車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

塩谷天神宮 in 岡山県備前市片上

2021年11月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

備前市東片上に鎮座される「塩谷天神宮」。境内にも岡山神社庁HPにも記載がない為、御祭神等の詳細は不明ですが、基本的には『菅原道真公』と思われます。

境内入口、玉垣の内より神域を守護されるのは備前宮獅子一対。どのような事情があったのか不明ですが、阿形さんの体には大きく破損した傷があります。それでも丁寧に補修が成されているのを見ると、何故かホッとします。

さらに拝殿前には、つい最近奉納されたばかりと思われる真新しい備前宮獅子さん一対が、立派な台座の上から神域を守護されています。

吽形さんの頑丈そうな角と不思議な耳の形、阿形さんの苦虫を噛み潰したようなしかめっ面等々、いずれも非常に個性的でいらっしゃいます。

拝殿の左右には稲荷社と小社が鎮座されていましたが、御本殿同様、画像に残し忘れています。国道二号線に面した位置にあって、駐車スペースが無かった事が原因。 代わりと言うのは失礼なのですが、拝殿屋根の鬼につけられた「打ち出の小槌」・・天神宮なのに何故か大黒様の小槌😅

参拝日:2010年8月12日

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宇佐八幡宮 in 岡山県備前市片上

2021年11月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

備前市西片上に鎮座される「宇佐八幡宮」。御祭神は『仲哀天皇・応神天皇・神功皇后』

由緒「旧村社で、延元元年(1336)の創建足利尊氏が九州多々良浜合戦の時大勝し九州制覇できたのは、豊前の宇佐八幡宮に参詣し、武運長久を祈願したおかげだと、宇佐八幡宮を勧請し足利の守護神にしようとした。京都への東上の途中大時化に遭い潟神村(現備前市片上)の富田松山に祀ることとし、その後応永元年(1394)に和鹿林の山頂に遷座し、更に正保3年(1646)現在地に遷座された。」岡山神社庁HPより

無数の傷みに耐えつつ、玉垣に守られて神域を守護されるのは、文政九丙戌年(1826) 九月吉日建立の備前宮獅子一対。阿形さんには「 備前 釜元 森五兵衛尉 正統」、吽形さんには. 「伊部細工人 服部章兵尚芳 森五兵衛尉 正統」と刻まれています。

名工と謳われた『森五兵衛尉 正統』によって生み出された、胴回り約2、5メートル・高さ1、4メートルの宮獅子。備前焼としては県下有数の大きさであり、備前市の指定文化財とされています。

石段参道の左手に奉納されている「開運蔵」。案内には「延元一年・建武三年(91336)九州多々良浜において菊地・阿蘇軍との合戦の際、足利尊氏は宇佐八幡宮に武運を祈願し大勝を得る事ができたので、海路の東上の途、片上に祠を建てて宇佐八幡宮を祀った。その際、鞍も同時に奉納された事に由来し開運鞍を地元有志で奉納した。」

かなり急な長い石段を登った先に「随神門」、その奥に五三の桐紋が染め抜かれた拝殿幕が見えてきました。

拝殿の目貫に施されているのは迫力満点の龍の彫刻。幕の内にあって薄暗さも手伝っているのか、さらに凄みを増して見えます。

鎮守の森に抱かれて鎮座される御本殿。その塀脇より神域を守護されるのは明治13年(1880)建立の備前宮獅子さん一対。阿形さんの迫力は、先の拝殿目貫の龍でも勝てそうに有りません。

実は本殿縁側にも小さいながらも凛々しい神殿狛犬さんが神域を守護されています。でも私達の立ち位置からではその姿をきちんと捉える事はできませんでした。それでもその姿が健気に見えたので、あえて紹介してみました。

緑深い鎮守の杜から見る片上の市街地、正面に見えるのは「その昔、農家の人たちが、長い事日照りが続き農作物の被害が出たとき、この山頂で千貫焚と言って沢山の焚火をしました。煙はたちまち天に届き、大夕立が降ってきたと言い伝えられており、「夕立受山」と言う珍しい名前が付けられています。」岡山観光WEBより

参拝日:2010年5月7日

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恵美須宮 in 岡山県備前市片上

2021年11月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

備前市西片上に鎮座される「恵美須宮」。御祭神は『八重事代主命(恵比須の大神)』。七福神の内では唯一、日本古来の福の神とされ、古くから漁業の神として親しまれて来ました。

