太陰暦というのは僕の知らないところで決められた制度。
僕にとってカレンダーはいつも他人事だったのだが、
やはり今日という日は流石に意味があるように思えた。
テレビでは昨日から震災関連の報道番組、ドキュメンタリー番組ばかり。
新たな震災時の情報、
九死に一生を得た人たちの1年、
助け合った人たちの1年越しの再会などを見させられて、
流石に非常に重たいものが胸に来る。
東北の人々は未だに震災中で元通りに帰るには程遠い。
自分は毎日欠かすこと無く日記を書いている。
自分の1年前の日々を読み返す。
東北に比べればどうしても些細ではあるが自分も被災した。
当時を思い出す。
台東区にある8階建てのビルの最上階に我社はあり、僕はそこで地震に遭った。
長い揺れは徐々に強くなり、一体どこまで強くなるのだ?
とクールな自分も、遂に終の時がきたのか?と流石に不安になった。
パソコンは倒れ引き出しは勝手に開き中身が宙を舞っていた。
本棚が倒れだして本はバサバサと落ち、給湯室の食器は次々と落ちてその破壊音を鳴らしていた。
そしてブラインドがものすごい音を立ててガシャンガシャンと鳴っていた。
関東大震災の震源地付近で生まれ育った僕は幼い頃からおじいちゃんに地震の恐ろしさを語られてきた。
群発地震など、地震と身近に生きてきた。
正直ほかの社員より危機意識は強かった。
エレベータも止まっているし最上階なので僕は広場への避難を促した、
下の回には女性だらけの会社もあり、
かなりうろたえていたので僕は勇気を出して声をかけ同じように避難を勧めた。
会社の近所の民家にはかなりご老体なおばあさんが一人で居たので、
戸締りをして広場に避難したほうがいいですよと促した。
一旦近所の駐車場にウチの社員やその他の人々が集まっていたが
不気味な軋み音があちこちから聞こえていた。
揺れる建物が出している音だった。
結局その日の会社はそのまま解散となった。
自分は3人程の有志で非常階段で再び8階に戻り落ちそうなモノは予め床におろし、
戸締りをした。
非常階段を登っている時にも大きな揺れに襲われ宙に放り出されるかと恐ろしかった。
途中の公園にはすでにブルーシートなどを敷いて避難している人々が居た。
駅に行くと案の定電車は止まっていた。
アレだけ揺れたんだ、線路の確認などを考えれば今日中に復旧することは無いだろうと予想してすぐに電車は諦めた。
そうして他の多くの人々と共に歩いて千葉の家まで帰ることにした。
道はもの凄い人と渋滞で動かない車で溢れていた。
帰宅難民とか呼ばれる奴になったのだ。
たった一人で誰にも連絡を取らずに色々考え、色々想像して4時間ほど歩いて最寄り駅に辿り着いた。
疲れ果てた僕はわずかにやっていたラーメン屋でビールを飲んだ。
ようやく帰って東北が大きな津波に襲われたことを知って唖然とした。
モノが多い部屋は本やCDが散乱していた。
最後の気力を振り絞りそれらを片付けた。
とにかく疲れて居たのでお風呂にお湯を入れたが溜まってみると茶色だった。
仕方なくその茶色の湯船に入った。
夜中中震災のテレビを観ていた、翌日もその翌日も。
モノは不足し、一人暮らしの僕は食料を手に入れるのも困難だった。
食料が手に入らない事はかなり僕を不安にした。
次の食事が何も保証されなくなっていた。
バイクで食べ物を探した。
震災前にたまたまバイクのガソリンを入れていたことが幸いした。
僕の住む街は毎日の様に計画停電の対象になり停電した。
停電すると何も出来なかった。
テレビもインターネットも使えず、水も出なくなった。
夜の停電は街を漆黒の闇で飲み込んだ。
街から灯りが全て消えるとこんなにも暗いのか、と改めて思い知った。
原発の事もあり、もう元通りの暮らしには戻れないんじゃないか?
と思ったりしていた。
しかし東京は数ヶ月で元通りになった。
人生で体験したことの無い災害の日々。
忘れることは出来ない。
この先、もっと困難な日々がやってくるのだろうか?
もっと大きな災害はやってくるのだろうか?
