明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(588)NONベクレル食堂のめざすもの(上)

2012年11月28日 10時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121128 10:00 20220331改訂=写真をアップ)

この10月、京都市岩倉に、放射線を測って安全を確認した食材で料理を出す「NONベクレル食堂」が立ち上がりました。オーナーは廣海緑朗(ヒロミロクロー)さん。東日本大震災以降、ともに放射線防護を考え、実践してきた友人です。
同店のHPを紹介しておきます。http://non-bq-shokudou.com/

さっそくお店にうかがい、ロクローさんに思いを聞いてきましたので、みなさんに紹介したいと思います。僕の意見もかなり書き込んでいますので、インタビューというより対談に近いかもしれませんが、ぜひロクローさんの思いに耳を傾けて欲しいです。
なおここでは触れませんでしたが、ロクローさんは、アメリカインディアンのホピ族と交流したり、山水人の運営に関わったり、あるいはロックバンドのフライングダッチマンのマネージャー役をこなしたりと、非常に幅広い活動をされてきている方でもあります。
そのどの経験も、かなり面白いのですが、今回は敢えて、「NONベクレル食堂のめざすもの」だけに話を絞り込みました。それでも長くなりましたので、3回に分けます。ぜひこの文章を読んで、食堂においでください。安心な上に絶妙な味の定食があなたをお待ちしています!

*****

NONベクレル食堂のめざすもの

―今日はこの10月にNONベクレル食堂を立ち上げたロクローさんに話をうかがいます。ロクローさんよろしくお願いします。さっそくですが、お店を立ち上げて暫くたって感じていること、考えていることなどから話を聞かせてください。(なおロクローさんのお話には(ロ)マークをつけてあります)


NONベクレル食堂 守田撮影


安全な食べ物を多くの人が探している

(ロ)オープンするまでにたくさんの避難者の方が来てくれました。東京からこられた方が10人は来てくれた。

―その人たちはなぜ岩倉に住んでいるのですか?

(ロ)最初に岩倉に来た方が情報を流したりするのではないですかねえ。僕が受ける印象では、岩倉には東京から来ている方が多くて、一乗寺には福島からの方が多いように感じます。とにかく、ほんまに避難者の人が多いなあ。
お店には、大阪や神戸からも、普通に来てくれます。話題が先行しているのですかね。
例えばフェイスブックに朝方に情報を載せると、昼までに2000人ぐらいの人が見ています。多いのは東日本の人ですね。そしてそこから問い合わせがくる。「そこで使っている食材を紹介してください。そこまではいけないのだけれど、その食材を買いたい」と言うのです。

―そういう反応をどう思いますか。

(ロ)食堂をやろうと決めたときに、僕の中にもここで使っているものをネットで紹介して、みんなが買いやすいようにしたいという気持ちがありました。知っている小農家さんがたくさんいるのですが、凄く手間をかけていいものを作っているのに、販路がないのです。農協に出したら買い叩かれる。農薬や化学肥料を使っているものは、大きさが揃っていて、高く売れるのですよ。おかしいでしょう?それ自体が。

せっかくいいものを、安心なものを作っても販路がなくて、農協に出しても二束三文やし、なんとか直売所で売ったり、京都の有機野菜を扱っている八百屋さんに卸すのですけれども、それでも農協より少し高いぐらいの値しかつかない。なんだかひどい世界やなあと思ってました。

その反面、安全な野菜はないかと必死で探し回っている人もいるのです。それやったらここで食材としてそれらを使って、放射線の測定もして、さらに農家さんの紹介も行って売っていきたいなということを、初めから思っていたのです。まだ忙しくてバタバタしていて、そのためのホームページも作れていないのですが、近日中に始めたいと思っています。とりあえずお米から始めようかなと。お米の問い合わせが凄く多いのです。

―お米は毎日食べるから、汚染されていると、身体への打撃が大きいですからね。例えばシイタケの中に汚染されているものが良く見つかるけれども、シイタケは毎日食べるわけではない。かりに少し食べてしまったとしても、毎日食べるお米とはずいぶん意味が違ってきます。何よりも水とお米の安全性が大事ですよね。
だけれども、安全で良い食材を紹介するという場合、お金がロクローさんにももたらされるシステムはできるのですか?

(ロ)たぶん出来ると思います。このまま食堂をやっているだけだと潰れてしまうだろうし(笑)。生産者の人と提携してその道を考えようと思います。

―僕も講演で、自分たちを守るためには、安全なものを作ってくれる生産者を守らなければならないと繰り返し言っています。でも僕の場合は言っているだけなんですね。だからロクローさんの試みは凄くいいし、ありがたいなと思うのです。それだけに、持続可能なシステムとして成り立てて、安定的に運営できる道を見つけて欲しいですね。
みなさん、のどから手がでる情報なのだから、喜んでペイをしてくれると思いますよ。生産者にとっても十分利益が出て、なおかつ情報量を捻出することはできるのではないでしょうか。

(ロ)幾つか話をさせてもらっている農家さんは、本当に、かなり叩かれた値段で作物を売っています。それに対してこれぐらいで売れて欲しいという額があるけれども、同じような商品を買っている消費者の人の値段に対する意識もある。そこにけっこう大きな開きがあります。
それで僕としては、少し僕にもマージンをのせる形でも農家さんにも買い手の方にも喜んでもらえる値段を設定できると思っているのです。それを農家さんに示して、これで売っていいですかと了解を得て、それで販売していけばいいかなと思っています。その場合、測定をきちんと行うことは前提ですね。
有機野菜を扱っているいろいろな人に聞いてみたら、「そんな値段だったら商売にならんで」と言われるような値段なので、まあ、文句は言われへんかなと。

―そうですか。うーん。そういう方が、「商売にはなるけど、安いなあ」とか言うぐらいにはして欲しい気がしますが。ともかく経営が成り立つようにうまくやって欲しいです。

(ロ)ネットで売るシステムを作るのにお金がかかるのですが、うまくできればまわしていけるのではないかと思っています。
よく農家さんがここに勝手に野菜を送ってくるのです。ここで使って欲しいし、ここでネット販売して欲しいというのです。みなさん、本当に販路に困っているのですね。それを受け入れることができたら、来年は作付けを増やせますよね。そうやってどんどん広げていくのは悪いことではないと思うのです。


NONベクレル食堂の店内 守田撮影

―とてもいいことですよ!

(ロ)ちゃんとした生き方を考えて農業を始める人が増えていると思うのですけれども、とりあえず農業を始めてから売り先を考える人が圧倒的に多いのです。だからそういう人のサポートもしたい。本当に東日本は安全な食べ物に飢えてますから、そこに本当にいいものを作ってくれている人をつなげられたらと思います。

―僕は最近、縁があって兵庫県の篠山市に通っているのですけれども、篠山市は「農都」としての発展を掲げています。実際に篠山には近年、新しく営農を始めて、有機野菜を作って頑張っている人たちが増えている。そういう人たちと結びついてくれるといいなと思うし、そこで販路が拡大する中で、東北や関東で、汚染によって営農を断念せざるを得ない人に、ここに来て営農をしないかという呼びかけができたらいいなとも思うのです。
実際に篠山市の農家さんにそういう話をしたら、すぐにも準備をしてくれて、販路も補償できるので来ないかという話が出てきました。それを東北の知り合いの農家さんに投げてみましたが、そのときはその方がまだ東北を離れる気持ちにはなれなかった。その気持ちはとてもよく分かる。でも先を見据えてこういう可能性を広げていくことはとても大事だと思うのです。

やはり汚染があるところで営農を続けるのは苦しい。汚染された土壌から、作物にそれほど放射能が移行しなかったとしても、明確に汚染があるところで作り続けていくのはやはりとても苦しいものがあると思うのです。実際に僕の知っている東北の方は、野菜に移行していなくても、汚染された土壌で作り続けていて本当に安全なのだろうかという根本的な疑問が沸いてくると話していました。

それに比べたら西日本はわずかな汚染はあるけれども、まだまだきれいだし、使える遊休地がたくさんある。それを活用すれば日本全体を食べさせることが可能だと、友人の「食べ物」の研究者が断言していました。僕もそうなのだと思うのです。東北の方がすべて移ってくるわけにはいかないでしょうが、少なくとも移れる可能性をどんどん広げていきたい。何せ、福島原発からは今も放射能が出続けているのですから。
そのためには西日本の行政にも動いてもらう必要があるのですが、そういうことにノンベクレル食堂の動きがつらなっていくといいですね。

(ロ)僕もやる前には、土壌を測れば作物一つ一つを測らなくてもいいのではと考えたことがあります。土壌が安全なら、作物も安全なはずだからです。でもずいぶん、甘い考えだということが分かりました。ある程度、正確に測ると、京都府や三重県、滋賀県でも0~3ベクレルぐらいは汚染が出てくるようなのです。野菜への移行計数を考えればほとんど問題がない数値だと言っていいと思うのですが、それを表示した場合、かえって農家さんのイメージを崩すことにしかならない。
ただし市場を見ていると実際に土壌を測って作物を売っている場合もけっこうあります。それを見てみると土壌の量がわずか200グラムぐらいで、測定も30分ぐらいでしかない。


べクロー君で測定するロクローさん 守田撮影

―ひどいな。インチキですね。

(ロ)そうなんです。はなから「そんなん、出るはずないやん」という測り方をして、不検出という紙をつけて、野菜を売っている人らがいます。僕らのように少し測定のことを知っているもんなら「ウソや」とすぐに分かるレベルの話です。そういうものもあるので、土壌を測ってどうのというのはうまい方法ではない。
そもそも昨年の3月111日以前でも、土壌をきちんと計ったら5ベクレルぐらいまでは出るところがあったそうなのです。専門の計測者に聞いた情報です。核実験やチェルノブイリ事故の影響がこれまでもあったと思うのですね。

―あとは稼動している原発からの放射能漏れでしょうね。最近、各地の原発の周辺の人から話を聞く機会が増えているのですけれども、例えばある原発では、建屋のシャッターを開けるときに、周辺のモニターのスイッチを切ってからにするとかいう裏マニュアルがあるのだそうです。それでないとすぐにモニターが反応してしまうからです。原発の周辺にいる人たちはそういうことを知っている。健康被害がすでにこれまでもあったという話しも耳にします。

続く

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明日に向けて(586)木々を、イノチたちを、被曝から守りたい!

2012年11月24日 08時30分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20111124 0830)

すでにお知らせしましたが、11月3日に、僕は「イノチコア」さんのパレードに参加し、一緒に大阪の街を歩いてから、30分ほど内部被曝についてお話させていただきました。
このパレードは、すべてのイノチのことを強く考えたもので、歩いている間のコールにもその思いがにじみ出ていました。僕も一緒に声をあげたり、手渡された太鼓を叩きながら思いを一つにして歩きました。
この様子が以下から見れますのでぜひご覧ください。アクションの報告とともに、パレードの写真がたくさんアップされています。(僕も写っています)

11・3イノチアクション 反原発・反放射能デモパレードin大阪
http://inochicore.web.fc2.com/20121103_repo.html

僕の発言は、パレードのあとに公園に戻ってから行わせていただきましたが、歩きながらずっとイノチたちのことを考え続けたのでまずはそれから話させていただくことにしました。とくに僕が話したかったのは、山のこと、木々のことでした。
というのは僕は福島原発事故が起こる前までは、森林の保護に力を入れていました。とくに僕が携わってきたのは、カシノナガキクイムシの北上に伴って、ナラ類(ミズナラ、コナラなど)が集団で枯れていくナラ枯れ現象を食い止めることでした。
そのために京都の大文字山を中心に、多くの友人・知人にも協力してもらって、京都東山の中を駆け巡ってきました。同時に山のこと、ムシのこと、野生生物のこと、そして山里の人々の暮らしのことなどを学び続けてきました。

ところが福島原発事故で、活動内容が一変してしまい、ほとんど山にも森にも関われなくなってしまいました。それが心の中の大きな負担としてあります。山々のナラ枯れは相変わらずものすごいスピードで進んでいます。あちこちで枯れたナラ類の木々が目に映る。
しかも東北・関東を中心に、木々たちがものすごい量の放射能を浴びてしまいました。しかし僕も含めてほとんど誰も木々の放射能被曝を問題にすることができていません。ネットで探すと僅かに木々の被曝問題を取り上げている方々もいますが、しかし多くの場合、むしろ被曝した木々は、「除染」対象とみられるばかりです。
しかし私たちの生命をつないでいるのはこの木々たちです。木々たちが常に山に水を保水してくれてきたから、私たちはいつでも安定的に水を享受できています。それが私たちの暮らしばかりでなく、農の営みはもちろん、工業も、商業も支えてきているのです。

被曝した木々はどうなってしまうのでしょうか。ますます集団枯損が進んでしまうのではないか。そんな不安が心に去来します。でもだからといって、徹底調査をとも言いにくい。山の中の調査は、危険な被曝労働だからです。
やるべきことは何なのか。恐らくは生きている木々の被曝に対抗した徹底した植林ではないかと思えます。しかしその場合も、現にある放射能をどうするのかが課題になる。もちろん植林も被曝労働です。しかも山を知り、木々を知る人々といえど、ほとんどは放射能を知らないし、その影響の研究などおそらくほとんどなされていないと思います。
実はここに私たちの巨大な危機があるのではないか。木々を守りたと切実に思いますが、それは私たちの命に直結する問題でもあります。生命の連鎖がそこにあるからです。

私たちは私たちの命が本当にたくさんの連鎖の中にあることに目覚めなくてはいけない。私たちが、すべての生き物の頂点に立っているのではなく、すべての生き物によって生かされているのだということを自覚し、イノチたちに対する謙虚な思いと感謝の念を取り戻していかなくてはいけないと思います。
そのために、今後、山のこと、木々のことについても、可能な限りここで取り上げて、みなさんと一緒に考えていきたいと思います。
今回は、イノチアクションでさせていただいたお話の冒頭部分、山と木の部分を文字起こしし、同時に、パレードから帰ってから書いた詩を(すでに579で一度紹介したもの)を紹介することにしました。読んでいただけると幸いです。

*******

11.3イノチアクションでの発言より

みなさん。こんばんは。守田敏也です。これから内部被曝についてのお話をします。

今日のイノチコアさんのパレードで、みなさんが、木々や命の声を代弁する形で、原発はいらない、放射能から身を守ろうと訴えてくださいました。僕も一緒になって声をあげましたが、ちょっと内部被曝の話をする前に、私たちの国にある山のこと、森のことをお話したいと思います。

