明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(2037)原発被災地・フクシマに漂う「核との共存」-被爆地・ナガサキも同じ過ちを経験した・・・山口研一郎氏の論稿から-1

2021年05月27日 21時30分00秒 | 明日に向けて(2001~2200)

守田です(20210527 21:30) 

山口研一郎医師の問い

本年3月18日の号で、以下のタイトルで山口研一郎医師の論稿をご紹介しました。
明日に向けて(2005)『放射線副読本』の次に来るもの-放射線災害復興学にまっとうな批判の目を!ナガサキの経験に学びながら
https://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/b94fd007ea75aa87347aae6a86a7829c

山口医師が指摘されたのは、アメリカによる原爆による虐殺攻撃を受けたナガサキにおいて、カトリック信者の永井隆氏が「浦上は神に選ばれたいけにえ」「原爆を喜べ」と説いて、怒りを抑えこもうとしたという衝撃的な内容でした。


長崎原爆資料館に祀られた永井隆氏 守田撮影

しかもその永井隆氏の信奉者が、原発事故後に福島に入って安全論を吹聴した山下俊一氏であり、その一番弟子の高村昇氏が「放射線災害復興学」という「核との共存」を目指す「学問」を立ち上げていることを、山口氏は指摘されています。
その高村昇氏は、文科省が出した『放射線副読本』の事実上の主筆であり、さらにいま、福島県双葉町に設立された「福島原発事故伝承館」の館長にもなっています。

それらの点から、山口研一郎医師の論稿が極めて重要と考え、論点の紹介にとどめずに全文を掲載させていただくことにしました。もちろん山口医師のご快諾を得ています。
長いので3回に分けます。なお初出は、原発設置反対小浜市民の会が発行している『はとぽっぽ通信』227号(2019年2月)への掲載です。

ただ前回の記事を書いた際、永井氏の発言によってあたかも長崎の怒りのすべてが押さえつけられたかのような誤まった紹介の仕方にもなってしまいました。実際にはこれを突き破る力強い運動も生まれました。この点、お詫びして訂正させてください。


以下、山口氏の論稿をご紹介します!

原発被災地・フクシマに漂う「核との共存」-被爆地・ナガサキも同じ過ちを経験した

1 . はじめに
2011年3月11日の福島原発災害以来、 8年目を迎えようとしている現在、政府や電力会社は、「原発の有効性、安全性」を強調しながら(「福島を経験したからこそ、日本の原発は安全」)、いったん停止した原発の稼働を一基また一基と再開しています 。司法もそれにお墨付きを与えています。
そのような国ー企業ー司法一体となった原発推進の動きがある一方で、私がより深刻に感じるのは、民間の人々の中から「核との共存」「核への敗北感・あきらめ」といった思考・感情が沸々と沸き上がり、それを肯定し理論化する専門家や文化人、知識人が出ていることです 。

実は、そういった現象は今に始まったことではありませ ん。私の生まれ故郷である長崎でも、被爆直後から「核との共存」「平和利用」が語られ始め、その挙句、原爆ヘの怒りから「祈りの長崎」へと変質した過程があります。決して現代の「フクシマ」は独立したものではなく、「ヒロシマ・ナガサキ」から連綿と繰り返されてきた負の歴史の延長線上にあります 。そして、またもや「ヒロシマ・ナガサキ」の過ちを「フクシマ」が繰り返そうとしている厳しい現実を、私たちは直視する必要があると思うのです。


あたかも「事故があって良かった」ように語り、二十歳を過ぎると放射線の影響はないといいきった山下俊一氏 ネットより


2 . 被爆地 ・長崎において、永井隆氏が果たした役割
 
永井隆氏と言えば皆さん御存知のように、長崎の原爆中心地(グランドゼロ)浦上在住のカトリック信者であり、原子物理学者で、長崎医科大学放射線科助教授としての仕事中被爆した方です。被爆7年目の1952年、幼い2人の子ども(夫人は爆死)を残し、白血病で亡くなりました(享年43歳)。そのいきさつは、戦後出版された『長崎の鐘』(1946年)、『この子を残して』 (1948年)、『いとし子よ』 (1949年)とい った数々の著書でも知られています。まさに、被爆地長崎における平和の使者として崇拝されてきました。

しかし私は、長崎大学に入学した1970年頃より、医学部の先輩たる「永井先生」に対して、何がしかの疑問を持っていました。それを決定付けたのは、1970年7 月発行の『週刊朝日』 臨時増刊号「長崎医大原子爆弾救護報告」でした。被爆直後に記録された永井氏直筆の「報告」は以下の文章で結ばれています 。

「原子爆弾の原理を利用し、それを動力源として、文化に貢献できる如く更に一層の研究を進めたい。転禍為福。世界の文明形態は原子エネルギーの利用により一変するに決まっている。 そうして新しい幸福な世界が作られるならば、多数の犠牲者の霊も亦、慰められるであろう。」


「長崎医大原子爆弾救護報告」が掲載された『週刊朝日』 臨時増刊号

また、被爆の年11月の合同葬において弔辞を読んだ永井氏は、以下のような言葉で締め括りました 。
「嗚呼、世界大戦争の闇、将に終わらんとし平和の光さし始めたる八月九日、この天主堂の大前に立てられたる大いなる播祭よ一悲しみのうちにも私共はそれを美しきもの、潔きもの、尊きものよと仰ぎ見たのでこざいます。浦上教会が世界中より 選ばれ熾祭に供せられたことを感謝しましょう。」

さらに、1948年出版の『ロザリオの鎖』には、以下のような文章がみられます 。
「原爆に見舞われて私たちは幸せであった。浦上住民の信仰一途を見よ。天主堂に存する御聖体の下、隣人互いに助け合って快く苦難の道を歩みつづける姿は、外観は貧苦であるが、幸福に満ちているのである。」
「あれほど恐れられた残存放射能も、ひと雨ごとに洗い流され、いまではほとんど証明できない。田畑の作物もむしろ出来がよくなった。生まれ出る子供に不具 〔ママ〕がありはしないかと心配されたが、丈夫な赤ちゃんが次々と産声をあげた。お嫁さんの妊娠率も悪くなく、祝福された女の人がよく私の家の前を通る。もう何の心配もいらない。」

晩年、浦上近郊の一画二畳ー間の「如己堂」に臥すことになる永井氏は、1948年10月へレン・ケラー女史の訪問を受け、1949年5月長崎へ「行幸(ぎょうこう)」した天皇への「拝謁(はいえつ)」、12月長崎市名誉市民、そしてノーベル化学物理学賞を受賞 (1949年) した湯川秀樹氏らと共に文化勲章を授与されました 。1949~50年には、『長崎の鐘』が同じ題名で歌になり、映画化されました。

こうして永井氏は、長崎における聖人として奉られ、「永井精神」に対する批判はタブーとされ、1970年までの20年間封印されました(現在でも、観光バスが如己堂近くを通過する際、「長崎の鐘」のメロディーと共に、ガイドさんより永井氏が果たした数々の偉業が紹介されているようです)。


山下俊一氏の「右腕」の高村昇氏が「放射線副読本」を執筆し「放射線災害復興学」を起こしている

続く

#山口研一郎 #永井隆 #山下俊一 #高村昇 #ナガサキ #長崎の鐘 #核との共存

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