ、最も重要な施設として中央の一番高い所に配されています。

秋が深まると共に見事な紅葉を見せる「楷の木」。中国山東省曲阜の孔林から種子を持ち帰り、苗より育てられた内の2本だとか。初秋の時期ではこの程度ですが、季節になれば言葉に出来ないほど見事なコントラストが一帯を染め上げます。

「聖廟」の向かって右手には「閑谷神社」の神門があり、正面から真っ直ぐに石段、拝殿、幣殿へと続きます。幣殿の先には閑谷学校の創始者である『池田光政公』が祀られる「閑谷神社」本殿が鎮座されます。

かっては「東御堂」、または光政公の謚をとって「芳烈祠」とも呼ばれていた社殿。その本殿内には御神体として光政公の座像が安置されているそうです。

閑谷学校を代表する建築物で「学問の殿堂」とも称される「国宝:講堂」。入母屋造り、しころ葺きの大屋根と火灯窓が壮重な独特の外観を形作っており、圧倒的な存在感をはなっています。創建当時は「茅葺き」でしたが、その後改築され現在の「閑谷焼瓦」に葺き替えられました。

講堂内部は十本の欅の丸柱で支えた内室と、その四方を囲む入側とで構成。拭き漆の床は生徒たちによってよく磨かれており、火灯窓から入る光をやわらかく反射させています。

その昔、私もこの講堂で、社会人となるための心構えを学ぶ為に社員研修を受けた事があります。備前地方の学校に籍を置いた学生なら、おそらく殆どの人が同じ体験をしたのではないでしょうか。

講堂に隣接する「小斎(しょうさい)」は、藩主が臨学の際に使用する「御成の間」。屋根はこけら葺きで簡素な数寄屋風に作られており、現存する建造物の中では、最も古い姿を残しています。

左手前に見える建物は「習芸斎(しゅうげいさい)」。毎月三と八の付く日は「五経(詩・書・礼・易・春秋)」「小学」、朔日(ついたち)には、農民も聴講することができる「朱文公学規(朱子学の基本の規約)」の講釈が行われました。

「飲室(いんしつ)」は教師と生徒たちが、湯茶を喫した休憩室。中央の炉炉端には「斯爐中炭火之外不許薪火」と彫り込まれ、火の使用に厳重な注意がはらわれていました。

「飲室門(いんしつもん)」は、日通いの生徒や、毎月朔日(ついたち)の朱文公学規講釈に出席する聴講者が出入りする通用門として使われていました。

「文庫(ぶんこ)」は閑谷学校の教科書・参考書をおさめた書庫で、中央の階段を上がった左右の床に八千点余が所蔵されていました。漆喰塗で固めた上を瓦葺きにした置屋根式で、前室には三重の土の戸を含む六層の戸が設けられています。

「黒字」で書いた建造物は全て国宝・重要文化財という「閑谷学校」。まだまだ紹介は終わりません。続きは「特別史跡・閑谷学校~其の二」で。

訪問日:2006年9月30日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール in 岡山県旧吉永町(備前市)

2021年11月17日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

旧和気郡吉永町(よしながちょう)は岡山県の南東部に位置した町です。備前市、和気郡和気町、英田郡作東町・英田町に、また県を跨いで兵庫県赤穂郡上郡町、佐用郡上月町に隣接。町の中央部を八塔寺川が北から南に貫流。町の南部を東から西へ金剛川が流れ、町の南西部で八塔寺川と合流。合流地付近が町の中心であり小盆地を形成していますが大半は山林。八塔寺川には、昭和51年の台風による災害を契機として建設された多目的ダム「八塔寺川ダム」があり、近隣はダム公園として整備されています。「町の木:ヒノキ」「町の花:ウメ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、和気郡英保村・神根村・三国村が発足。