私たちの国は国土に占める森林率が67%です。これは世界の中でダントツの値です。日本に匹敵するのはフィンランドぐらいしかありません。他の国にはこんなに木がありません。
これほど多くの木々があることが私たちをどう支えてくれているのかですが、私たちの国は同時に、世界の中でも非常にたくさんの雨が降る国です。降水量もダントツです。ダントツなのですけれども、もし雨が、ただ山の地肌に降るのであったら、すぐに流れ落ちてしまって、麓にいる私たちには洪水として押し寄せてくるのですね。
ところがたくさんの木が植わっていて、山に降った雨を保水してくれます。そこにいったん蓄えられてから、少しずつ、麓に流れてくるのです。

ぜひみなさん。一度、川のほとりにたって、なぜ雨のない日に、水がとうとうと流れているのか考えてください。日本の川はいつでも水がとうとうと流れています。
それは木々がしっかりと水を山でキャッチしてくれるからなのですね。一時期、日本は戦争のためにたくさんの木を切ってしまいました。森林率は40%代まで落ちました。そのとき全国各地で洪水が起こりました。戦後の伊勢湾台風のときの水害などが有名ですけれども、あれも木を切りすぎたことが要因です。

それから戦後60年以上、主に山里の人たちが、えいえいと木を植え続けてきてくれました。そのことによって、私たちは、蛇口をひねれば当たり前のように飲む水が供給される国にいるのですね。世界ではまれです。飲み水を水道から飲める国がまれなのですね。
そのように私たちが普段、何気なく享受している幸せが、山、そして木々たちによって作られているということを知ってほしいのです。

そしてその山に大量の放射能が降ってしまいました。とてももう、胸が潰れるような思いでいっぱいです。東北関東の相当な地域の木々が被曝しています。木々は生命体ですから放射能によってやられてしまいます。これからその被害がだんだんに表面化してくると思うのですね。
しかしながら今、私たちはこれだけ膨大に出てきた放射線から、人々の生命を守ることが手一杯で、残念ながら山の木々を放射線から守ることは、ほとんど何もできていません。木はただ黙ってじっと耐えているだけです。

どうしたらいいのか。僕自身もまだ答えはでないのですけれども、ぜひみなさん、私たちの生命をつないでくれている山々が本当に悲しい悲鳴をあげているということ、知っていただいて、それをなんとかしていくことを一緒に考えていきたいと思います。
そのためにも、当然にもこれ以上の放射能をもう絶対に出してはいけない。そのためにはすべての原発をもうここで廃炉にしなければなりません。そのことを今日、イノチコアということで一緒に歩いたみなさんと、共通の思いにしていきたいと思います。

*******

イノチ
 
イノチのために
街を歩く
イノチのために
声を上げる
 
人のイノチ
獣のイノチ
虫のイノチ
木々のイノチ
 
放射線は
イノチを切断する
外から内から
イノチを切り刻む
 
しかも放射線は
イノチに呻く間も与えない
誰にも何にも見えないところで
破壊が実行される
 
傷つけられるイノチの多くは
自らの声を持たない
抗議もできなければ
仕返しもできない
 
しかしイノチたちは
他の多くのイノチたちを支えている
一つのつながりとしてあるイノチの傷は
痛みと哀しみの連鎖をもたらす
 
例えば山の木々が潰えたら
誰が私たちに
豊かで穏やかな水を
与えてくれるのか
 
例えば鳥たちが鳴かなくなったら
誰が私たちの心に
柔らかな潤いを
もたらしてくれるのか
 
今、私たちは
イマジネーションの力で
すべてのイノチの痛みを
聴きとる必要がある
 
それは私たちの
非有機的な身体(からだ)の痛みであり
まだ感じるにはいたらなくとも
私たち自身の痛みだ
 
山を見よう
木々を見よう
虫のことを鳥のことを獣のことを
想像しよう
 
被曝を止め
痛みを癒す道を見つけたい
すべてのイノチのため
私たちのこのイノチのため
 
20121112
 

 

 

 

 

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明日に向けて(585)沈黙を破って-グアテマラの女性たちの勇気ある声(中)

2012年11月23日 18時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121123 18:00)

明日に向けて(582)で紹介したグアテマラ・マヤ女性によるスピーキングツアーはまだ続けられています!
直前のお知らせになってしまって恐縮ですが、今日は午後6時半より、福岡市の「ふくふくプラザ502号室」で行われます。さらに25日午後1時より、久留米市男女平等推進センターで最後の会が行われます。
お近くの方、ぜひお越しください。情報を記しておきます。

■11月23日(金) ふくふくプラザ502号室(福岡)18:30~
 足立(080-5259-1558)
■11月25日(日) 久留米市男女平等推進センター(久留米)13:00~ 
 浅野(090-8666-8857)
http://recomblog.blog92.fc2.com/

さて、(582)で京都での講演内容を文字起こししてお送りしましたが、今日はこのときの講演に関するコメントと、質疑応答の内容をお伝えします。

まず今回、アリシアさんのお話を聞いて非常に強く感じたことは、グアテマラ・マヤの被害女性たちと、僕が出会ってきた日本軍性奴隷問題の被害女性たちの語ることが驚くほど、似ていることでした。
どう似ているのかというと、一つには性暴力を加えられたことが心の中の深い傷になっており、その傷が癒えるのに長い過程が必要であること。それらが被害を受けたことをカムアウトすることから始まっていることです。

この点でぜひ多くの方に知ってほしいのは性暴力は、けして直接にそれを振るった男性だけによって振るわれているのではなく、社会化された構造の中で振るわれているということです。これは暴力の多くにつながることだと思います。
そのため、グアテマラだけのことではなく、被害を受けた女性たちは、被害を受けたこと事態が、その女性たちの落ち度であると捉えられたり、より酷い場合には、被害を受けたのではなく、金銭が目的で、自ら売春をしたのだろうなどという悪罵を受けることすらあります。
これらを社会による二度目のレイプ=セカンドレイプと呼びますが、こうした社会の仕打ちが女性たちの心を本当に深く傷つけます。直接的な暴力によってひどく傷つけられた心身が、さらに社会によって痛めつけられるのです。

こうした場合に特徴的なことは、社会が被害者ばかりを責めて、肝心の加害者の暴力を責めず、積極的に裁こうとしないことです。つまり性暴力が社会によって容認され続けるのです。
実は「売春」に関してもそうです。売春は必ず買春とセットでしか成立しないのに、買春をする側(=多くの場合は男性)は裁かれもしなければ批判もされません。それなのに売春した女性には法的罰が加えられたり、酷い「蔑み」の言葉が投げかけられたりします。これも社会の容認によって構造化された性暴力の一つです。
被害女性の多くは、被害体験の記憶とともに、こうした社会の仕打ちが心の中に入り込んでしまい、自らを責めたり、あるいは自らがが汚れているように感じたりして、さらに苦しみ続けます。アリシアさんのお話の中にも、被害女性が「悪夢を見る」というくだりがありましたが、本当に地獄のような苦しみだと思います。

ではどうやってその苦しみから解き放たれることができるのか。まず大事なのは、女性たちの周りから「あなたは何も悪くない。悪いのは加害者だ」という力強いサポートを与え、傷んだ心を包むことです。そしてその中で、被害女性が自らの体験を語り、押し込めてきたエネルギーを表出できたとき、心の癒しが始まります。
グアテマラではそのために、アートセラピーを行ってきたことが報告されていましたが、台湾でも似たようなセラピーが重ねられてきました。被害女性たちが絵を描いたり、物を作ったりする中で、自分の中に溜め込んできたものを表現していく。その過程で、心が解き放たれていくのです。それで自分への愛を取り戻していく。自分が汚れてなどいないことに気がついていきます。

こうした過程には時間がかかるし、けして被害女性のすべてが、解放にいたっていけるわけではありません。何よりも社会の壁が厚く存在しており、それに再度、傷つけられるてしまうことがたびたびあります。そうして繰り返し手ひどく叩き潰されてきて、もう自分の可能性を感じれない女性もいる。
日本軍性奴隷問題で言えば、数十万人はいると見積もられた被害女性の中で、カムアウトにまで漕ぎ着けたのはわずかに数百人、つまり0.1%かそれにも満たない数なのです。ほとんどの女性は、心身の苦しみを抱いたまま生き続けてきました。その多くがすでに亡くなられていると思いますが、今なお、苦しみを抱えたままの女性もたくさんいるはずです。

そのために、社会が変わらない中で、自らが変わっていける女性たち、沈黙を破って、前に歩めるのは、勇気ある女性たちばかりです。いや、沈黙を破る過程で、勇気をつかみとった女性たちであるとも言える。だからそういう女性たちは共通の輝きを持っています。
アリシアさんも、被害女性たちに寄り添いながら、繰り返し被害女性たちに勇気をもらったと語っていますが、それは本当によく分かります。苦しみを突き破って、語り出した女性たち、己を解放した女性たちのエネルギーは本当に凄いし素晴らしい。僕も繰り返しそれを感じ、励まされてきました。

とくにそこから問題の社会的解決へと立ちがある女性たちは、己の恨み(抱いて当然のものですが)を突き抜け、人間愛に基づいて行動している場合がほとんどです。そして共通に出てくるのは、「二度と若い人達がこういう経験をしてはいけない」という言葉です。若者のために、未来のために彼女たちは歩みを強めていく。
その姿を見ると、人間とは、こんなに酷い仕打ちを人と社会から受けてもなお、こんなにも人を愛せるものなのかと驚嘆させられてしまいます。人間の勇気、可能性を強く感じさせてくれるのです。そしてそれがサポートしている側の心も洗ってくれます。サポートに関わって良かったと必ず思わされてしまいます。
そうした点で、グアテマラ・マヤの女性たちと、僕が見てきた日本軍性奴隷問題の被害女性たちは本当に似ていました。同じような深い人間愛を感じさせてくれました。僕が多くのみなさんにこの問題に関わって欲しいと思うのはこんなときです。もちろん第一には被害女性の救済のためなのですが、それは必ず私たちの中の何かをも救済してくれるのです。
アリシアさんの言葉から、ぜひそうしたグアテマラ・マヤの女性たちの誇り高き勇気をつかみとって欲しいと思います。

第二に非常に重要なのは、この問題を男性がどう捉えたら良いのかということです。僕が述べたい核心はよりこちらの方にありますが、すでに記事が長くなってしまったので、今回はこれぐらいできり、この点は次回に述べたいと思います。

最後に、京都集会での質疑応答を記しておきます。再度、アリシアさんの言葉を味わってください。

*****

京都集会におけるアリシアさんへの質疑応答より
20121115

問 被害女性にあうときに一番大切にされていることは何ですか?

どのように接するかが大事です。まず自分のことを話す。なんの目的でこういうことをしているのかをです。それで時間をかけて相手が話す気になるのを待ちます。大事なのはどんなに辛い話を聞いているときでもこちらが泣かないことです。これが鉄則です。そして相手が泣き終わるのを待ちます。
聞いた自分も辛い思いをするのですが、それを吐き出すのは他の場所でです。被害女性に一生懸命に聞いているのを分かってもらうこと。聞いている私にとっても非常に重要だということを感じてもらうことが肝心です。

問 長年、女性たちを支えてきて、マヤの知恵を感じたことはありますか。また一番感動したこと、くじけそうになったときのことを教えてください。

最初の数年の活動は、家族の遺体がどこにあるかもわからない遺族ががいるので、一緒に遺体を探し出して、発掘して、埋葬する手伝いをしていました。どこにあるか分かりますようにと、マヤの儀式をしました。創造主から力をもらうために祈りしました。そうした習慣はとても大事です。祖母が言っていたことですが、人は役割をもってうまれてくる。そのエネルギーを持っている。私もそう思います。
嬉しかったのは、勇気ある女性たちに寄り添ってこれたことです。いつも女性たちから力をもらってきました。苦しかったのは、同じ暴力の被害者でありながら、「何もできない、変わらない」という人もいることです。そういう人にかかわるとガッカリします。しかしこのプロジェクトに参加している人たちに接して、大きなエネルギーをもらい続けています。

問 新たな告発を行っているとのことですが、村の中に加害の男性が住む状況もあるのではないですか。そのような中で、どのように女性を守っているのでしょうか。村のリーダーや男性たちの反応はどうですか。

多くの村で加害者の人が近くに暮らしています。軍が作った自警団に男性が組み込まれて、人権侵害を犯しました。そういう人たちがまだ近隣にいます。だからこそ、安全のためのネットワークが非常に重要で、村のリーダーの協力が欠かせません。性暴力の問題だけでなく、人権問題全般に関わるネットワークを作ってきました。それが女性を守ることになります。
女性たちへの脅迫、家族への脅迫にすぐ対応できるように、何かあったときにどうするかを話し合っています。必要があれば、すぐにかくまえるようにしています。
内戦がおわってしばらくたち、状況は変わってきています。グアテマラはまだまだ暴力的な社会であり、この状況で裁判をするのは難しい面がありますが、国際社会の目もあり、国内での連携も広がってています。その中で女性たちを守っていけます。
女性たちももう怖くないといっています。自警団の中にも、強制されていた人たちのいることを女性たちは理解しています。この他、若者たちに意識をもってもらうことが非常に重要で、それを続けています。たくさんの仲間をつくってネットワークを広げて対応していきます。

男性の反応ですが、まだまだ男性中心社会で、性暴力に対してもひどい反応があります。加害者ではなく、被害女性が攻撃されます。女性たちも自分が汚れた存在だと感じてしまいます。社会は女性に強姦されないようにとはいいますが、男性に対して強姦をしないようにという教育は行っていません。
9月に女性たちが証言したときのマスメディアの対応は、支援と非難が半々でした。マスメディアでも取り上げられました。半分は彼女たちを支援していました。しかし残りの半分からは、女性たちが金のために性を売っただとか、誹謗中傷がなされました。
証言が終わった後に女性たちが住んでいるところに訪問しましたが、村の中ではうわさはありましたが、女性たちに脅迫とかはありません。しかし性暴力の被害者である女性が責められる状態を変えるのはまだまだ難しいです。

京都集会の報告はここまで

記事は続きます・・・。

 

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明日に向けて(584)ガザ、私たちはあなたとともに立つ!