由緒「本神社の創建年代は不詳であるが、始め西片上に鎮座していたのを現在の地に奉遷したらしい。かっては福徳の神、海上安全、大漁祈願の人々が多く中国、四国、遠くは大阪方面からも参拝者があった。本神社は内座長浜にあって、南面は海に臨んでいたが、片上鉄道の開通により神社の風格を害し、危険であるため、昭和八年現在の地に移転した。」岡山神社庁HPより

石段参道の上、境内の両脇より神域を守護されるのは、備前伊部陶『森 良明』氏によって明治25年(1892)に建立された、備前宮獅子一対。堂々とした風格は見るものを「さすが!」と唸らせます。

拝殿から続く本殿は場所的なものもあって画像に捕らえることができません。

唐破風目貫の彫刻は画像が鮮明でない為見辛いですが「波間に泳ぐ鯛」。恵比寿様と言えば小脇に抱えた鯛はテッパン!最重要のアイテムです。

と言うわけで、屋根の上にも波間を跳ねる鯛の飾瓦。こういう拘り・・大好きです😄  

参拝を終えて振り返った鳥居の先、穏やかな片上湾が眼下に広がっています。

参拝日:2010年5月7日

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備前焼の神獣~其の二 in 岡山県備前天津神社

2021年11月07日 08時00分00秒 | 日本の伝統・芸能・技の美

昨日に引き続いての「天津神社」の奉納神獣たち、まずは干支では七番目の「午(うま)」から。神社に奉納される「神馬(しんめ)」は、神が騎乗する馬の事ですが、これは「瓢箪から駒」の構図。意外な所から思いもよらないものが飛び出すことの例えです。

干支では八番目の「未(ひつじ)」『多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)』をご祭神とする神社では、ご祭神の名から「羊」を神使いとするケースが見られます。

干支では九番目の「申(さる)」『山の神:大山咋神=山王様』と、古来より山の守り神とされた「猿」。ということで「猿」は山王神社の神使いとして広く知れ渡っています。

干支では十番目の「酉(とり)」。古来より夜明けを告げ、光をもたらすものとして存在した「鶏」。伊勢神宮系の神社では「鶏」が神使いとされています。

干支では十一番目の「戌(いぬ)」。犬はお産が軽く、一度にたくさんの子犬を産むことから、昔から安産の象徴とされてきました。安産の願いを籠めて、「戌」の日に腹帯を巻く風習が今も残されています。

干支では十二番目の「亥(いのしし)」。仏教では、その背に「摩利支天(まりしてん)」を載せた姿で現されます。また和気清麻呂を窮地から救った事から、清麻呂公の神使い・狛猪として登場します。

干支に使われる神獣に焦点をしぼっての紹介でしたが、境内には本当に沢山の焼き物が奉納されています。それらを見て歩くのもまた一興。

お気に入りの焼き物が見つかったら、市内散策の道すがらに現れるギャラリーに立ち寄って、あなたの大切なお気に入りを探してみてください。

参拝日:2006年9月30日&2010年3月4日

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備前焼の神獣~其の一 in 岡山県備前天津神社

2021年11月06日 08時00分00秒 | 日本の伝統・芸能・技の美

備前焼の里の氏神様として知られる「天津神社」。参道・境内のあらゆる場所に、備前焼窯元作家らによって生み出された神獣たちが奉納されています。

ちなみに神社の神獣といえば「獅子・狛犬」もしくは「神狐」が一般的ですが、祭神によっては、さらに多くの生き物が神獣として登場します。たとえば神門の屋根にいる「鯱(しゃち)」。姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげがあります。火事の際には口から水を噴き出して火を消すと言われ、防火の呪いとして、また水難を防ぐ神獣として使われています。

また、天津神社には沢山の干支の焼き物が奉納されています。そこで干支の順に、関わりのある御祭神などの紹介をしたいと思います。干支のトップバッターは「子(ネズミ)」。本来は収穫した作物などを食い荒らす害獣なのですが・・何故か、大黒天の俵とセットになって見かけます。これは「大黒天」が北方の神であり、北方とは、すなわち「子(鼠)」の方向である事が理由のようです。