1948年、英保村が町制を施行、和気郡英保町が発足。

1948年、英保町が吉永町に改称、和気郡吉永町となります。

1954年、吉永町、神根村、三国村が合併、新たに和気郡吉永町が発足。

2005年、備前市、和気郡日生町との対等合併により備前市吉永町となりました。

マンホールには「八塔寺川を飛び交うホタル」「町の木:檜」「町の花:梅」がデザインされています。

2017年11月18日開催の、倉敷マンホールサミット:展示マンホール。

昭和40年10月1日制定の町章はひらがなの「よ」を3つ組み合わせて図案化したものです。中央の円形は町民の団結と円満を意味し、三方向に突き出した三角形は八塔寺山、竜泉山、敦土山を中心として四方に連なる広大な山林をあらわしています。また3つの小円は3カ町村合併による本町の生い立ちを意味しています。全体を亀の形にあらわしているのは、旧岡山藩池田家歴代の墓所に用いられている巨大な亀石にヒントを得て何事もあせらず、着実な歩みを続ける町民のねばり強さを象徴しています。」合併協議会資料より

吉永町加賀美の地に神亀5年『弓削道鏡』が開基したと伝えられる「照鏡山:八塔寺」。山岳仏教の聖地として栄え、盛時には72もの僧坊があったと伝えられています。

標高400mの高原に開ける「八塔寺の村」。昭和49年に県下で初めて、山上全体が「八塔寺ふるさと村」として登録、保存・整備が行われています。(上記二枚の画像提供:義姉)

八塔寺川ダムカード

撮影日:2013年7月22日&2017年11月17日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高良(こうら)八幡宮・金刀比羅宮 in 岡山県備前市日生町

2021年11月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

備前市日生町日生に鎮座される「高良(こうら)八幡宮」。御祭神は『八幡神』「金刀比羅宮」。御祭神は『大物主神』

創建由緒等は不詳。延宝二年八月の再建と伝えられます。海の神を祀る神社として信仰を集め、航海安全や豊漁祈願に多くの人が訪れます。

〆鳥居の先、石段の左右より神域を守護されるのは備前宮獅子一対。つるんとしたおでこが愛嬌を倍増させており、見る側を笑顔にさせます。

拝殿には両の御祭神の拝殿額が仲良く並んで架けられており、拝殿の奥深くに見える御本殿に鎮まっておられます。

懸魚の彫刻は「松に鷹」、松は末代までの子孫繁栄、鷹は好機を逃さず掴み取る意味が込められており、非常に縁起の良い構図とされています。

向背には「竹林の虎」、竹笹の中に潜み機会を伺い好機を待つ姿は、鏝絵や寺社の彫刻などに非常に多く見られます。

境内の一画には「稲荷社」「常陸(ひだち神社」が仲良く並んで鎮座されています。

参拝を終えた私たちは、来た道とは逆の方向から神社を後にしました。生い茂る木々が真夏の太陽を遮り、わずかに潮の香りを含んだ微風を運んでくれます。

「県指定郷土記念物:高良八幡宮の社叢」は、日生港の東岸に突出した岬にある高良八幡神社をとりまく樹林で、ウバメガシを主にヤブツバキ、シャシャンボ、カナメモチ、ネジキ、ヒサカキ、クチナシ等が混生し、瀬戸内海沿岸の自然植生の一部をよく表わしています。樹高15m、胸高直径40cmに及ぶウバメガシも見られ、典型的なウバメガシ林として貴重なものです。」岡山県環境文化部自然環境課HPより

参拝日:2010年8月9日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール in 岡山県旧日生町(備前市)

2021年11月15日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

旧和気郡日生町(ひなせちょう)は岡山県の東南端に位置した町です。備前市、また県を跨いで兵庫県赤穂市に隣接。町域は瀬戸内海に面し、県内最大の鹿久居島・大多府(おおたぶ)島・頭島などの日生諸島へは、日生港からフェリーが出航。主産業は漁業で、近年ではカキ・ハマチの養殖が行われ、漁港で開催される「五味の市」は県内外からの客で賑わいます。相対的に平地は少なく山林で占められており、耐火煉瓦工場が多い事でも知られています。「町の木:ヤマモモ」「町の花:ヤマツツジ」「町の鳥:アオサギ」「町の魚:シャコ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、和気郡日生村・福河村が発足。