そんな事を想像して生き抜く準備をしていこうと考えている。
滅多に使われることは無いが、サバイバルの能力は馬鹿に出来ない。
犠牲者達とも何処かで繋がって大きな輪になっている。
冥福を祈ります。
僕にとってカレンダーはいつも他人事だったのだが、
やはり今日という日は流石に意味があるように思えた。
テレビでは昨日から震災関連の報道番組、ドキュメンタリー番組ばかり。
新たな震災時の情報、
九死に一生を得た人たちの1年、
助け合った人たちの1年越しの再会などを見させられて、
流石に非常に重たいものが胸に来る。
東北の人々は未だに震災中で元通りに帰るには程遠い。
自分は毎日欠かすこと無く日記を書いている。
自分の1年前の日々を読み返す。
東北に比べればどうしても些細ではあるが自分も被災した。
当時を思い出す。
台東区にある8階建てのビルの最上階に我社はあり、僕はそこで地震に遭った。
長い揺れは徐々に強くなり、一体どこまで強くなるのだ?
とクールな自分も、遂に終の時がきたのか?と流石に不安になった。
パソコンは倒れ引き出しは勝手に開き中身が宙を舞っていた。
本棚が倒れだして本はバサバサと落ち、給湯室の食器は次々と落ちてその破壊音を鳴らしていた。
そしてブラインドがものすごい音を立ててガシャンガシャンと鳴っていた。
関東大震災の震源地付近で生まれ育った僕は幼い頃からおじいちゃんに地震の恐ろしさを語られてきた。
群発地震など、地震と身近に生きてきた。
正直ほかの社員より危機意識は強かった。
エレベータも止まっているし最上階なので僕は広場への避難を促した、
下の回には女性だらけの会社もあり、
かなりうろたえていたので僕は勇気を出して声をかけ同じように避難を勧めた。
会社の近所の民家にはかなりご老体なおばあさんが一人で居たので、
戸締りをして広場に避難したほうがいいですよと促した。
一旦近所の駐車場にウチの社員やその他の人々が集まっていたが
不気味な軋み音があちこちから聞こえていた。
揺れる建物が出している音だった。
結局その日の会社はそのまま解散となった。
自分は3人程の有志で非常階段で再び8階に戻り落ちそうなモノは予め床におろし、
戸締りをした。
非常階段を登っている時にも大きな揺れに襲われ宙に放り出されるかと恐ろしかった。
途中の公園にはすでにブルーシートなどを敷いて避難している人々が居た。
駅に行くと案の定電車は止まっていた。
アレだけ揺れたんだ、線路の確認などを考えれば今日中に復旧することは無いだろうと予想してすぐに電車は諦めた。
そうして他の多くの人々と共に歩いて千葉の家まで帰ることにした。
道はもの凄い人と渋滞で動かない車で溢れていた。
帰宅難民とか呼ばれる奴になったのだ。
たった一人で誰にも連絡を取らずに色々考え、色々想像して4時間ほど歩いて最寄り駅に辿り着いた。
疲れ果てた僕はわずかにやっていたラーメン屋でビールを飲んだ。
ようやく帰って東北が大きな津波に襲われたことを知って唖然とした。
モノが多い部屋は本やCDが散乱していた。
最後の気力を振り絞りそれらを片付けた。
とにかく疲れて居たのでお風呂にお湯を入れたが溜まってみると茶色だった。
仕方なくその茶色の湯船に入った。
夜中中震災のテレビを観ていた、翌日もその翌日も。
モノは不足し、一人暮らしの僕は食料を手に入れるのも困難だった。
食料が手に入らない事はかなり僕を不安にした。
次の食事が何も保証されなくなっていた。
バイクで食べ物を探した。
震災前にたまたまバイクのガソリンを入れていたことが幸いした。
僕の住む街は毎日の様に計画停電の対象になり停電した。
停電すると何も出来なかった。
テレビもインターネットも使えず、水も出なくなった。
夜の停電は街を漆黒の闇で飲み込んだ。
街から灯りが全て消えるとこんなにも暗いのか、と改めて思い知った。
原発の事もあり、もう元通りの暮らしには戻れないんじゃないか?
と思ったりしていた。
しかし東京は数ヶ月で元通りになった。
人生で体験したことの無い災害の日々。
忘れることは出来ない。
この先、もっと困難な日々がやってくるのだろうか?
もっと大きな災害はやってくるのだろうか?
そんな事を想像して生き抜く準備をしていこうと考えている。
滅多に使われることは無いが、サバイバルの能力は馬鹿に出来ない。
犠牲者達とも何処かで繋がって大きな輪になっている。
冥福を祈ります。