干支では二番目の「丑(うし)」「天神様」の神使いであり、また撫で牛として、境内には無くてはならない存在です。

無くてはならない存在ですが・・・流石にここまで来ると😅 一見、枯葉か玉石かと見間違いそうですが実はこれ全部!撫で牛様なのです。大小様々な撫で牛さんが、ギッチリと奉納されていました。

干支では三番目の「寅(とら)」「毘沙門天」を祀る「信貴山朝護孫子寺」の縁起に、「聖徳太子が、朝敵:物部守屋討伐のために戦勝祈願をすると、天空遙かに毘沙門天が出現し、必勝の秘法を授けてくれた。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻であった。」とあり、境内には沢山の虎が奉納されています。

ちなみに、「丑寅(うしとら)=北東」の方角は良くないと、耳にした事はありませんか? 陰陽道 ではこの方角を「鬼門 (きもん) 」とし、現在でも家屋の水回りや玄関は、鬼門を避けて建築されます。「境内社:丑寅神社」は、天津神社境内の北東(丑寅)に「鬼門除け」として鎮座されています。

干支では四番目の「卯(うさぎ)」。古事記の中で「大国主命」と「八上姫」との婚姻を取り持ったことから、「大国主命」が祀られる神社の神獣となりました。

干支では五番目の「辰(たつ)」。いわゆる「水神・海神」としての性格をあわせもち、五穀豊穣や、雨乞いなどの際には、「龍神」として登場します。

干支では六番目の「巳(み)」。日本神話に登場する「大物主大神」の化身とされ、また蛇神信仰の御神体「道通様」として祀られています。

長くなりましたので、続きは明日の「備前焼の神獣~2~in備前天津神社」で。

参拝日:2006年9月30日&2010年3月4日

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天津(あまつ)神社~其の二 in 岡山県備前市伊部

2021年11月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

昨日に続いての「天津神社」。まずは「末社:忌部(いんべ)稲荷」。見目の良い神狐様がお社の左右より神域を守護されています。

「神武天皇」をご祭神とする末社。社殿前には兎と龍が奉納されていますが、特に神使いと言う訳ではなさそう。

〆柱に守られた「末社・寅神社」。左右からは牛と寅が守護を担当されています。

社号も由来も台座も、全て備前焼で作られた「七福神」。ここまでくるともう備前焼ミュージアム。

十二支を侍らせているのは、安産守護の「子宝犬」。その右手には「地神様(神心石)」。「天照大神」と刻まれた「地神様」は石で作られるものですが、ここではそれも備前焼で作られています。

次から次へと、姿を現すで備前焼の神獣たち。一抱えも有りそうなものから、手の中に隠れてしまいそうな小さなものまで、そのどれもこれもが逸品と呼ぶにふさわしいものばかりなのです。

参道の壁には備前焼の角陶印陶板が飾られており、どれ一つとして同じものはありません。

多くは陶芸作家の方の名刺代わりのような陶板ですが、こんな獅子の陶板もあったりします。

「境外摂社・稲荷社」。奥まで行くには時間が足りなく、鳥居の前からの参拝。

鳥居前、左右より神域を守護されるのはまだ奉納されて間もないと思える備前構え宮獅子。神門の後ろに奉納されていた新しい方の宮獅子さんと同じ作者のように思えます。

最初の参拝から4年の歳月を経ての二度の参拝。何を見ても新鮮で、何を見ても感嘆してしまった数時間。はたして三度目の参拝があるのかどうか・・でもきっとその時には又新しい発見がある事でしょう。

参拝日:2006年9月30日&2010年3月4日

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天津(あまつ)神社~其の一 in 岡山県備前市伊部

2021年11月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

備前市伊部に鎮座される「天津(あまつ)神社」。御祭神は『少彦名命・菅原道真・天太玉命・大巳貴命』。「いんべ天神東宮」とも称されます。

「当社の由緒等は不明であるが、創建は古老の口碑によると応永18年(1411)である。 当初、少彦名命を祀り、後に昔から伊部、浦伊部は菅原氏の荘園であった関係により菅原道真公を配祀した。 社殿は当初、浦伊部宮前に建立されていたが、伊部に疫病が流行した時、当時の伊部村名主に神託があり、天正7年(1570)、現今の地に遷座すると疫病は平癒した。 伊部村民は氏神と崇敬し病気平癒、学問の神、産業陶器の神として神徳あらたかとなっている。本殿は延宝6年(1678)の建築で、市指定文化財である。」岡山神社庁HPより