1906年、日生村が町制を施行、和気郡日生町が発足。

1955年、日生町、福河村が合併、新たに和気郡日生町が発足。

2005年、備前市、和気郡吉永町との対等合併により備前市日生町となりました。

マンホールには、本土と大小13の島々からなる日生諸島の地図。上には旧日生町章。漁業の町らしく大漁旗に蛸、チヌ、湊に立つ住吉灯台やヨットなどがデザインされています。

昭和47年4月1日制定の町章は「中央は波間から力強く昇る日輪で(日生町の町勢)を表し、右の波は男波、左の波は女波を表し、町の躍進を右の男波で、協調を左の女波で表現しています。」合併協議会資料より

日生駅前から庁舎へと続くタイル歩道の上には、日生町の名産品などがデザインされたタイル画が嵌め込まれています。カキ養殖が盛んで「カキオコ(牡蠣入りのおこのみやき)」で町おこしを行っている町らしい「カキ」と「桜」。

「鹿が多い(=久しく居る)」ことから鹿久居と名づけられた「鹿久居島」。今も、野生のシカが鹿久居島から頭島への橋を渡る姿が目撃されています。

日生本土や日生諸島での「観光みかん狩り」も有名、季節には多くの人が訪れます。

漁業を主産業とする日生町。大人の掌を広げたくらいの「カレイ」は、煮付けにするととても美味しいのです。

「町の魚・シャコ」。実は私の数少ない大好物の一つなのですが、最近は滅多に水揚げされなくなったらしく、市場でも売られていないと義姉が嘆いておりました。

撮影日:2008年8月17日&2015年12月29日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畠田(はたけだ)天神宮 in 岡山県備前市畠田

2021年11月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

備前市畠田に鎮座される「天神宮」。通称「畠田(はたけだ)天神宮」とも称します。御祭神は『菅原神』

由緒「創建年代不詳 江戸末期建立の本殿・拝殿・随身門が整備され 現在も祷屋を定めて祭祀が厳修され、氏子の崇敬が篤い。」岡山神社庁HPより

鳥居の内より神域を守護されるのは、比較的新しい奉納と思われる備前宮獅子一対。渋い鉄さび色の体に、少し猫背気味の独特の体系は、従来の宮獅子さんとは一線を画した出来栄え。

神門をくぐり随身門へ・・・決して平坦とはいえない神域によくもこれだけの建造物を建立されたものと、その一つ一つに感嘆のため息。

神門の後より神域を守護されるのは、明治38年(1905)10月建立の浪速狛犬さん一対。お皿を乗せたような頭に、丸くて小さい目・・たとえて言うなら「・・・河童さん!」😅

神門の奥には江戸末期建立の随身門があり、内には何とものんびりとしたお顔の随身様が神域を守護されています。こんなお顔の人・・普通にいませんか😊

随身門の彫刻があまりにも見事で、ついつい時間を忘れてデジカメ三昧。場所的に上にあるので、首が痛い・・ 向背の波間の龍、逆巻く波の繊細さに龍の力強さが加わって、目を惹き付けて止みません。

随身門の後ろには本殿と同じく江戸末期建立の拝殿が続き、その向背の部分にも素晴らしい彫刻・・ですが、これは何でしょう? 