2012年11月22日 22時30分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121122 22:30)

すでにみなさんがご存知のように、再びイスラエルが、パレスチナ・ガザ地区への猛爆撃など、国際法も何もかも無視した殺人作戦を敢行しました。
これまでに140人を超える方が亡くなった伝えられています。重軽傷者、また生活の場を奪われた人々など、被害数はもっともっと大きいでしょう。

イスラエルはこうしたなんの正義性も合法性もない殺戮作戦をこれまで何度も繰り返しています。
白昼堂々と、民家に砲弾を打ち込む・・・そんなことがもう何年も前から繰り返されているのです。こんなことはけして許されてはなりません。
にもかかわらずマスコミは、何かこの事態が、イスラエルとハマスとの対等な戦闘であるかのように描いています。
それは全くの間違いです。軍事力がまったく違う。いやそれよりも何よりも、イスラエルは繰り返し、戦闘とは何の関係もないパレスチナ住民の家屋に、猛攻撃を加えているのです。明らかな戦争犯罪です。
そのことが何ら裁かれない。剥き出しの暴力が批判されない。そのことが、直接の軍事攻撃とともにパレスチナの人々を苦しめている。だからこそ私たちは「ガザ、私たちはあなたとともに立つ!」という声をあげる必要があります。

このことは放射能で苦しむ私たちの国のあり方をも規定する問題です。私たちが今、目の前で行われている本当に酷い暴力に声をあげられなければ、私たちもまた酷い暴力を受けたときに助けを受けることができないでしょう。
いや、現に今、私たちは放射能被曝という酷い暴力を受けています。被曝は自然現象なのではありません。何度、危険性を訴えても原発の運転をやめなかった政府と電力会社のせいで事故はおこり、何度、必要な防護策や避難策を訴えても放置されることで、今なお避けられる被曝が続いているのです。
こうした暴力の構造は深いところでつながっています。だから私たちは今、自分自身を救うためにも、ガザの人々を守る必要があります。守れなかった生命を追悼し、これ以上の悲劇を食い止める必要があります。

京都では僕も参加するピースウォーク京都と、つばめクラブが11月26日午後6時からの「ビジル」を呼びかけています。抗議のプラカードとキャンドルを持って、三条大橋の上に立ちます。この他、24日にも行動が呼びかけられています。
お近くのかたぜひご参加ください。またみなさんのそれぞれの地域でぜひ抗議の声をあげてください。

なおすでに停戦が成立したから大丈夫なのではという方もいるかもしれません。もちろんこれ以上、攻撃が拡大しないことは大事ですが、しかしすでにイスラエルは140人以上を殺害しています。民家を攻撃してです。たくさんの子どもたちも生命を奪われてしまいました。
このことに世界中からの声を集めなければ、同じことが必ず繰り返されます。そのために一人でも多く、声をあげることが大事です。
同時に、イスラエルはこれまで停戦の間に、酷いことを繰り返してきました。国際的な注意が緩んだ時を狙っているのです。そのためにも、世界で多くの人々が注視しているという姿を見せる必要があります。
この後者の点に関して、友人で、パレスチナ訪問記などを著してきた森沢典子さんがメッセージを出してくれたので、それを転載しますのでご参考ください。

みなさん。平和のために行動しましょう。
ガザのために、そして私たち自身のために!

********

森沢典子さんより(停戦発表2時間後に発信)

今から2時間前にイスラエルとガザのハマスの間で停戦の合意が成立しました。

エジプトが仲介に入りました。

これでイスラエルは大規模な空爆は出来なくなりますし、ハマスもロケット弾による攻撃やバスの爆発を止めるでしょう。
 
気をつけないといけないのは、イスラエルは停戦合意中にこそ活動を盛んにし、パレスチナ全土の封鎖、家の破壊、入植、水源や道路や農地の破壊を繰り返していることです。

停戦合意されると世界中はホッとしてパレスチナへの注視を止めてしまいますが、それが何よりもパレスチナの人々を苦しめています。
 
実際に今回の空爆でもイスラエル政府はガザ南部の人々にガザの北部へ避難するよう空からビラをバラまいています。

空爆の脅威は計り知れなく、人々は持てるだけの家財道具を荷馬車に積んで避難していました。

ガザ南部とはエジプトとの国境付近ハンユニスやラファ地区の辺りを指します。
 
これまで停戦中にもかかわらず毎晩のようにイスラエルの戦車や装甲車がやって来て家の破壊が行われ、人々が逃げ出したところを『軍用安全地帯』(意味がわかりません)と名付けて立ち入り禁止にし、事実上イスラエルの土地として併合されつづけている地域です。

ヨーロッパやアメリカからも家の破壊を止めようと若者たちがパレスチナ支援に入り2003年にはブルドーザーの前に立ちはだかりパレスチナ人の家を守るためにイスラエル兵士との交渉を試みたアメリカ人のレイチェル・コリーが、イスラエルのブルドーザーにひき殺されました。イスラエル政府は『誤って』と発表しましたが、目撃者たちはブルドーザーが進んで轢いて、後退してもう一度轢いたと証言し日本でもニュースになり世界中からイスラエルへの批判が高まりました。

パレスチナ全土で人々はレイチェルへの喪に服していました。
ラファやハン・ユニスで家や庭や農地がメタメタに壊された瓦礫だらけの場所にそのまま住んでいる老人たちが『私は絶対にここから逃げないよ。私たちは48年にイスラエルの攻撃が怖くて逃げ出してしまいこの場所へやって来た。そのまま村に帰らせてもらえずここでこうして難民になって生きてきた。今逃げたら、またこの場所をイスラエルに盗られてしまう。だから私はここを逃げないよ。』と話してくれたことが忘れられません。

イスラエルがパレスチナへの占領や封鎖、侵攻を続けていることに注視し続けて行く大切さを噛みしめています。

********

以下、京都での二つの行動の案内を貼り付けます。英文もあります!
------------------------------------------------------
【拡散歓迎】
ガザ、私たちはあなたとともに立つ、
―――― 今、私たちの思いをアクションに!
■■ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
キャンドル・ビジル 11/26(月)午後6:00-7:00、三条大橋
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー■■
あと何度、私たちは見なければならないの? 
 ガザで、彼らが爆撃され、焼かれ、殺されていくのを…。
あと何度、私たちは誓わなければならないの? 
 こんなこと、二度と繰り返しませんと…。
あと何度、私たちはその言葉を裏切れば気が済むの?

ラナーン、ガザの7歳のパレスチナ人の少女、
 あなたはなぜ、死なねばならなかったの?
イスラエル南部の街、アシュケロンに暮らすあなた、
 あなたはなぜロケット弾で死ななければならなかったの?

なぜ?なぜ?なぜ?

こんなこと、もうすべて終わりにしたい!

この思いに共感して下さる方は、
11月26日(月)午後6時、三条大橋にお集まりください。
キャンドル・ビジルを行います。
ガザとイスラエルで奪われたすべての命を悼んで、
パレスチナとイスラエルにおける公正な平和を願う
私たちの思いを届けるために、
私たちのこの恥に満ちた人間の歴史に終止符を打つために、
市民として私たちに何ができるか、ともに考えるために。

【呼びかけ団体】つばめクラブ、ピースウォーク京都
 問い合せ先:090-3704-3640(蒔田)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
OH, Gaza, here we are standing with YOU
    Now, it's time to put our aspiration for Peace into ACTION !
■■------------------------------------------------------------
Candle Vigil, on Monday 26th. Nov. at 6:00-7:00pm, on Sanjo-Ohashi
bridge
---------------------------------------------------------------■■
How many more times do we have to see them bombed, burned, and
massacred, there in Gaza…?
How many more times do we have to swear that we shall not let it happen
again?
How many more times do we have to betray ourselves?

Why did you have to die, you, Ranan, 7 year-old Palestinian girl, in 
Gaza?
Why did you have to be killed by rocket, you, having lived in 
Ashkeron in Southern Israel?

WHY? WHY? WHY?

We really want to end all of this !

Anyone that share this feeling,
please gather on Sanjo-Ohashi on Mondy 26th. Nov. at 6:00 pm
for standing candle vigil for mourning all lives taken in Gaza and 
Israel,
appealing our wish of peace with justice in Palestine/Israel to the
public,
and seeking together what we can do as citizens to put an end to this 
shameful human history of ours.

Organized by TSUBAME Club, Peacewalk Kyoto

----------------------------------------

***転送・拡散歓迎***

☆イスラエルのガザ攻撃に抗議の声を!

パレスチナ・ガザ地区が、イスラエル軍の激しい攻撃に曝されています。
この一週間で143名が殺害されてしまいました(11月21日現在)。
幾度となく繰り返されてきたガザ攻撃、大規模侵攻。
たとえ「停戦合意」が結ばれたとしても、イスラエルによる封鎖政策が続く限
り、真の平和が訪れることはありません。
イスラエルにこれ以上の殺戮をやめるよう、そしてパレスチナ占領政策をやめ
るように、抗議の意志を共に示しましょう。

○11月24日(土) 16時からの17時まで
場所:三条河原町アーケード入口

※可能な方はプラカードなど持参ください。

※「停戦合意」がされたとしても、私達は今回の作戦で殺害された犠牲者を追
悼し、パレスチナ問題の根本的な解決を求めて行動を行いたいと思います。

※17時からは同じ場所で沖縄・辺野古への新基地建設に反対し、普天間基地の
撤去を求める京都行動による定例アピールがあります。8年以上、毎週土曜日
続けられてきた活動です。時間の許す方はこちらにもぜひご参加ください。

よびかけ:さぼてん企画

(拡散用URL: http://is.gd/ID7fd7 )

+++++

Stop the massacre!
Stop the bombing!
End the occupation!
Free Palestinians!

Come join us at a street protest against Israel’s attacks on Gaza.
Time & date: 4 to 5 pm, Satruday, November 24, 2012
Venue: On the western side of Kawaramachi Street, Sanjo-Kawaramachi,
Kyoto

Bring your own banners, signs, and placards.
If a cease-fire materializes, we will still meet and protest.

Organized by Saboten Kikaku (the Cactus Planning)

++++++++
以上


 

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明日に向けて(582)沈黙を破ってーグアテマラの女性たちの勇気ある声(上)

2012年11月17日 12時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121117 12:00)

広島県呉市のホテルからです。明日の広島市の講演のために訪れています。

昨日、他の用事もあって広島に来たのですが、その前日、15日に京都でグアテマラ戦時下性暴力スピーキングツアー2012に、スタッフの一人として参加しました。「沈黙を破って」はそのタイトルです。

今回、発言されたのは、グアテマラで性暴力にあった女性たちを支えているアリシア・ラミレスさんですが、発言を聞いていて大変、共感しました。ただちにノートテークをしましたので、何はともあれみなさんに読んで欲しいと思います。通訳の新川志保子さんの事前説明も加えます。

本当はコメントしたいことがたくさんあるのですが、文字起こしが長いので、先にその全文を掲載し、後にコメントを書きたいと思います。

なお、このスピーキングツアーは現在、広島市に来ています。二つの会場で行われます。グアテマラの民芸品の販売もしていますので、お近くの方、ぜひお越しください。僕は自分の企画などのスケジュールでいけませんが、、直接、お話を聴き、文面では紹介できないスライドなども見ていていただけたらと思います。スケジュールを示しておきます。

■11月17日(土) まちづくり市民交流プラザ(広島)19:00~
 猪原(082-294-2953)
■11月18日(日) カフェ・テアトロ アビエルト(広島)17:00~
 猪原(082-294-2953)

http://recomblog.blog92.fc2.com/

以下、京都講演の内容をお伝えします。長いので2回にわけようかとも思いましたが、広島講演が今日、明日と行われていることを鑑みて、いっぺんに掲載することにしました。長文をご容赦ください。

*******

グアテマラ・マヤ 戦時下性暴力 スピーキングツアー2012
沈黙を破って アナ・アリシア・ラミレス・ポップさん

2012年11月15日 京都市東山いきいき市民活動センターにて

通訳・新川志保子さんによる事前説明

今日の通訳をする新川志保子です。もう一人助っ人がいます。石川智子です。彼女がアリシアさんへの日本語からスペイン語への通訳を担当してくれています。

今日はアリシア・ミレさんのお話を聞いていただくわけですが、その前に、グアテマラで取り組まれている性暴力プロジェクトと裁判についての少し説明をしておきたいと思います。
グアテマラは人口が1200~1300万人の国、過半数が先住民族のマヤの人々です。マヤの人日は、スペインの侵略以降、人口の大多数であるにもかかわらず、差別されて搾取されてきました。

今世紀に入ってから、土地問題を改革しようとする自由主義政権が生まれました。しかし当時から力をもっていたアメリカ合衆国が介入。自由主義的な改革を心よく思わないアメリカ政府が後押しして1954年に軍事クーデターが起こります。
これに対して反政府ゲリラが生まれてグアテマラは内戦になります。これが1960年から1996年まで36年にわたりました。その36年間の中でも、とくに80年代初頭、80~82年に、ものすごい暴力がふるわれた時代でした。

ゲリラの勢力拡大に対して危機感を持った政府軍が、ゲリラ勢力一掃作戦を繰り広げるわけです。ゲリラをせん滅するためには、ゲリラを支援している人々ごと殺そうという焦土作戦が展開され、主にマヤの農村部で行われました。
被害のほとんどはこの時代に集中しているのですが、内戦全体で20万人以上が殺されたり、行方不明にされました。マヤの農村部の村々が440も焼き払われました。犠牲者の人々のほとんどがマヤの人々でした。

軍に襲われたところではほとんどと言っていいほど、女性に対する性暴力が兵士によって行われました。しかしグアテマラだけではないですが、性暴力の被害はなかなか表に出せません。被害を受けた女性たちが沈黙を強いられ、苦しみ続けてきた女性がたくさんいます。

1996年に内戦が終わりました。その前にカトリック教会が被害の実態を報告していますし、和平直後にも国連の真相究明委員会ができて、報告書がでました。二つとも内戦中に行われた人権侵害の数々を述べています。
性暴力についても触れているのですけれども、しかし自分に起こった被害を話せる女性が少なかったために、被害の実態、どれぐらいの女性が被害にあったのかが把握できませんでした。それでこの問題をなんとかしようと、性暴力の問題、ジェンダーの問題で活動する女性たちが出てきました。

そうした中で、2000年に東京でアジアの女性たちにより、性奴隷制の問題を告発する民衆法廷が開かれました。法廷は3日間だったのですが、1日、国際公聴会も行われました。ここでは過去に起こったことだけではなく、現在まで起こっている問題としてとりあげようということで、世界各地の紛争地から被害を受けた女性たちを招いて実態を知ろうとしました。

そこにグアテマラから1人の女性が参加しました。ヨランダ・アギラルさんという女性で、やはり内戦中に秘密警察に捕らえられ、数週間にわたって拷問と強姦を受けました。生きて帰ってこれましたが、その経験を話してくれました。
そのとき彼女が言ったのは、性暴力の被害者は、とても苦しんできたけれども、しかし被害者の立場だけにとどまってはいけないということでした。