境内一の鳥居前より神域を守護されるのは、万延2年(1861)3月吉日建立の備前宮獅子一対。江戸時代に奉納されたにも拘らず傷もなく美しい姿で参拝者を出迎えてくれます。

参道石段の先には、扉以外はすべて備前焼で作られた神門が出迎えてくれます。大屋根の左右には、尾を天に突き上げて睨みあう火難除けの「鯱」。独特の赤茶色は、釉薬を一切使わず「酸化焔焼成」によって堅く締められた為に出来上がる色。「窯変」によって生み出され、一つとして同じ模様にはならないのも魅力であり特徴と言えます。

さらに神門の後には、それぞれに別の作者によって奉納されたと思われる宮獅子さんが一対。

強く美しいものの代表とされる「唐獅子牡丹」。獅子が咥えた牡丹は、背中一杯に大輪の花を咲かせています。

かってこの随身門内の左右には随身様がいたのでしょうか?これほどの空間に何も無いのは不思議でも有り、とても寂しく思えます。

随身門をくぐりさらに石段の参道を登って、やっと割拝殿までやってきました。流石に息が上がり、足がガクガク😅

が・・・そんな疲れも拝殿内に入った途端に吹き飛んでしまいました。見てください!この何とも贅沢な備前焼タイルで敷き詰められた床。

拝殿内には、明治三十五年五月に奉納された大絵馬。大作なのですが題材が分からないので今一つ消化不足。

拝殿内で販売されていた「獅子頭」。かなり心惹かれましたが、お一つ1500円は・・・主婦にはちょっとばかり痛い出費😓 備前焼の十二支を揃えたばかりなので・・自粛😔

参拝を終えた後は境内の散策、もちろん境内社への参拝も忘れてはいけません。ということで、続きは明日の「天津神社~2~in備前市」で。

参拝日:2006年9月30日&2010年3月4日

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ご当地マンホール in 岡山県備前市&旧備前市

2021年11月03日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

備前市(びぜんし)は岡山県の南東部に位置する市です。2005年3月22日に(旧)備前市、和気郡日生町、吉永町が合併し、新たに備前市となりました。岡山市、瀬戸内市、赤磐市、美作市、和気郡和気町に。さらに県を跨いで兵庫県赤穂市、赤穂郡上郡町、佐用郡佐用町、海上で姫路市家島。更に海上で香川県郡小豆小豆島町、土庄町に隣接。瀬戸内海に面した市域は海岸線が入り組んでおり瀬戸内海国立公園の一部を成し、また、市の中心地・片上地区に片上湾が入り込んでいます。日生地区には島嶼が点在。全体的に平坦な場所が少なく丘陵地帯を成し、市全体の8割ほどを山林が占め、北東部の吉永地区は標高300~500mの高原地帯にあり、市の南西端が岡山平野の最東端に当たり僅かに平野が開けます。日本六古窯の一つ「備前焼」と、耐火煉瓦・漁業の町として知られています。「市の木:カイノキ」「市の花:サツキ」「市の魚:サワラ」を制定。

キャッチフレーズはと みどりと のまち」

2005年6月16日制定の市章は「「びぜん」の頭文字、「び」を海の青と、山林の緑、太陽と焼き物の炎を象徴する赤で図案化したものです。」公式HPより

マンホールは、新市章のある規格蓋と、同じく親子蓋タイプを見つける事が出来ました。

撮影日:2010年8月12日&2016年8月14日

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旧備前市(びぜんし)は岡山県南東部に位置した町です。瀬戸内市、赤磐市、和気郡和気町・日生町・吉永町に。また県を跨いで兵庫県赤穂市、赤穂郡上郡町に隣接。瀬戸内海:片上湾、日生湾に面し、鹿久居島、曽島、鴻島、頭島、大多府島、鶴島などの日生諸島を有します。また日本六古窯の一つ「備前焼」の里として知られ、特に伊部地区で盛んな事から「伊部(いんべ)焼」とも呼ばれ、市の表玄関である伊部駅舎の壁には、備前焼の獅子を象ったレリーフが人々を出迎えてくれます。

明治22年(1889)、町村制の施行により、和気郡伊部村・片上村・香登村・伊里村・鶴山村・三石村・邑久郡鶴山村が発足。

1901年、片上村が町制を施行、和気郡片上町が発足。

1906年、三石村が町制を施行、和気郡三石町が発足。

1912年、伊部村が町制を施行、和気郡伊部町が発足。

1927年、香登村が町制を施行、和気郡香登町が発足。

1951年、片上町、伊部町が合併、第一次和気郡備前町が発足。

1951年、伊里村が町制を施行、和気郡伊里町が発足。

1955年、 備前町、伊里町、香登町、鶴山村、邑久郡鶴山村 が合併、第二次和気郡備前町が発足。

1971年、備前町、三石町が合併、市制を施行、第一次備前市が発足。

旧備前市のマンホールには「備前焼宮獅子」と「備前焼のふる里」の文字がデザインされています。

2017年11月18日開催の、倉敷マンホールサミット:展示マンホール。

備前焼宮獅子

昭和46年(1971)9月4日制定の市章は「「ビ」の図案化で、円形で市民の融和、平和、団結を表し、輪郭より突出する右手は大空を力強く指差し、向上、発展、飛躍を示し限りなく前進を続ける備前市を象徴しています。」合併協議会資料より

伊部地区はまさしく「備前焼のふる里」。家の防犯にも一役買ってくれそうな精悍な宮獅子も、気軽にお買い求めできます😊

町を歩けば、至る所に陶器専門店があり、ショーウインドウを覗けばこんなものまで!と、思わず手に取りたくなる作品も展示されています。

撮影日:2008年5月2日&2010年8月12日

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牛窓町内~ふらり散策 in 岡山県瀬戸内市牛窓町

2021年11月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

「日本のエーゲ海」とも称される牛窓の景観。約10ヘクタールのオリーブ園ではオリーブの成木約2,000本が栽培され、小豆島オリーブ園と並んで日本最大規模を誇ります。展望所から見る瀬戸内海、海を隔てた先には小豆島から四国までが見渡せます。

眼下には寒々しい姿のオリーブの林。真冬のオリーブの木は何故かよそよそしくて。とても風が冷たくて・・空も海も灰色。

同じ年の夏、牛窓港へと至る道の展望所から、夏の日差しを受けて輝く牛窓の市街を見ました。真っ白な入道雲が真っ青な空に映えて、それはまるで絵葉書の世界のように見えました。

西日本でも最大級のスケールを誇ると言われる「ヨットハーバー」、通りすがりの車内から流し撮りをしたものです。

牛窓本土と前島の距離が最も近いという「唐琴瀬戸」。前島までは幅230~400m、東西800m、深さ13~30m、海底は大小様々な岩からなる岩礁で複雑な凹凸が形成され、大潮の引き潮時には渦ができるほどの奔流となるそうです。

こんなおだやか海面を見ていると、説明にある状況が想像できません。

「唐琴瀬戸」の入口、玉垣に囲まれた中に祀られているのは「神功皇后の纜(ともづな)石」。纜とは、船をつなぎとめておく綱のこと。

「「風土記逸文(ふどきいつぶん)」に「神功皇后のみ舟、備前の海上を過ぎたまひし時、大きなる牛あり、 出でてみ舟を覆さむとしき、住吉の明神、老翁と化りて、其の角を以ちて、投げ倒したまひき、故に其の処を名づけて牛轉(うしまろひ)と曰ひき、今、牛窓と 云うは訛れるなり。」とあります。大きな牛が転んだ所を「牛転(うしまろび)」と呼ぶようになり、やがて訛って「牛窓」になった。」瀬戸内市HPより

唐琴の瀬戸に面して建つのは「燈籠堂」。瀬戸内海を航行する公・私船舶の航行が頻繁となった延宝年間(1673~1681)に、夜間通航の標識として備前藩主池田綱政の命によって建設されました。

「燈籠堂の創建は不詳ですが、記録より延宝8年(1680)以前に建てられたと考えられています。文化6年(1809)の記録を見ると、燈籠に鯨油が使われたことも記されています。明治時代になって堂は壊され、石垣のみ残りました。現在の堂は昭和63年に江戸時代の絵図から推定復元したものです。」瀬戸内市HPより

燈籠堂の右手には、小さなお社を収めた覆い屋があります。軽く手を合わせての参拝ですませた為、社名などの詳細は不明。

海岸近くの小高い丘の上にある小さな神社は『五香宮』。御祭神は『住吉大神・神功皇后・応神天皇・,上筒男命・中筒男命・底筒男命』

由緒「神功皇后西国御遠征の砌、牛窓沖にて牛鬼の難に逢われ、危うき処を住吉大明神に救われた。皇后は、住吉大明神の御加護に感謝、此の地に古くから住吉宮の存する事を聞き、自ら住吉宮へ御参拝され、武運長久、航海安全、安産祈願等を御祈願なされた。下って江戸時代寛文6年7月、藩主池田光政公は牛窓神社に参拝され、その時に往吉宮の造営の由を仰せ出だされ、社殿が再建されるや、京都伏見の御香宮から改めて、神功皇后と応神天皇の御神霊を勧請し、往吉宮を五香宮と改称。以来、五香宮は池田家の守護神として崇敬を集め、武神、航海安全神、安産神として尊崇された。現存の社殿は、大正七年の大造営にかかる神明造り銅板葺きである。」岡山神社庁より

五香宮の奥にある高野山真言宗「妙福寺観音院」。瀬戸内三十三観音霊場第六番札所で、地元では東寺と呼ばれています。現在の本堂は延享3年(1746)に再建されたと云われています。

お参りの前にと手水舎を見れば、水の無くなった手水鉢の中に何とも可愛い先客。

真夏の焼き付けるような日差しの中で見つけた涼しい場所。人を怖がるでもなく、威嚇をするでもなく、穏やかな表情を浮かべていた猫さん。達者でいますように!

訪問日:2008年2月10日&8月15日

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ご当地マンホール in 岡山県旧牛窓町(瀬戸内市)

2021年11月01日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

旧邑久郡牛窓町(うしまどちょう)は岡山県南東部に位置した町です。西は岡山市、北は邑久郡邑久町に隣接。かって牛窓半島の北・東・南は海に囲まれていたが、塩田開発によって北の錦海湾はほぼその全域が陸地化し、地形は大きくを変化。町の南方には前島・黄島・青島・黒島、東方には鼠島の五島が浮び、黄島・黒島には、淡水に生息するヤマトシジミを主とする縄文時代早期の貝塚があり、草原であった瀬戸内海が海進によって今のような海に変わっていく過程を物語る好資料となっています。二塚山古墳・鹿歩山古墳・天神山古墳・黒島古墳など牛窓湾を取囲む巨大な古墳群は、当地方に勢力を振るった首長の存在を伺わせます。現在は特に観光業に力をいれており、「日本のエーゲ海」と称し、また香川県の小豆島とならび、日本二大オリーブ産地の一つとして知られます。

明治22年(1889)、町村制の施行により、邑久郡牛窓村・鹿忍村・長浜村・大宮村が発足。

1896年、牛窓村が町制を施行、邑久郡牛窓町となる。

1924年、鹿忍村が町制を施行、邑久郡鹿忍町となる。

1954年、 牛窓町、鹿忍町、長浜村が合併、(新)牛窓町が発足。

1955年、邑久郡大宮村の一部を編入。

2004年、邑久郡邑久町・長船町と合併し、瀬戸内市牛窓町となりました。

マンホールには「ヨット」と「本蓮寺三重塔」、それに「オリーブの実」がデザインされています。

瀬戸内市立美術館:牛窓支所内の展示マンホール

制定年月日は不明、町章はカタカナの頭文字「ウシ」を円形に図案化したものです。

町名の由来「神功皇后が三韓征伐の道中、この地で塵輪鬼(じんりんき=頭が八つの大牛怪物)に襲われるも弓で射殺。皇后が新羅からの帰途、成仏出来なかった塵輪鬼が牛鬼になって再度来襲し、住吉明神が牛鬼の角をつかんで投げ倒した。この場所を牛転(うしまろび)といい、訛って牛窓になったという。この牛鬼が滅びた後、頭は黄島、胴体の前は前島、胴体の後ろは青島、お尻の部分は黒島に化けたと地元では伝えられている。」

撮影日:2008年8月15日

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