こうして見るとかくれんぼを楽しむ子犬みたいですが、流石にそれは無いので、多分「虎」かも・・くっきりと光る目は嵌め込まれた玉のせいです。

さらに貫には猛虎と獅子ですが、この虎さん、どうやら竹を咥えているようです。残念な事に目に嵌め込まれた玉が失われているのですが、でもその所為でまるでウインクをしているよう。

こちらは社日碑ですが、この一帯では「地神さん」と呼ばれています。五角形の「心石」には、五神が彫り込まれており、その神名の配置は、農業神の天照大神・五穀護神の大己貴命・五穀祖神の少彦名命・土御祖神の埴安姫命・五穀祖神の倉稲魂命で、「天照大神」の面が必ず北を向くように配されます。

山肌をくりぬいた室に納められた小さなお社、祀られている神の名は不明です。

最後に、神門の屋根にいた福の神さま。寿老人と布袋さまでしょうか。反対側には大黒さまと恵比寿さまがいらしたのですが、どちらも頭部が失われていました。体部分が素晴らしい細工瓦だっただけに残念です。

参拝日:2010年5月7日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩長姫(いわながひめ)神社 in 岡山県備前市香登

2021年11月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

備前市香登西に鎮座される「岩長姫(いわながひめ)神社」。御祭神は『磐長(いわなが)姫』。岩の神・寿命長久の神とされます。

由来沿革:創建年代不詳。「寛和二年再興。元大将と奉称したが、明治二年三月管許を得て、石長姫神社と改称した。」

真っ直ぐに延びた参道の先、社門前より神域を守護されるのは、明治36年(1903)9月吉日建立の浪花狛犬さん一対。

「顔の美醜だけで妻を決めるなんて、何て愚かなニニギノミコト・・」「絶世の美女と岩のような顔の姉妹だからね~。まぁそれが男の性というもんさ」・・・そんな会話が聞こえてきそうな、小さな境内の静かな昼下がり。

随身門内に随身さんがおいでだったのかどうか・・・残念ながら確認が出来ていません。

唐破風の拝殿、屋根には是でもかと言うくらいに「岩」の文字が刻まれています😅

向背の彫刻はかなり写実的な波間の龍。投げ出した足がだらりと見えているのがひと味違う。

境内にはいくつかの摂社:末社がありましたが画像に残した物は本殿の脇近くにあった「勾玉の木」「社日塔」のみ。

社日塔は、地神さま・地神碑・五角柱とも称されるもので、天照皇太神・少彦名命・大己貴命・埴安媛命・倉稲魂の神名が刻まれており、いかなる場所においても「天照皇太神」を「北」向きに鎮座させる事とされています。

参拝日:2010年5月7日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

香登一里塚と大内神社~境内社:稲荷神社 in 備前市

2021年11月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

香登大内集落に鎮座される「大内神社」の傍に、市指定文化財の「香登一里塚」があります。かっては街道の南北に一対であったものですが、南塚は跡形も無く、今は石積みの北塚だけが残されています。

大内神社~境内社:稲荷神社は、神門をくぐった先の向かって左手に鎮座されています。

境内社ゆえか、岡山神社庁のHPにも詳細は無く、由緒とうの詳細は一切ありません。が、御祭神は『宇迦之御魂(うかのみたまの)大神』と言うことで間違いないと思われます。

稲荷と言えば「宝珠」が普通と思っていたのですが、こちらの屋根には「笹紋」が使われています。もしかしたら社を建立された方の家紋か何かでしょうか?

唐破風の拝殿、向背彫刻は荒れ狂う波間から身を乗り出す玄武。

本殿の左右より神域を守護されるのは備前神狐一対。阿形さんは明治19年(1886)に伊部村の『森寛行』氏、吽形さんは年代不詳ですが『木村龍平』氏によって建立。

本殿西後ろに鎮座されていた阿形のみの神狐さん。明治5年(1872)『児嶋貞作義徳』氏によって建立されました。

他にも小さな神狐さんが岩の隙間に肩を寄せ合うように置かれていましたが、その大半は体に欠損があり、何とも痛ましく思えます。

境内の左手に並ぶように建立されているのは「征露凱旋記念碑」と、自然石「天下泰平」と刻まれた碑。この地から出征された方々の命の証しが残されています。

参拝を終え、漆喰壁と本瓦で作られた参道をさらに上に登っていくと、市街が見渡せる場所に出ます。

眼下には元禄16年(1703)建立の大内神社の本殿があり、右手には稲荷神社の拝殿の屋根も見えます。見渡す先に見えるのは、山陽新幹線と香登の市街。おだやかな五月の風が心地よく頬を掠めてゆきます。