そのヨランダさんが、女性法廷を傍聴し、アジアの女性たちの証言を聞いて、とても強い印象を受けるわけです。女性たちのエネルギー、民衆法廷を開いた人たちの努力を実感し、グアテマラに帰ってからぜひ自分もそのような活動をしたいと決心するわけです。それで仲間を募ってはじめたことが、アリシア・ミレさんのプロジェクトにつながっていくわけです。

性暴力にかかわらず、グアテマラの内戦の被害者のほとんどはマヤの人々です。性暴力を受けたのも大部分がマヤの人々です。農村のマヤの人々は、スペイン語を話さない人が多いのですね。
またマヤの言語も同じマヤ系でも23の異なる言語があって、似ているところもありますが、お互いに通じない言葉もあるわけです。そういう障害もありますが、その中で性暴力を問う活動を始めていって、グアテマラの3つの地域から60人の女性が参加して始まりました。

女性たちの状況を知ってみると、やはり被害を受けて、心の傷が相当に深いことが分かりました。そのためメンタルヘルスも必要だということになり、そうした活動をしている組織が加わりました。また女性の権利のための活動をしている組織も加わって、二つの組織によって運動が始まりました。

それが現在にどういたっているかをアリシアさんに聞いて欲しいと思います。それがどんどん広がっていって、2010年に戦時下性暴力に関する民主法廷を開催するに至りました。
民衆法廷は非常に成功したのですが、それに力を得た女性たちが、グアテマラはまだまだ危険な状況であるにも関わらず、やはり加害者の処罰を要求したいといういことで、15人の女性たちによる集団訴訟が始まるところです。この辺の経緯も、女性たちにずっと寄り添っているアリシアさんから聞ければと思います。

アリシア・ラミレスさんは、今年、36歳のマヤ女性です。4歳のときに村が軍に襲われて、命からがら家族と逃げるという経験をしています。屍を乗り越えて走って逃げたのを覚えているそうです。着の身着のままで、軍に殺されないために、山の中を逃げました。
いろいろな経験をして、家族とも離れたりしたそうです。そのあと、少し大きくなってから学校にいけるようになりましたが、12歳までスペイン語は話せなかったそうです。

その後成長する中で、真相究明活動に参加し、自分や家族に、村、マヤの人々に起こったことを学び、理解を深めました。そういう中で戦時下性暴力のサバイバー女性たちの集まりにも参加するようになり、メンタルヘルスの立場から女性たちをサポートする団体、「社会心理行動と共同体研究グループ(ECAP)」のファシリテーターとして活躍しています。

彼女はマヤ語とスペイン語を話せるので、女性たちの信頼を得ています。立場もよくわかっています。そのためマヤ語とスペイン語の通訳も行い、裁判でも公式通訳として重要な役割を果たす方です。ということでアリシアさんの話を聞きたいと思います。

 

アリシア・ラミセスさんのお話

どうもありがとうございます。最初に説明がありましたので、私は、現在私たちが行っている活動について説明したいと思います。

スクリーンに写真が出ていますけれど、これはマヤの儀式の祭壇の写真です。本当は儀式をしたいのですけれど、今日は写真を使いたいと思います。重要なことをするとき、成功を祈るときなどに、私たちはこのような祭壇を作って儀式を行います。
ここには東西南北の方向や、マヤの世界観が盛り込まれています。色に意味があります。二つだけ重要な色を説明しますが、緑は私たちがたどるべき道を表しています。黄色は家族のつながりや団結、連帯を意味します。

さきほど説明にもあった、ヨランダ。ギラルさんの経験から、グアテマラでも同じような活動しようということになり、2002年から始めました。内戦中、とくに暴力のひどかった時代に被害をうけた女性たち、心の傷を吐き出せないで苦しんできた女性たちがたくさんいましたが、そういう女性たちを探しはじめました。

最初に活動に参加している一人の女性の話をします。マルガリータさんです。被害を受けたときは24歳でした。すでに結婚していて3人の子供がいて4人目がお腹にいました。軍がやってきて夫が拉致されて、今もどこにいるのか、あるいはどこに埋められているのかも分からない状況です。悲劇はそれだけでは終わらずに、彼女の町に軍の駐屯地ができましたが、そこに連れて行かれてて、6ヶ月の間、性奴隷にされていました。毎日、兵士たちのために食事を作り、洗濯をする労働をさせられた上に、毎日、兵士5人ぐらいに強姦され続けました。

マルガリータさんは6ヶ月、性奴隷とされたのですが、唯一、逃れることができるのは、誰か男性を見つけて再婚することでした。軍の駐屯地に連れ込まれる女性は、12歳から14歳といった結婚前の女性か、夫がいない女性、殺された女性でした。それは女性が所有物だということともつながると思いますが、誰かと結婚すると性奴隷にされることからまぬがれられました。彼女もそこから逃れるために再婚したそうです。

このマルガリータさんだけではなくて、多くの女性たちがすさまじい経験をしています。それでそういう女性たちに同伴しながら活動するために、最初は、「社会心理行動と共同体研究グループ(ECAP)」、エカップというのですが、その団体と、女性の権利、ジェンダー問題について活動している組織、「グアテマラ全国女性連合(UNAMG)」、ウナムヘという二つの団体の共同として活動を始めました。

グアテマラのマヤの人々の間には23の言語があります。多くの地域から女性たちが参加しています。現在は110人です。(注 地図を示して活動地域の名前、そこで使われる言語の説明がありましたが、メモしきれなかったので割愛します)

このプロジェクトは内戦の性暴力に関して始まりましたが、その後に2007年からの鉱山開発とプランテーションづくりのときに、地域の人々の強制立ち退きが行われました。そのときに軍や警察官が入って暴力が振るわれ、そのときも性暴力が発生しました。そのためその被害女性たちにもアテンドすることを始めています。

私はECAPの仕事=メンタルヘルスの活動をしていますが、チームを作って女性たちと行います。そのチームにはメンタルヘルスの基礎を学んだプロモーター女性、マヤ女性で言葉が同じ人たち、それから心理学を学んで、心の傷をケアする方法をもった女性たちがいて、それでチームを作っています。

まず同じ地域に住む女性たちでチームを作り、相互の信頼と連帯を築き、互いに秘密を守ることを基本に活動しています。その中で女性たちが自分の身に起こったことを、恐怖を克服して、沈黙を破って話し出すというプロセスを経るわけです。それでプロジェクトの名前も、「沈黙を破る女性たち」となっています。

こういう活動を通じて、女性たちが自分に自信を持つ、あるいは自分に価値を見出し、自分を信頼する過程が始まります。けして彼女たちに起こったことを話してもらうことを強制しません。自分で納得して話ができるまで待ち、そういう状況を作っていくという活動です。
そのためには心理学的な方法論が非常に重要です。こういうセッションを続けることで、女性たちが加えられた物理的な害、心理的な害、そして社会的な害に対して、女性たちが気づいていくことが大事です。

社会的な害という場合、軍がやってきて強姦される場合、人々が集まる公共の場で行われたことが多く、そういう経験は女性たちにとって決定的な傷で、それ以来、悪夢が続く状況だったわけです。その意味で社会的被害を認識するのはとても重要です。

そうした女性たちへのケアの方法論として、アートセラピーというものを使いました。これはエルサルバドルにあるアートスクールの支援を受けて、粘土で自分に起こったこと、自分がどう感じているかを形で表すエクササイズを行いました。また壁画でも表現しました。こうしたアートセラピーを5年間、続けました。社会心理学的な観点から非常に役にたった方法でした。

アートセラピーでいろいろなものを作り、自分に起こったことは思いを表現するわけですね。カラフルな壁画の写真をお見せしましたが、2008年に共同で製作した壁画です。1週間かかって描きあげたのですが、サイズは縦2メートル、横4メートルでした。

作り終わってから、学生たちにそこにを話す機会が何回かありました。女性たちは30年間話せなかったわけですけれども、はじめて話して、しかもそれを説明するところにまで至ったのですね。それですごく女性たちがエンパワーメントされたのですが、その中から、民衆法廷を行いたいという希望が生まれてきたわけです。

民衆法廷時代は2010年でしたが、その準備期間中に、物理的な準備だけでなく、女性たちの活動を支援すうために、女性たちが住む地域のリーダーたちにたいする意識化キャンペーン、人権意識を広めることや、過去に起こったことをどのように解釈するかなどに取り組みました。

民主法廷とは言え、法廷ですので、このあたりから女性の弁護士の組織のMTM、「世界を変える女性たち」という弁護士組織が運営に関わりだしました。ですから最初にあった2団体と、このMTMの3つで法廷を開催し、今もプロジェクトの運営をこの3団体で行っています。

女性たちが作った壁画を再度、お見せしますが、これは女性たちに起こった恐怖を表現しています。兵士たちがいて、通るところ、見つけるものをすべて破壊していった。家が焼かれ、家畜が殺され、人々が殺されて、埋められて秘密墓地ができました。それらが表現されています。

そういう形で3団体で行いました。チームで女性たちが集まっている写真がありますが、このように月に1、2回ですが、チームと女性たちで集まり、いろいろなことを話し合いました。
2009年に、2000年の女性法廷の開催に大きな役割を果たしたジャーナリストの松井やよりさんが亡くなられて、その意思をつぐ「やより賞」という女性人権賞ができたのですが、それをこのチームが受賞しました。

その副賞が2000年の民衆法廷のビデオだったのですが、それを持ち帰って、民衆法廷の前に女性たちとみてとても役に立ち、力をもらえました。女性たちだけでなく、コミュニティのリーダーの意識化をする上でもとても役に立ちました。

それで2010年民衆法廷が開かれ、名誉判事が4人参加しました。実はそのうちの一人は私(新川)でした。レコムから支援をしているということ、日本との関わりもあるので一人入って欲しいということでえ、判事になりました。

私(アリシア)は民衆法廷のときは、ケクチ語(注 グアテマラ高地で使われているキチェ・マム語群の一つ)とスペイン語の同時通訳も務めました。女性たちは法廷に出た場合、まだまだグアテマラでは身元がわかると危険なことが多いので、法廷では顔を隠して証言しました。

全員証言するのは時間的に無理だったので、各地域から代表を出して話してもらいました。このときは3団体のほかに、グアテマラ・マヤ女性の会で、コナビグア、「連れ合いを奪われた女性の会」も共催団体とし参加してくれました。

この民衆法廷は大成功でした。たくさんの人が傍聴に来てくれたほかに、国際社会からも大きなプレゼンスがありました。各国大使もきましたし、国連の女性関係の機関などもきました。各国からの支援団体も集まってきました。
参加した女性たちにとってそれを見ることは本当に重要なことで、女性たちの勇気を讃えるという人々の気持ちが、非常に大きな励ましとなりました。

私は同じケクチ語地域の女性たちをアテンドしていたのですが、民衆法廷にみんなでバスをしたてて参加しました。終了後に同じバスで帰ったのですが、女性たちが、ついに自分たちのことを話すことができたと、とても喜んでいたし、多くの人の励ましがあったということをとても喜んで、みんなで歌を歌いながら帰りました。

内戦が終わった後、真相究明委員会報告などが出ましたけれども、そこには性暴力は本当にわずかしか書かれていないのが現実で、実際に被害を受けた女性たちはたくさんいるのにもかかわらず、社会的な刻印をおされて、話せないでいる人がまだまだいるわけです。

この民衆法廷のあと、さらに活動を続けて、女性たち住む地域、コミュニティで13歳から19歳の子ども、若者を対象にした意識化キャンペーンを行いました。子どもたちは過去に何が起こったのかわかっていないので、自分たちの村に何が起こったのか、あるいは性暴力の問題をもっとよく理解もらうためのキャンペーンです。

さらにコミュニティの中で、重要な役割についている男性たちも対象にし、性暴力の問題や人権について、意識を持ってもらうためのキャンペーンも行いました。学校の教師たちを対象にしたキャンペーンも行って、なるだけ私たちの活動の後ろ盾になってもらおうということも含めて、こうした人たちを対象にした活動も行っています。
こういう活動を続けることで、女性たちにとってだけでなく、わたしたちにべてにとっていい社会が作られていくのではないかと思います。

民衆法廷が終わった後に、この性暴力についてのプロジェクトに参加している110人のうち15人が、社会がもっと自分たちに起こったことを知るべきだという強い希望をいただきました。性奴隷にされたのは自分たちのせいではないということを差社会が知る必要があるし、責任があるのは軍の方だということをさらにはっきりさせいという意志を表明したのです。

それで刑事裁判を始めることになったわけです。2011年に共同告訴人として警察に告発を行いました。民衆法廷を通じて理解を得られた人たちの協力を得ながら準備をしてきました。

それで今年になって、9月24日の週から、女性たちが裁判所で、-グアテマラの裁判所には幾つかの犯罪の種類によるカテゴリーがあるのですが-重罪を扱うハイリスク裁判所というところで、判事、裁判官、弁護士の立会いのもとに、この15人が、自分に起こったことを証言しました。マスメディアもやってきて話題になりましたが、通訳が3人ついて、私はその一人でした。

これまで何年も女性たちと一緒にやってきていて、女性たちに起こったことを十分知ってはいましたが、そういう場であらためて通訳すると、話した女性たちはもちろんですけれども、通訳した私たちも、本当にその内容のひどさに辛い思いをしまいた。

例えば証言した女性の一人は、軍の弾圧を受けて着の身着のまま、山に逃げこまなければいけなかったのですが、小さな子どもを3人、4人連れていました。山の中で食べるものが何もなくて、子どもたちが一人一人、餓死していきました。その子どもたちを埋めなければならなかったという証言があり、話している本人もそうですし、通訳している私たちも本当に辛い思いをしました。

けれども、証言が終わって、女性たちが家に戻って、その人たちの安全確認のために3日後にまた彼女たちに会いに行きましたが、そのときにこの証言をした女性が、これでもういつ死んでもいい、自分に起こったことを話すことができたので、いつ死んでもいいと話してくれました。こうやって女性たちは、沈黙を破ることができて、とても満足していると言ってくれました。

他の地域からこのプロジェクトに参加している女性たちも同じような経験をしていますが、ある地域の女性たちは性暴力を受けたあと、トラウマがあまりにひどくて家から出られないという生活を続けていました。しかしこういう活動に参加して、少しづつ力をつけて家からでれるようになり、その中の活動にもだんだんと参加するようになるまでにいたっています。

やはりこのプロジェクトの目的は、女性たちが自分の人生の主人公になること、人間として、女性として自分に価値があるのだということを、自分自身で認識していくことなので、こういう成果があがっていることはとても良いことだと思います。

裁判の話に戻りますと、この女性たちに起こったことは30年ぐらい前のことですので、年齢も55歳ぐらいから70代になります。この中の一人、マグダレイナポップさんという人は、今年53歳です。去年、子宮がんがあることがわかり、手術をしましたが、また再発しています。しかしこうした費用も国際的な支援で賄うことができました。

最後に、こういう性暴力の悪循環を断ち切らねばならないわけですが、最近でも起こっている鉱山開発やプランテーションを作ることに伴う強制立ち退きのさいに、性暴力が起こっています。それで先ほども述べたように、今、19人の女性たちをアテンドしていますが、この方たちはみんな20代、22歳から28歳です。

こうした被害者がまだまだ出ているわけで、こうした悪循環をなんとか断ち切らなければいけないと思います。しかし今のグアテマラの大統領は元将軍で軍人出身です。軍事政権ではありませんが、軍人が大統領になっていて、難しい状況です。

最後に、この15人の女性のうちの一人の言葉を伝えて、締めくくりたいと思います。
「自分はいま、種を撒いている。その収穫を自分は見届けることはできないけれども、自分に続く女性たちのどんな女性も、こういう私に起こったことで苦しまないために種を撒いている」という言葉です。

ということで裁判はこれから始まります。女性たちの証言が終わったところで、今後、裁判所によって被告の特定がされて、逮捕礼状がでて、逮捕がなされて裁判が進んでいくわけです。今後、まだまだ余談は許さず、15人の女性たち、裁判に関わる人々の安全の確保が今後の課題になってくると思いますが、3団体の連携で、なんとかやっていきたいと思います。

最後に、私は日本にきて「ありがとう」という日本語を覚えました。ケクチ語では「アンティオッシュ」といいます。ありがとうございました。

続く

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明日に向けて(581)ビキニ環礁水爆実験を問い直す(下)の2

2012年11月15日 07時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121115 07:00)

連載の続きを紹介したいと思います。
(580)の最後に、1963年、ついに「部分的核実験禁止条約」が実現されたことを紹介しましたが、私たちはこの一連の過程から二つのことを押さえておく必要があります。一つに1940年代から50年代に続けられた核実験によって、私たちの多くが実は大きな被曝を強いられてきたことです。
しかし一方では、子どもと未来世代を守ろうとした当時の女性たちの本当に必死になった立ち上がりによって、私たちが大きく守られたことをみることができます。
あのときの核実験がなければ、私たちの周りで今、発生しているガンの多くは発症しなかった可能性があります。しかし他方で、あのまま核実験が進めば、私たちの今は、もっと陰惨で、暗いものであった可能性もあります。

こうしたことを物語るデータの一つに、アメリカにおける学力試験の推移があります。これについては、アメリカの統計学者ジョン・M・グールドらが執筆し、肥田舜太郎さんらが翻訳した著書『内部の敵』に詳しく書かれています。
第三章「低体重児出生とベビーブーム世代の免疫不全」から引用します。

「1945年生まれの子供が18歳になった1963年は、大学に進む既望に燃えてSAT試験(高校受験適正検査)を受け始めた最初の年であった。それはまた~殆ど20年間続いていたSATの通常の成績が、~突然、予期しなかった下降を始めた年でもあった」(同書P45)
「1963年から20年近く続いたSAT成績の低下は、1945年から1963年までの地上核実験に一致した低体重児出生の百分率の上昇の姿を、正確に、正反対に模写している。それらの年に起こった胎児のホルモン系と免疫系の組織に対する攻撃は、結果として750万のベビーブーム世代の多くに精神的、肉体的、精神医学的名問題を引き起こし、苦しめてきた」(P47)
「1994年に教育省が行った教育の進歩に関する評価では、1950年代から凡そ1964年までに生まれた子供の読書、数学、科学の成績が同じように低下し、その後、軽く上昇していることを示している」(P47)

これはネバタ砂漠という直近で繰り返し核実験を行われたアメリカの人々の記録ですが、いずれにせよこの世代を生きてきた私たち、あるいはこの世代を親に、祖父母に持つ私たちは、米ソ政府を初め、当時の核実験当事国に対して、刑事告発をすべきだし、当然のものとして命を傷つけられたことへの補償を求めるべきです。
それと同時に、私たちと、今の子どもたち、つまり当時の人々にとっての未来世代を守ってくれたあのときの女性たちを先頭とした輝かしい運動に、深い感謝をささげる必要があります。大気中核実験が続けば被害はもっと甚大になっただろうからです。

1959年生まれの私も、小さいときに母親に「雨にあたると頭が禿げるから当たっちゃだめ」と激しく諭された覚えがあります。母は積極的に社会運動を担う人ではありませんでしたが、周りの多くの女性の叫びを聞いて、私を守ろうとしてくれたのでしょう。
子どもの私は、なぜ雨に当たると頭が禿げるかが分からずとにかく怖いと思ったこと、それでも母の真剣なまなざしに、分からなくても聞かなくてはいけないなにかを感じたことを覚えています。その後、小学生高学年になって広島原爆を描いた漫画『はだしのゲン』を読み、ゲンの頭髪が抜けてしまうことをみて、「これかあ」とゾーっとしたことを覚えています。

しかし同時に今、私たちが見つめておかなければならないのは、このように日本国内だけで3000万人という空前の署名運動が実現され、さらに大気圏内核実験を中止に追い込みながら、私たちの世の中が、原発建設を容認してしまったこと。核兵器反対を原発反対につなげられず、核の世界にとどめをさせなかったことです。
そもそも原発の建設そのものが、核兵器反対運動の高揚に対し、「原子力の平和利用」を対置して、「核」を生き延びさせる位置性を多分に持っていたのでした。当時の人々はこれを打ち破ることができなかったのです。

原子力の平和利用宣言が出されたのは1953年。アイゼンハワー大統領のもとによってでした。アメリカは国内の汚染の高まりへの不安に対置する形で「平和利用」を持ち出しました。
ではなぜ原発建設が必要だったのでしょうか。原爆を作るためにはまずウランを濃縮させる必要があります。天然のウランは0.6%しか核分裂しません。正確には0.6%のウラン235が核分裂性であり、残りのウラン238は核分裂しないのです。
ところがこの核分裂しないウラン238に中性子があたると、それが取り込まれてウラン239になり、それが変化を重ねてプルトニウム239が生まれます。それが原爆の主要な材料とされたのです。

原子炉はもともとこのようにしてプルトニウムを取り出すために作られた装置でした。濃度を高めたウランがあってはじめて核分裂の連鎖反応が起きる。このとき放出される中性子が、ウラン235とともに装着されたウラン238にあたるとプルトニウムが生まれる。
そのためもともと原子炉はプルトニウム生産炉と呼ばれていました。そしてこの炉の運転の前提をなすのがウランの濃縮でした。

しかしウラン濃縮の工程が大変、複雑であるため、必要な量だけを的確に作ることができませんでした。濃縮ウランはどんどんできてしまうのです。だからといって濃縮工場をいったんとめてしまうと再稼動に非常に長い時間がかかる。冷戦下における兵器製造工場としてはそれではまずい。
そのため膨大に生み出されてくる濃縮ウランの使用先が求められたのです。そのとき着目されたのが、核分裂の際に膨大な熱が生まれ、冷却剤が必要でそれが熱を持つことでした。思考錯誤の末に冷却材は水に落ち着きましたが、水は熱せられて膨大な水蒸気を生む。ならばそれでタービンを回そうと生まれたのが原子力発電だったのです。

このように原発は、濃縮ウランの需要先を作るために必要とされた位置を持っていました。アメリカはそれを「原子力の平和利用」に結びつけ、推進を開始したのです。
この原発の推進において大きな位置を持った国が、ほかならぬ日本でした。なぜか。日本が唯一の被爆国だったからです。原子爆弾で被災した日本人が自ら原子力発電を進める。これほど悪魔の殺人兵器、原爆から転換し、「平和のための利用」という原発のイメージを上げるものはありませでした。

さらに最近、出てきた情報では、日本への原発の導入は、ビキニ環礁での被災に対し、女性たちを中心に始まった反核運動を押さえ込む奥の手そのものとして行われたという論も出てきています。それが先にも紹介した『戦後史の正体』(孫崎享著 創元社)の記述です。
当該箇所では読売新聞正力松太郎の懐刀であった柴田秀利の著作『マスコミ回想録』から次のような引用がなされています。孫引きで恐縮ですが紹介しておきます。

「第五福竜丸がビキニ環礁水爆実験で被爆します。これを契機に、杉並区の女性が開始した原水爆実験反対の署名運動はまたたくまに3000万人の賛同を得、運動は燎原の火のごとく全国に広がった。このままほっておいたら営々として築きあげてきたアメリカとの友好的な関係に決定的な破局をまねく。
ワシントン政府までが深刻な懸念を抱くようになり、日米双方とも日夜対策に苦慮する日々がつづいた。そのときアメリカを代表して出てきたのが、ワトスンという肩書きを明かさない男だった。
数日後、私は結論を告げた。『日本には昔から毒には毒をもって制するということわざがある。原子力は双刃の剣だ。原爆反対をつぶすには、原子力の平和利用を大々的に歌い上げ、それによって偉大な産業革命の明日に希望をあたえるしかない』と熱弁をふるった。この一言に彼の瞳が輝いた。
『よろしい。柴田さんそれで行こう!』彼の手が私の肩をたたき、ギュッと抱きしめた。政府間ではなく、あくまでも民間協力の線で「原子力平和利用使節団」の名のもとに、日本に送るように彼にハッパをかけた。
昭和30年元旦の紙面を飾る社告を出して天下に公表した」(同書P176)

この文書は孫引きですし、「原爆反対をつぶし、原発を導入した功績」を柴田という人物が誇っているもので、どれだけの信憑性があるのかは分かりません。ただこうしたことを書きうるような背景があったことは事実なのではないかと思えます。まさに原発は、核兵器反対運動への対抗軸の位置を持って導入されたのです。

ではどうして当時の人々は、原水爆には対抗できても原発には対抗できなかったのでしょうか。詳しくは歴史を総括しなければならないことですが、僕は二つのファクターをおさえておくことが大切だと思います。
一つに、核実験反対運動が、低線量被曝の恐ろしさを暴くものとして進められながら、内部被曝の恐ろしさが徹底して隠されていたことで、そこまで突っ込んだ暴露がなされなかったことです。
もう一つは社会運動を担う人々の多くも、エネルギーが大きくなり、生産力が高まることが、未来の幸福の拡大の必要条件だと捉えており、原子力の利用もその一つと想念された面があることです。

その象徴の一つが、手塚治虫さんが書かれた漫画、『鉄腕アトム』ではないでしょうか。鉄腕原子君です。原子君の妹はウランちゃん。お兄さんはコバルト君。物凄い原子力一家です。しかしアトム君は「心優しい、科学の子」としてとらえられました。
もちろん手塚治虫さんが間違っていたとか、そういうことが言いたいのではありません。あれほど命を大事にした手塚さんでさえそうであったこと、つまりそれは歴史の限界であったのだと僕には思えるのです。

そしてそのことは、なぜ当時の運動が反原発へと高まらなかったのかをこれ以上、考えることよりも、まさに今こそ、1950年代に果たせなかった核の真の意味での廃絶という課題を受け継ぎ、実現すべき時なのだということを私たちに問うているのだと僕は思います。
その意味で1950年代の運動に感謝すべき私たちは、まさにあれから60年ぶりとも言えるような、大きな核反対の運動をさらに育て、今度こそ、核の時代を本当に終わらせるところにまで進む必要があります。その際の重要なキーワードこそ「内部被曝」です。
1950年代のバトンを受け継ぎ、走り、未来世代に何かを投げていくこと、それを自らに問うことが、ビキニ環礁水爆実験を、今、問い直すことであると結論づけて、この考察を閉じたいと思います。

終わり

 

 

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明日に向けて(580)ビキニ環礁水爆実験を問い直す(下)の1

2012年11月14日 22時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121114 22:00)

11月11日に全国で脱原発行動が取り組まれました。あいにくの雨でしたが、首相官邸前がたくさんの方の傘で埋まったほか、各地でいろいろな取り組みがなされたようです。雨の中、行動に参加されたみなさま、本当にご苦労様でした。

すでにお知らせしたように、僕はこの日に京都市内の醍醐で行われた「母親大会」に参加して、講演させていただきました。今回は、『放射線を浴びたX年後』の文字起こしなどにより、この母親大会が行われた1950年代のことを調べ、当時、非常に大きな反核運動が行われたこと、そのアウトラインをお話しました。今に直接につながる大きなものがそこにあるからと思ったからです。
連載「ビキニ環礁水爆実験を問い直す」の(下)、最終稿はこのことを記しておきたいと思います。なお論考が長くなったで、1と2の2回に分けます。


1954年3月1日、アメリカはビキニ環礁において、水爆ブラボーの爆発実験を行いました。広島原爆の1000倍の威力をもった水爆でした。このとき周辺の島々に住んでいた250名近い人々や、近くで操業していた第五福竜丸をはじめとする日本の多くの漁船が被ばくしました。
しかしアメリカは、第五福竜丸が焼津の港に戻った3月14日以降も引き続いて核実験を強行、5月までに6回もの連続した実験を行っています。続けて行われのは「ロメオ」3月27日、以下、「クーン」4月7日、「ユニオン」4月26日、「ヤンキー」5月5日、「ネクター」5月14日でした。これらにより、日本の漁船の被ばくは1000隻近くもが被ばくしてしまいました。

この相次ぐ核実験の強行とマグロ漁船の被ばくの中で、私たちの国の中から非常に大きな反核運動が沸き上がりました。運動を始めたのは、放射能が撒き散らされ、子どもたちが被曝することを憂いた女性たち。発火点になったのは東京杉並区の魚屋さんでした。
まず4月15日に、杉並の魚屋、菅原トミ子が、杉並区立公民館の婦人週間講演で発言。核実験の廃絶を訴えました。これを受けて4月17日に杉並区議会が水爆禁止決議を採択。さらに水爆禁止を求める署名運動開始が検討され、5月9日に「水爆禁止署名運動杉並協議会」結成。人々の集いの場であった杉並公民館長の安井郁が議長になり「杉並アピール」が採択されます。
少し長いですが、アピール全文をここに引用しますので、ぜひ、文面から当時の雰囲気をつかみとってください。

***

全日本国民の署名運動で水爆禁止を全世界に訴えましょう

広島長崎の悲劇についで、こんどのビキニ事件により、私たち日本国民は三たびまで原水爆のひどい被害をうけました。死の灰をかぶった漁夫たちは世にもおそろしい原子病におかされ、魚類関係の多数の業者は生活を脅かされて苦しんでいます。魚類を大切な栄養のもとにしている一般国民の不安も、まことに深刻なものがあります。
水爆の実験だけでもこのような有様ですから、原子戦争がおこった場合のおそろしさは想像にあまりあります。たった四発の水爆が落とされただけでも、日本全土は焦土になるということです。アインシュタイン博士をはじめ世界の科学者たちは、原子戦争によって人類は滅びると警告しています。
この重大な聞きに際して、さきに国会で水爆禁止の決議がおこなわれ、地方議会でも同じような決議がおこなわれるとともに、各地で水爆禁止の署名運動が勧められています。しかしせっかくの署名運動も別々におこなわれていては、その力は弱いものです。ぜひこれを全国民の署名運動に統合しなければなりません。
杉並区では区民を代表する区議会が四月十七日に水爆禁止を決議しました。これに続いて杉並区を中心に水爆禁止の署名運動をおこし、これをさらに全国民の署名運動にまで発展させましょう。そしてこの署名にはっきりと示された全国民の決意にもとづいて、水爆そのほか一切の原子兵器の製造・使用、実験の禁止を全世界に訴えましょう。
この署名運動は特定の党派の運動ではなく、あらゆる立場の人々をむすぶ全国民の運動であります。またこの署名運動によって私たちが訴える相手は、特定の国家ではなく、全世界のすべての国家の政府および国民と、国際連合そのほかの国際機関および国際会議であります。
このような全日本国民の署名運動で水爆禁止を真剣に訴えるとき、私たちの声は全世界の人々の良心をゆりうごかし、人類の生命と幸福を守る方向へ一歩を進めることができると信じます。

1954年5月 水爆禁止署名運動杉並協議会 議長 安井郁

***

署名は5月13日に開始され、瞬く間に広がりだしました。6月20日、259,508名、6月24日、265,124名を記録し、当時の杉並区民人口約39万人のうちの7割近くとなりました。二重署名を自戒し、細やかにカウントしながらの丁寧な運動でした。
こうした成果を受けて、杉並協議会は、6月24日に署名の全国化を決定。8月8日に有田八郎(元外相)、植村環(日本YWCA会長)らが発起人となって「原水爆禁止署名運動全国協議会」を結成。安井郁杉並公民館館長が初代事務局長となり、杉並区立公民館館長室が事務所となりました。

このとき署名内容が「水爆禁止」から「原水爆禁止」へと変わりました。このことには大きな意味があります。
というのは署名は当初から原水爆の惨禍を訴えていたものの、そもそもアメリカの占領が解除された1952年までは、広島・長崎の被爆の一切が占領軍の軍事機密に指定され、触れることが許されていませんでした。そのため運動を盛り上げるためにあえてビキニ環礁の水爆実験に対象をしぼる配慮が当初は必要と考えられたのでした。
しかし署名が杉並区から全国へと拡大される中で、この「戒め」が破られ、はじめて日本全土に「原水爆を許すな」という声を響き渡らせる運動が始まったのです。

(なおこれらの内容については杉並区の公式サイト「すぎなみ学倶楽部」に大きく教えられました。アドレスを記しておきます。http://www.suginamigaku.org/content_disp.php?c=45c7e9833bafe&n=1

こうした中で、9月23日に、第五福竜丸無線長・久保山愛吉が急性放射能症で死去。署名運動はさらに拡大していきました。どこでも署名の先頭を担ったのは女性たちでした。保守・革新を問わず、ありとあらゆる組織が参加したのも大きな特徴でした。インターネットも携帯電話もなく、顔と顔をつき合わせての運動が問われたこの時期に、署名はどこまでも拡大していきました。
1955年になると女性たちは6月7日から9日に、第一回母親大会を開催。世界の女性に行動を呼びかけていきます。このもとに7月7日から10日、スイス・ローザンヌで第1回世界母親大会が広かれ、68カ国1060名が参加しました。命を守るために世界の女性たちが手をつないで実現した成果でした。

女性たちの活躍に牽引されつつ、国内ではさらに8月に被爆地広島で第1回原水爆禁止世界大会が行われ、杉並から生まれた「原水爆禁止署名運動全国協議会」は「原水爆禁止日本協議会」へと発展的に解消しました。
署名数自身はこの間にもどんどん伸び続け、11月の最終集約までになんと32,590,907名分が集まりました。日本の人口の3割にもおよぶ大署名が実現されたのです。

被爆国日本でのこの熱い運動は世界の共感を呼び起こしました。こうした共感には核実験の繰り返しで、被曝への危機感が高まったことも反映していました。とくにアメリカでは、ネバタ砂漠での実験の繰り返しによって、ニューヨークで売られている牛乳からも死の灰が検出されるにいたり、危機感が大きく高まりました。
これに対して核実験の一方の当事者であったソ連が、一方的に核実験の停止を宣言したことなどもあり、アメリカも核実験の抑制に進まざるを得ず、ついに1963年に「部分的核実験禁止条約」(正式には「大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約」)が締結されました。大気圏内での核実験が全面的に中止されるにいたったのです。

続く

 

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明日に向けて(578)ビニキ環礁水爆実験を問い直す(中)

2012年11月09日 19時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121109 19:00)

明日に向けて(576)に掲載した、南海放送制作の番組「放射線を浴びたX年後」の文字起こしの続きを紹介します。
長いので、今回は、文字起こし内容だけとし、次回の(下)でコメントしたいと思います。
以下、番組に続きの内容をご覧ください。

***********

放射線を浴びたX年後
ビキニ水爆実験、そして・・・

ナレーション
まぐろに激しく反応するガイガーカウンター。命がけで獲って来たマグロが目の前で廃棄処分される様子を、第二幸成丸の乗組員は呆然と見ているしかありませんでした。

乗組員
「放射能がかかった魚、全部、ここへ選別しましたね、ハシケ、積んでから。どの船もこういうかっとして捨てられたから」
他の乗組員
「かためてトラック積んで、どこへ捨てたかは知らんですわ。全部放棄ですよ」
さらに他の乗組員
「こんなばかげた話があるでしょうかいね。自分で、ろくに睡眠もとらんと働いて獲ってきた魚をね、捨てるなんて、考えられんでしょう」

ナレーション
「築地にまた放射能船」(新聞記事みだしをよみあげ)、第二幸成丸の被曝は新聞でも報じられました。「方向探知機から4192カウント」「乗組員の頭から224カウントの放射能反応が認められた」(記事よみあげ)」

乗組員
「私がガイガー管の測定に案内したんですよ。それで私がやられた頭で1500(カウント)いうていわれたの」
乗組員の妻 浜町霞
「俺らも調べられたいうて。私、そんときね、カウントね、放射線をあびちょったいうこと聞いてないしね」
乗組員
「ガイガー計数器いいますか。全員、やられたもんね。針がぷっと振り切れてますわね」

ナレーション
操業の様子や船の様子を細かく記録していた崎山船長。ところが日記には人体やマグロの線量は書きとめられていませんでした。そこにはある理由があったのです。

高知県室戸市の崎山宅
崎山船長の妻 崎山順子
「私たちもしゃべりとうないんですよ。こんなことしゃべったって、なんの何にもないづくで。漁協そのものは、それを公にせられると、漁協も成り立たん、魚も売れん。そうすると何じゅっぱいもの、あれ(漁船)を抱えているから、地域もなりたたにゃ、経済、補償をもらうことよりも、今日明日の生活をどう守るかということの方が、先やなかったんですか。だからその自分でいうたら、日本の国がやっと自分でつかまり立ちができるかというような情勢でしょ。
その柱は何かというと、石炭と魚ですき。あんたら思う感覚とは全然・・・。そんな中で私たちはこういう経験をしてきてるからね。で、あんたたちが考えたら、そりゃ崎山さん、おかしいやか、なんでそういうそのなにで。そりゃ、そんなもん、その当時は。そういうことをおかしいやないかいうてきづいちゅう人もあって、これは「船員に補償がなければいけん問題や」いうことは、思うた船員さんもおったかもしれませんけんど、そんなことを口に出して、いいでもしたら船に乗れません時代やありましたけ。それだけは言うちょきます」

ナレーション
水爆実験後、日本に迫る海洋汚染。日本近海の魚も被曝していました。その年、延べ992隻の船が被曝した魚を廃棄。6回におよぶ実験で、海の汚染は強まっていきます。ところが水爆実験からわずか7ヶ月。日本政府は突然、マグロの放射線検査を中止します。その4日後、次のような文章をアメリカと交わしています。

日米交換公文(昭和30年1月4日)
ビキニ被災事件の補償問題に関する日本側書簡
アメリカ合衆国政府は、日本国政府が、前記の二百万ドルの金額を受諾するときは、~すべての請求に対する完全な解決として、受諾するものと了解します

映像 ビキニ被災事件に関する慰謝料の配分について 昭和30年4月28日閣議決定

ナレーション
日本円で7億2千万円。政府は三分の二をマグロ関係者の損害にあて、残りは魚の廃棄に対する補償や、第五福竜丸乗組員の治療などに配分するとしています。日本政府は二百万ドルと引き換えに、事件に幕を引き、その後、すべてのマグロが食卓にあがったのです。
当時、口を閉ざすしかなかった乗組員たち。彼らはいったい、どれほどの放射線を浴びていたのでしょうか。

講演会映像「放射能から家族を守る食べ方の安全マニュアル」福島県福島市2011.12.9
「半減期の短いものは最初だけしっかり注意する。例えばヨウ素131であれば、最初の1ヶ月、2ヶ月。これはなんとしてでもね、被曝をしないようにしないといけません」日本大学専任講師 野口邦和

ナレーション
放射線防護学が専門で、現在、福島県二本松市のアドバイザーを務める野口邦和さんに、乗組員が浴びた放射線量の算出を依頼しました。

野口邦和
「これがクーンね、ロメオ、そしてセシウム137換算で・・・」

ナレーション
第二幸成丸から検出された4000カウントをもとに、乗組員が被曝した瞬間の放射線量を算出します。
映像 算出はGM-10ガイガーミューラカウンタノ線量率換算係数を利用しています

「かける4000。おお、とんでもない数字になりますね。方向探知機が、4000CPMの汚染があったと。これを3月27日のロメオ実験による汚染だとすると、時間あたり48.5ミリシーベルトになりますね。
ですから例えば10時間そこにいますとね、約485ミリシーベルト、約500ミリシーベルトですよね。500ミリシーベルトというと、白血球が減り始める、そういう線量に相当します。10時間いるだけでね。やはり相当な被曝、急性障害がおきてもおかしくない被曝があった可能性代ですよね、これね。」

ナレーション
第二幸成丸の乗組員22名。過酷な運命を背負った彼らは、40代、50代の若さで、次々と亡くなっていったのです。

映像 第二幸成丸死亡者(役職、没年齢、死亡原因)
甲板長 47 不明、機関長 53 心臓麻痺、機関員 54 肺ガン、機関員 54 心臓麻痺、機関員 59 血液のガン、船長 63 心臓発作、機関員 64 筋肉萎縮硬化症、漁労長 68 直腸ガン、甲板員 71 心臓麻痺、通信長 73 肺気腫、甲板員 不明 不明、甲板員 不明 肝硬変、機関員 不明 不明。

ナレーション
第二幸成丸の数少ない生存者の一人、有藤照雄さんは、現在、横須賀に住んでいます。偏見や差別を恐れ、長い間、口を閉ざしてきました。

有藤照雄
「(当時の手帳を見ながら)これ、終戦当時だから紙が悪いね。第二幸成丸の。その後、50年間、なんにも。私も自分だけに秘めて。こういう体験をしたということ、家族にも誰にも言わなかった、妹たちにも」

ナレーション
その後、有藤さんは自分の経験を妻に明かしました。

妻 有藤光江
「米軍だって、あれでしょう。そういう実験をして、人体実験みたいなもんだよねえ。主人が放射能を受けていたら、子どもが二人、生まれているじゃないですか。それでなんにも、子どもにね、具合が悪いとか、白血球が多いとか少ないとか、そういうことも全然でないし。だけどもこの子たち、父親のを遺伝して、こういうものをね、体のどっかにあるんじゃないかなあと思って、私は本当にこれ、死ぬまで心配だよね」

ナレーション
そもそも被曝したことを認められていない有藤さんたちは、国から医療費などの支援を受けることはできません。乗組員やその家族は、放射能の影響におびえながら生きていかなければならないのです。

2年前、南海放送が入手したアメリカ原子力委員会(現、アメリカエネルギー省)の機密文書。そこには6回の水爆実験によって生み出された放射性物質による汚染の実態が克明に記録されていました。
「5月初旬のヤンキーの実験の際、太平洋高気圧が強まり、日本には大量の放射性物質が降下した。多分、夏と初秋の実験では日本は最も放射能汚染されるであろう」

ナレーション
1954年3月1日、多くのマグロ漁船が操業するなか、アメリカ原子力委員会は、水爆ブラボーの実験を実施。放射性物質は東西に広がり、わずか一週間でアメリカ本土にまで達しています。
5月5日、5回目となる水爆ヤンキー。すると今度は日本が。徐々に日本列島をおびやかす汚染地図。そして5月17日、日本は放射性物質にすっぽりと覆いつくされたのです。
放射性物質の広がりを示す地図に第二幸成丸の航路を重ねて見ます。2月24日、第二幸成丸は日本を出港。3月1日、ブラボーが爆発。3月9日、第二幸成丸は放射能の領域に突入。3月11日、死の灰を浴びながら操業。そして3月27日、2回目となるロメオが爆発。新たな放射性物質が乗組員を襲います。操業を終えた第二幸成丸は4月1日、帰路につきます。
こうしてマグロ漁船の被曝は、当事者であるアメリカの機密文書によって裏付けられることになったのです。
さらに驚くべきことは実験の1年前、すでに122箇所の観測所が設置されていたことです。日本には三沢や東京など5箇所。被爆で苦しむ広島や長崎でも、アメリカは観測を行っていたのです。

野口邦和
「アメリカは世界的規模で汚染するということは、分かっていたはずですよね。というのはあのレポートを見れば、120箇所か、130箇所ぐらいに測定地点を設けて、本当に世界的な規模で、フォールアウトの影響を調べていますから。ということは世界的な規模で水爆実験をやれば、汚染は広がるということは承知していたんだと思うのですよね」

ナレーション
広島市立大学の高橋博子さんは、当時、アメリカがある想定をしていたことをつきとめました。」

広島市立大学平和研究所講師 高橋博子
「これは私が核実験当局者である原子力委員会の資料から入手してきた文書なのですけれども、なんでも影響があったかという、それを示す地図です。・・・さきほどの地図を、今度はワシントンDCを爆心地としておきかえたものがこちらの地図なのですけれども・・・」

ナレーション
原子力委員会は、水爆ブラボーがアメリカ本土で爆発したと想定し、どのような被害がでるかを検証していたのです。爆心地はワシントンDC。被害想定は、およそ200キロ離れたフィラデルフィア

高橋
「屋外にいた場合は100%が被ばくして、死亡率が50%。すべての人が何らかの病気になると、そういうことが述べられています」

ナレーション
久保山愛吉さんが亡くなった第五福竜丸が被曝した位置が、ちょうど、フィラデルフィアの位置にあたります。

水爆実験の映像
レッドウイング作戦 1956.5~7
核爆弾フラットヘッド 1956.6
核爆弾テワ 1956.7
ドミニク作戦 1962.4~11

ナレーション
アメリカは第五福竜丸事件からわずか2年後、核実験を再開。日本の漁船は汚染の続くその海でマグロ漁を続けたのです。そしてアメリカは世界最強の核兵器を手に入れたのです。

岡を登っていく映像
「ああしんど。もう登れんようになった」

ナレーション
高知県宿毛市。ここに生存者わずか2名という船がありました。

「おおようやっときた。じいさん。ようかきました」

ナレーション
11年前のこと。岡本豊子さんが自宅に帰ると、夫の清美さんが玄関先に倒れて死んでいました。

新生丸乗組員の妻 岡本豊子
「今日は一人やないでねえ。いっつも一人やけん。昨日きて、長いことお話しちょるけ」

ナレーション
6人の仲間たちとこの高地からマグロ船に乗り込んだ夫、清美さん。マグロ船、新生丸もまた、死の灰を被った船です。次々と死んでいく仲間を見送り、自らも病と闘った末になくなった清美さん。
闘病生活を支えた清美さんは、果たすことの出来なかった夫の無念を知っています。
事件から34年が過ぎた1988年。救済を求め、全国初となる被災船員の会が、高知県に発足します。

映像 高知県ビキニ被災船員の会が発足 1988年5月11日

代表世話人となった清美さん。議会に働きかけ、医師と連携し、自分たちで健康調査を実現しました。被曝の事実を国に認めさせたい。しかし夫は生前、妻の前で意外な言葉をもらしていました。

岡本豊子
「絶対にこれは成功せんね、言いよりました。」
-これは成功せんとは、どういう?-
「これは成功せんでしょう。これは国があいてやけん。自分らのあれ(力)ではできんことやもんねえ。ねえ、そうやかね。国相手にね、自分らがどう思うちょっても、なかなか。まあ元気におっただけ幸せよ。じきに亡くなった人もおるしね」

ナレーション
被災船員の会は、その後、会員の死亡が相次ぎ、解散を余儀なくされたのです。
新生丸乗組員の墓は、港を見下ろす、小高い岡に並んでいました。

「ここです。昭和58年の5月の28日か。61歳で書いちゅう。61歳。」
「(違う墓をさして)昭和58年6月の16日。52歳。この人もガンやった」

ナレーション
被曝の事実を認められないまま、亡くなっていった乗組員。新生丸に乗った男たちは19名。すでに17名が死亡しています。

映像 高知県太平洋核実験被災者支援センター 山下正寿さん(67歳) 東京で

ナレーション
調査を始めたころ、40歳の現役教師だった山下さん。ビキニ環礁での被曝事件を解明し、被災者を救済したいと、今も活動を続けています。

映像 全日本海員組合を訪問
「(海員しんぶんをさして)週1回でよったんですか」
「この当時は週1回。今は月3回です」

ナレーション
現在は被災した乗組員たちが被爆者健康手帳を公布されるように働きかけています。

山下
「広島・長崎以外にも、明らかにビキニ被災で影響を受けた人間に、原爆手帳を申請してくれと。こういうことはほとんど人に知られていないので、やっぱりぜひ、海員組合としても引き続き、取り上げてもらったらと思うのですけれども」
「そうですね」

映像 高知県教職員組合青年部での講演
「第五福竜丸ほどではないですけれども、火の玉をみた、爆発を見たという人が十数人いました」
ナレーション
事件から58年。残された時間はありません。

映像 山下の宿舎にて
-こんなにしんどい思いをして、変わりますかねえ
「それはやってみないと分からないから。そんなに急に変わる思うてはじまる思うちゃせんよ。ちょっとずつ、コツコツ、穴をあけるようにせないけん。谷川でね、カニがねえ、穴をあける。赤い子のカニが。それが堰を切るときがあるんだよ。
セメントで固めたものにね、カニが穴を開けていくんだよ。赤い子がおったらいかん言うて、赤い子がセメントを破って穴をあけるいうて。ま、そんな気持ちよ」
-じゃあ、先生は赤い子ですか
「赤い親じゃけど・・・。何か、いずれ変わる時が来るやろうと思うてやらんと、しんどうてできんわね」

ナレーション
日本中を放射性物質が覆った日からおよそ60年。またこの日本に放射性物質が降り注ぎました。

第二幸成丸船長の妻 崎山順子
「そりゃ今でもそうやか。あの、ほかの出しゆうあの、(福島原発事故の)記者会見じゃらで言うもんも、私らが知りたいことと、あの人らが言うことは違うように私は思うけんど。だから私らがなんぼそんな話(ビキニの話)をしたって、そんなの(誰も)知らんことやきに、いつの時代にも弱いものにしわ寄せがくるということは、いつの時代も一緒。うん、いつの時代も一緒や」

ナレーション
被曝したことを認めらず、原因さえ分からないまま死んでいった多くの乗組員たち。事件から58年。彼らは自らの死を通して、無言のメッセージを送り続けています。


ナレーター 鈴木省吾
朗読    保持卓一郎
シリーズ題字 柿沼康二
撮影    伊藤英朗
音声    山内登美子
ミキサー  山口誠
音効    番匠祐司
写真提供  朝日新聞社 毎日新聞社
ディレクター 伊藤英朗
プロデューサー 大西康司
製作著作  南海放送

 

番組は以上。記事は(下)に続きます。

 

 

 

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明日に向けて(576)ビキニ環礁水爆実験を問い直す(上)

2012年11月07日 21時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121107 21:00)

昨日、11月11日に参加する京都市醍醐母親大会との関連で、ビキニ環礁核実験と第五福竜丸の被曝などを再度、捉え直すべきことを書きましたが、今回はそれをさらに一歩、進めるために、昨日も紹介した番組を取り上げようと思います。
番組名は『放射線を浴びたX年後』。愛知県松山市の南海放送が8年間にわたって作成したものです。これに映像を追加したものが各地で劇場公開されています。詳しくは以下をご覧ください。
http://x311.info/

映画の紹介のチラシには以下のように書かれています。

***

1954年アメリカが行ったビキニ水爆実験。当時、多くの日本の漁船が同じ海で操業していた。にもかかわらず、第五福龍丸以外の「被ばく」は、人々の記憶、そして歴史からもなぜか消し去られていった。闇に葬られようとしていたその重大事件に光をあてたのは、高知県の港町で地道な調査を続けた教師や高校生たちだった。
その足跡を丹念にたどったあるローカル局のTVマンの8年にわたる長期取材のなかで、次々に明らかになっていく船員たちの衝撃的なその後…。そして、ついにたどり着いた、 "機密文書"…そこには、日本にも及んだ深刻な汚染の記録があった―
 
南海放送(愛媛県松山市)では約8年にわたり、これまであまり知られることのなかった「もうひとつのビキニ事件」の実態を描いてきた。地元の被災漁民に聞き取りをする高知県の調査団との出会いがきっかけだった。
制作した番組は「地方の時代映像祭 グランプリ」「民間放送連盟賞 優秀賞」「早稲田ジャーナリズム大賞 大賞」など、多数受賞。2012年1月に「NNNドキュメント」(日本テレビ系列)で全国放送され反響を呼んだ『放射線を浴びたX年後』に新たな映像を加えた映画化。

***

この2012年1月に放送されたものを、僕は録画していて、最近見て、感銘を受けました。同時に、広島・長崎のことだけではなく、この核実験での被曝の問題をもっときちんと押さえなくてはいけないという思いを強めました。
ビキニ環礁の核実験は、1954年3月から5月に6回も行われました。その規模はどれも広島原爆を1000倍もするもの。従って、そこで放出された放射能も、広島・長崎原爆で振りまかれたものとは桁違いでした。
例えば僕の親友のある女性は1954年4月の生まれです。彼女が最近、同窓会であった7人の女性のうち、なんと6人がすでにガンを経験していたという。これにはこのときの実験の影響があるのではないか。つまりこの事件は、私たちの今に大きくつながっているのではないかと思えるのです。

したがってまた私たちは、広島・長崎、ビキニ、そしてスリーマイル、チェルノブイリ、福島、あるいはまた劣化ウラン弾の降り注がれたイラクやコソボなど、あらゆる「被曝」をひとつの系で見ていく必要があるし、その中から未来に向けた重大な何かをつかみだせるのではないかと思うのです。

そのために今回はこの番組の内容をノートテークしてみなさんにお伝えしようと思いたちました。映画については紹介が遅れたために、すでに上映が終わってしまったところも多いようで残念ですが、ぜひお近くの劇場での公開見つけたときには、駆けつけてご覧になってください。
以下、文字起こしをお送りします。

*********

ナレーション
2011年3月、原子炉から放出された放射性物質がばらまかれました。一般市民に向けられる線量計。繰り返される直ちに健康に影響はないという言葉。目に見えぬ放射能の恐怖に人々は不安を抱いたままです。
しかし今から58年前、同じこの日本で線量計が人々に向けられたことは知られていません。そして日本全土が、放射性物質ですっぽりと覆われたことも。
救済されることなく死んでいった多くの人々がいることも。

タイトル
放射線を浴びたX年後
ビキニ水爆実験、そして・・・

ナレーション
元高校教師の山下正寿さん(67)は、かつてアメリカが太平洋で行った水爆実験による被害を、27年にわたり調査してきました。

山下 フィルムをさしながら
「水爆を見た人・・・」

ナレーション
撮影されたフィルムには被曝した漁師たちの証言が記録されています。

映像に写っている漁民たちの言葉
「ピカーンときたがや。目をとられるば。ピカーンと。おおっとこれはどういうやろうと。しょったところ、真っ赤になって・・・」
「ピカッときのこ雲が出て、水平線から水平線までいったもん。ざーっと」

「亡くなった方は分かりますか」
「タケダトヨジ、タケダトヨキチ、この人らはほとんどもうガンですね」

1954年3月1日水爆ブラボーの映像

ナレーション
1954年、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験。広島型原爆の1000倍の破壊力を持つ水爆が、マグロ漁船、第五福竜丸を襲います。吹き上げられた珊瑚の粉に、放射性物質が付着したいわゆる死の灰によって、乗組員が被曝。
6ヵ月後、通信長の久保山愛吉さんが、急性放射能症のため死亡(9月23日)。いわゆる第五福竜丸事件です。

南太平洋でのマグロ漁(1950年代)の映像

ナレーション
しかし放射能で汚染された死の海にいたのは、この船だけではありませんでした。

第二幸成丸乗組員
「全部、ガイガー計数器いいますか、これ全部こうみんな、全員やられたもんね。針がプッと振り切れてますわね」
他の同船乗組員
「それで私がやられた頭で1500(カウント)と言われたの」
他の同船乗組員
「ガイガー測定器、メーターを振り切ったねえ。体いったい、どこもかしこもね」

ナレーション
キャッスル作戦と名づけられた水爆実験は、3ヶ月の間に6回行われました。

映像
①ブラボー 1954.3.1 
②ロメオ       3.27
③クーン       4.7
④ユニオン      4.26
⑤ヤンキー      5.5
⑥ネクター      5.14

ナレーション
セシウム、ヨウ素、ストロンチウム、プルトニウムなどが海を汚染。さらに上空に吹き上げられた多量の放射性物質が漁船を襲いました。やがて多くの乗組員たちが次々と死んでいきます。

新生丸乗組員の妻
「窓を開けて、血をポッタリと吐いてね、死んでおったがです」
新生丸乗組員
「その船にのっちょった人間がどんどん、50代、60代で亡いようになって」
新生丸乗組員の別の妻
「もう、みんな若くしてね、ほとんど亡くなってしまったから、みんなが。ほとんど亡くなりましたね」
新生丸乗組員のさらに別の妻
「バタバタバタバターって亡くなってったんだよね」
第八昇栄丸乗組員
「みなもう、はよう死んでもうたわ」

同じ船に乗っていた夫と兄、そして義理の兄を相次いで亡くした女性がいます。

映像
兄 三木善喜さん 頸部のガン 享年63歳
夫 尾野竹重さん すい臓ガン 享年63歳
義兄 山村政光さん 心臓発作 享年65歳

尾野スミエ
「私の兄と、姉婿と、乗っていたみんながつらつらーっとのうなってしもうた。私の兄と一週間違いでのうなってしもうた、うちのお父さんがね。それから2年ぐらい先に姉婿がのうなったからね。
病院の上、下に部屋をとってね、(夫は)背中が痛い、言い出してね。それから病院に検査にいったらもう手遅れでね。すい臓も肝臓もガンで侵されちょってね」

ナレーション
高知県、土佐清水市に放置されていたマグロ漁船、住吉丸。かつてあの第五福竜丸と同じ海で操業していました。見つけたのは高知県で教師を務める山下さんと生徒たちでした。住吉丸は本当に被曝したのか。残留放射線の測定を試みます。

「どういうこと?」「なぜ?」

事件から35年が過ぎているにもかかわらず、船体からセシウム137、ストロンチウム90などが検出されました。調べてみると、乗組員11名のうち8名がガンで亡くなっていたのです。(胃ガン5名、肺ガン3名)
山下さんは50代の人間が何人も亡くなっていることを知り、衝撃を受けます。

山下
「教師になって帰ってきて、この事件にぶつかりましたから、第五福竜丸だけのはずなのに、おかしい。しかも自分の身近なところにいる人も関係しているということは、すごく緊張感がありましたからね。人の問題ですから。しかも救済はどこもしないですから。誰かがやらなければいけないことですよね」

ナレーション
山下さんは仲間の教師や高校生とともに被災者の聞き取り調査をはじめました。救済されることもなく、口を閉ざしてきた漁師たち。高校生の懸命な姿が生存者や遺族の心を開いていきました。被曝した魚を水揚げした船は東北から九州まで全国にわたっていました。
そのうち高知県の船が三分の一。3年にわたる調査のうち、高知県内で消息の分かった乗組員は241名。被曝から34年。すでに三分の一が死亡していたのです。(死亡者77名 32% うちガンなどの病死者61名)

調査用紙に残された生々しい証言。

第八順光丸乗組員
「実験直後、めまい、やけどあり。歯茎から出血。」
第七大丸乗組員
「白血球少ない」
第一徳寿丸乗組員
「きのこ雲を目撃。二週間後、脱毛が起こり、顔が真っ黒くなる。
第八順光丸乗組員
「だるさ、脱毛」
第二幸成丸乗組員
「29歳で被災、脱毛が起こった」
第七長久丸乗組員
「水爆との関係は不明だが、機関長は2年くらい前に胃ガンで死亡。甲板長は30歳で胃ガンで死亡した」
新生丸乗組員
「大腸ガン死、肺病死、口頭ガン死」

漁師たちの無念をはらしたい。山下さんの活動は高校教師を辞めたあとも続いていました。

映像
長崎県南島原市口之津町の故林三義宅を山下さんが訪問

山下
「おはようございます。平さん、よろしいですかね。先に三義さんにお線香をあげたいんですが」「あら、そうですか」

ナレーション
当時、ビキニ海域にいたのは、まぐろ漁船だけではありませんでした。貨物船弥彦丸の乗組員、平三義さん(享年71歳)は、40歳のとき、岡山大学付属病院で放射性物質による白血球減少症の疑と診断を受け、被爆者健康手帳の交付を求めます。
しかし広島、長崎の被爆者ではないという理由だけで、申請は却下されたといいます。

山下
「体がだるいゆうて、よく言われていたようですね」
林チミ(三義妻)
「そうですね。もうきついきついっていうてからですね、寝たり起きたり、寝たり起きたり」
山下
「もうちょっと早ければ良かったのですけれど、今からでも調べたいと思っていますので」

「もうこっち(口之津)には(生存者)おられないですものね。口之津には、3人、4人いられたのですよね」
山下
「でも大変でしたね、ずっとそうやって、看病したり病院にいったりせないかんのはね」

「運命って思わにゃ、仕方ないですね。苦労しました。そっちこっちにね、病院通いばっかりじゃったですよ。」


山下
「漁民の体を通して、ガンとか心臓発作とかそういう病気を通して、『なぜ俺はこんな目にあって死ななきゃいけないのか』という思いをずっと積み重ねているわけですからね。そのときに初めて明らかになるという。そういう意味で怖いですよね。
何十年も経たないと明らかにならないという。何十年経ってやっと、漁船員の死を通して立証されようとしているということですから。」

ナレーション
調査中、山下さんは被曝の実態解明にいたる、重要な手がかりに出会います。

映像
第二幸成丸船長の妻 崎山順子さんと漁業日記を調査

山下
「(日記を読みながら)「引き続き続行中」。非常に風が吹いたんですね」

ナレーション
それは第二幸成丸船長の崎山秀雄さんの残した漁業日記でした。通常、航海が終わると廃棄される漁業日記。偶然発見されたこのノートから、船の位置や操業の様子。被害の実態をたどることができたのです」
(日記)「2月24日晴れ。14時30分、浦賀出港。一路、マーシャルへ。」

紙テープで彩られた浦賀港。航海の無事と豊漁を願ってかけつけた家族に見送られ、第二幸成丸は二週間をかけ、南太平洋を目指します。
(日記)「3月1日、連日、向かい風強く、引き続き、続行中。東経154度57分5秒、北緯28度24分」

出港して六日目。3月1日アメリカは一回目の実験となる水爆ブラボーを爆発させます。第二幸成丸の通信長、山下昇一さんは無線を傍受。第五福竜丸が死の灰を浴びた・・・

第二幸成丸山下通信長の妻 山下尚子さん
「自分が無線でツーツーやっているでしょう。トンツートンツーいいますか、あれで。そのときに分かったらしいのですの。第五福竜丸が(死の灰を)被ったいうことが。
あれらがやられたということを自分が無線で聞いたらしいです。灰を被ったということを。自分が一番近くにいるということがわかるでしょ。それで船員には伝えたらしいです」
第二幸成丸乗組員 有藤照雄さん
通信長は、「静岡の船が空から灰のようなものが降ってきて、珍しい、皆、拾ったらしい」と聞いたのですよ。


ナレーション
第五福竜丸が死の灰を浴びて帰路を急いでいたころ、第二幸成丸は船を進めていました。アメリカが定めた危険区域を避け、3月11日からマグロ漁をはじめます。操業中の3月27日、アメリカは2回目に水爆ロメオを爆発させます。33キロメートルの上空に吹き上げられた放射性物質が、第二幸成丸にも降り注ぎました。

山下尚子さん
「雲といいますか、あれはね、遠くから見たそうです。それでやっぱり離れちょったけれど、かぶっちょったらしいんですねえ。」


第二幸成丸乗組員 桑野浩
「日中に食堂に行き時に一番気がつきます」

ナレーション
第二幸成丸の生存者の一人、桑野浩さんは最年少の19歳。当時、被っていた帽子が自分の身を守ってくれたと考えています。

桑野
「鮮明に覚えているのは、飯の鐘がなるでしょう。若い衆から、タッタッターと、トモ言うんですけどねえ。船尾の方に走っていきますわねえ。そのときにパラパラと降っていることが何回もあったんですわ。生存されている方は、私の同僚では、やっぱり私と同じようにね、ピシッと帽子を被ってね、合羽を着て、防護をある程度、してましたね。まともに灰を体に入れた人は、早死にしていますね。」

ナレーション
松野繁樹さんは、知らず知らずのうちに、除染をしていました。

第二幸成丸乗組員松野繁樹
「ブリッジの上とか、マストとか、煙突ね、それから漁具をおいてあるところね。そこなんか水をかけたけれどね。やっぱり、水に流されてね、水のはけ口にたまっておったんですわね。それが覚えてますわ」

ナレーション
乗組員たちは、放射能で汚染されたマグロを食べ、海水を浴び、死の灰の積もった船で、30日間を過ごしました。4月25日9時30分、浦賀にひとまず入港。15時、東京魚河岸に係留。ただちに原子カウント検査。
第二幸成丸を待っていたのは、カメラのフラッシュと、ガイガーカウンターのけたたましい音。港は騒然としていました。

続く

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明日に向けて(574)台湾の呉秀妹阿媽が逝去されました・・・。

2012年11月05日 23時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121105 23:00)
 
みなさま。10月始めに危篤になり、一時期、小康状態を取り戻していてくれた呉秀妹阿媽が、11月3日にとうとうご逝去されました。阿媽のご冥福を心からお祈りしたいと思います。
 
すでにお伝えしたように、僕は阿媽が危篤に陥った時に、逝去されたとの誤報を出してしまいました。そのとき涙を流しながら追悼文を書いたのですが、今もう一度それを、リライトしています。
あのほがらかだった阿媽がもうこの世にいないというのは、本当に淋しいことです。でもつくづく阿媽は、私たちにたくさんのことを残してくれたとの思いを強めています。何よりも人間の尊厳を示して生き抜いてくれたました。人間にどれだけの力があるのかを示してくれました。彼女は頑張って、頑張って、生き抜いてくれたのです。本当にそのことに感謝あるのみです。
 
今、僕の前にはアマアと一緒に撮ったたくさんの写真があります。どの写真でもアマアは楽しそうに笑っています。一つ一つから思い出が蘇ってきます。例えば目に入ってくるのは京都訪問の際に、事前に大阪城にお連れしたときのこと。長い石段を「加油(ガユ)加油(ガユ)=頑張れ、頑張れ」といいながら登っていたアマア。
ちなみにガユは台湾語。北京語ではジャーヨウという感じでしょうか。そうやって、いつでも楽しそうに、「頑張れ、頑張れ」を自分に繰り返すアマアでした。
あるいは京都でのウエルカムパーティーで、みんなが用意したピンクのドレスに身を包んで、本当に可愛らしく笑っている写真があります。あのとき阿媽は本当に喜んでくれました。それで私たちも本当に嬉しかったのでした。アマアはいつでもなんでも喜び、楽しんでくれて、それで私たちを喜ばす名人でした。

アマア。本当にたくさんのことをどうもありがとう。どうか、安らかに寝てください。もう何も心配する必要はありません。もう何にも苦しまなくていいのです。どうか静かに、寝てください。
思いは私たちが十分に引き継ぎました。アマアは若い人がもう二度と、あんな思いをしてはいけないとそう思っていたのですよね。だから何度も辛い過去を話してくれました。もう二度と若い人があんな思いを味わってはいけないと、心を込めて語ってくれました。必ず思いをつなげます。
 

僕が9月に台湾に行き、アマアのお宅にうかがったとき、アマアは車椅子に座って、ただうつむいているだけでしたね。もう笑う力も残っていなかったのでした。でも僕の名前はしっかりと言ってくれました。みんなの名前も間違えずに言ってくれました。
 
僕たちがプレゼントに買っていった羽毛の布団をみて、一言、「高いよ」と日本語で言いました。「ああ、こんなに高いものを買ってきてしまって」ときっとそう言いたかったのでしょう。小さいときからお金で苦労したアマア。だから金銭感覚がとても鋭くて、プレゼントをすると必ず何かで返そうとしてしたくれましたね。
京都で行ったウエルカムパーティーのこともずっと覚えていてくれて、「あれにはたくさんお金がかかったはずだ」と気にもし続けてくれたアマアでした。
でもアマアはその後にすぐに入院されてしまいました。だからあの布団、アマアは一度も使えなかったかもしれませんね。アマアはもったいないと思っているかもしれない。でもそんなこと、ぜんぜん気にしなくていいのですよ。
 
実はあのとき、アマアの姿をみて、僕は正直言うと、ショックを受けてしまいました。笑わないアマアを見たのは初めてでした。僕はアマアの笑顔が見たかった。待っていてくれて笑ってくれると思っていた。
そのために日本に帰って、僕は身悶えしてしまいました。もっと早く行けば良かった。アマアが「ああ守田さん」と言って、ニッコリ笑えるうちにいけば良かった。どうしてそうしなかったのだろうと、僕は子どものようにポロポロと涙を流しました。
 
でもアマア、今はそれは甘えだったと反省しています。だって1年以上、いけなかったのは仕方がなかった。僕は放射線防護で走ったのでした。いつもアマアのことが気にかかってはいたけれども、僕はそれを選択したのでした。
 
それに対してアマアは、僕たちが再度、行けるようになる日まで、頑張って、生きていてくれたのでした。しかも僕らが行くときに、病院から出てきてくれたのでした。それで最後の力を振り絞って、アマアの家で僕らの前に姿をあらわしてくれたのでした。今はそれが奇跡だったことがよく分かります。
 
もうアマアは笑えなかったけれど、でも今、思います。会えて本当に良かった。アマアは待っていてくれたのでした。そう、最後の気力で待っていてくれた。本当に感謝あるのみです。アマアは笑っていなかったのではけしてない。ただ顔の筋肉が疲れて、笑みを表すことができなかっただけですよね。
 
アマアは最後に、小さな声で、多謝(トウシャ)と言ってくれました。笑えなくても、御礼の言葉だけは絞り出してくれたのですね。たくさんの思いを込めて僕らにこの言葉を贈ってくれたのですね。


しかもアマアはその後に危篤になってからもう一度、持ち直し、たくさんの人がお別れに来る時間すら作ってくれたのでした。僕は行けなかったけれど、東京からも本当に長い間、アマアたちと一緒に生きてきた柴さんが駆けつけてくださいました。
柴さんの前で、アマアは訪れる色々な人に、ただただ、お礼を述べていたそうですね。日本人の柴さんには「ありがとう」と日本語で。台湾の人には、あるときは「多謝(トウシャ)」と台湾語で。またあるときは「謝謝(シエシエ)」と北京語で。繰り返し繰り返し、述べていたそうですね。

柴さんはこうも述べています。
「私が帰る前日、『私はもうすぐ死ぬよ』といい、『もう一度元気になって家へ帰ろうよ』という私に静かに首を横に振りました」・・・・・。

アマアは、自分が旅立つ日が近いことを分かっていたのですね。いや、もう旅たつ間際にいるのに、少しだけ踏みとどまってたくさんの人にお礼を述べてくれたのですね。それが秀妹阿媽なのですね。いつも人の恩には必ず報いようとした。親切には必ず愛で返そうとした。
だからアマアは危篤になってすぐに去るわけにはいかなかったのでしょう。たくさん、たくさんお礼を述べなければ、旅立つことができなかったのでしょう。
そうして一ヶ月、アマアは最後の命を燃やしてくれました。出会った人々に最後の最後まで感謝を捧げ抜いて、そうしてアマアは静かに旅立たれました。
 

「私は今が一番幸せです。日本に来て素晴らしい人たちと会えた。守田さんたちと会えた」。2008年の京都で証言集会のときに語ってくれたアマアのあの言葉が今、耳に聞こえてきます。

あの日の発言で、アマアはこんな風に語ってくれたのでした。
「被害を名乗り出て、婦援会に会って、私の人生は変った。それまでは辛いことばかりだった。日本軍にひどいめに会い、そのために子どもを産めない身体になってしまった。結婚をしたけれど、子どもを産めないことを責められて不仲だった。あまりに淋しいので、養女を育てたけれども、それほど仲が良くなかった。
ところが婦援会に出会い、何かが変り出した。仲間ができて、こうして日本にも来ることができた。そして守田さんや桐子やみなさんに会えて、こんなにも、優しくしてもらえた。私は自分の人生は不幸ばかりだと思っていた。でも最近になってそうではなくて、最後に幸せがやってきたと思うようになった。今が一番幸せです」。

そうしてあの笑顔、たくさん見せてくれた笑顔。それが次から次へとまぶたに浮かびます。

 
アマア。僕もあたなと会えて、本当に幸せでした。あなたの晩年のほんの一部を一緒に過ごさせていただいて、たくさんのものをもらいました。僕はこの先、何度もあなたのことを思い出すでしょう。そうしてそのたびに、心が温かくなるでしょう。アマア。さようなら。ゆっくりしてください。先に行ったアマアたちとも会って、みんなで楽しく過ごしてね。
 
僕はまだこの世で走ります。人間の世に光あれと念じながら。アマアたちのことを胸に抱きながら。そうしていつしか僕も走れなくなり、アマアたちのいるところに行くことになったら、またアマアをお訪ねします。そのときはあの笑顔をまた見せてくださいね。
 
それまでさようなら。たくさんの愛をありがとうございました。
 
合掌

 

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