参拝日:2010年5月7日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大内神社 in 岡山県備前市香登

2021年11月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

備前市香登本に鎮座される「大内神社」。御祭神は『大山祇神・木花佐久夜姫神・大市比売神・大香山戸臣(おほかぐやまとおみのかみ)』

由緒「創建年代不詳。大宝年中香登臣秦大兄が修繕をしたと社記にあるので、千二百五十年以前の創建であろう。備前国内神名帳に、正二位大内神社、その他の神名帳に、従二位大内大明神、四社大明神、春日四社大明神、大内神社等とある。明治二年官許を得て名称を大内神社と定めた。明治五年、郷社に列した。大正十年十月に神饌幣帛料供進神社に指定せられた。」岡山神社庁HPより

旧山陽道沿いに面して立つ鳥居を潜り、白壁に囲まれた神門より境内に入ると、正面に社殿へと至る参道が見えます。その参道両脇より神域を守護されるのは明治29年(1896)丙申10月建立の狛犬さん一対。猫足の台座の上、石材の角を顔に持ってきたスタイル、何ともユーモラスでユニークなお顔は、岡山県内ではあまり目にしません。『石工・岡田豊吉』の銘は、おそらく地元の方では・・と思われます。

参道途中に建つ随身門。奥には拝殿へと至る石段が真っ直ぐに見えています。

随身門の内、左右より神域を守護される左大臣・右大臣。「こういう顔の人、知ってる!」と思わず二度見させるほど、写実的なお顔をされています。

広く真っ直ぐの石段、石垣の上に設けられた白壁に守られれるように建つ拝殿。清掃の行き届いた美しい境内。空気が綺麗に澄んでいく感覚に思わず深呼吸。

石段の両脇に祀られる境内社、向かって右手には「大酒神社」・「牛神社」。また、画像には有りませんが左手には「虫除神社」が鎮座されています。

三方を吹き抜けとし幣殿から本殿へと続く唐破風の拝殿。その中央に施されている「小槌・絵巻・神名帳」等々の縁起物の彫刻。問題は中央に見える丸いもの。

皿状の丸の中にはアルファベットのよう彫刻が・・・。気になって色々調べた結果「備前市文化協会『創立 25 周年記念誌わがまちの文化遺産』に、「拝殿の向拝、唐破風は、古代文字を彫刻した兎の毛通しを付けている。」がヒットしました。「兎(う)の毛通し 」とは、唐破風の中央につく「懸魚」の事で、通常のものより平たいと説明されています。またご亭主殿が調べてくれたものに「日文(ひふみ)四十七音」がヒットしました。それでいけばこの記号は「オオウチノヤシロ」となります。

向背の彫刻は「夫婦岩」でしょうか?左右に屹立する大岩は注連縄のようなもので結ばれており、荒れ狂う波が岩の間に見えます。

社殿左側に祀られる境内社「荒神社」「稲荷神社」「須賀神社」。並ぶと微妙に左から右にお社が小さくなっているのがちょっと気にかかる・・

境内社三社に至る石段の上より神域を守護されるのは、明治40年(1907)建立の何ともユニークで素朴な顔立ちの狛犬さん一対。特に吽形さんのお顔は、さっきまで境内で遊んでいたお子様にそっくり😄

社殿右側に祀られる「境内社:八幡宮」。こちらは他の境内社とは比較にならない大きさの社殿です。

大内神社境内には、先の随身門と並ぶように「境内社:稲荷社」が鎮座されています。その紹介はまた明日に・・・

参拝日:2010年5月7日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする