この言葉を見ると、なぜか心がざわつく。
なぜだろう。
何か自分の中に黒いものが渦巻くのがわかる。
受験。
そう。高校受験。
そのせいで友達を失った。大人たちが作り上げた「受験戦争」に巻き込まれ、楽しい小学生時代を奪われた。どんなに憎んでも憎みきれないくらいに憎いできごとだ。
きっと私は「受験」を恨んでいるからだろう。
だから、受験という言葉にざわつく。
そして、自分の子どもたちは、中学受験など縁遠い。発達障害で不登校になっている。
中学受験ができるのは、勉強ができる子だし、学校にちゃんと行けている子だから。
本音で言うと、きっと私の子どもたちもそう言うところに入れたかったのだろう。
しかし、蓋を開けてみたら、全くそういう世界とは真逆で、無縁な世界の子どもたちだった。普通の学校すら、適応するのが大変な発達凸凹の子どもたちだった。
どちらがいいとか一概に言えないが、うらやましいことは間違いない。
うらやましい気持ちは、行きすぎると妬みに変わる。
心の奥で渦巻く黒いものは「妬み」の気持ちだ。
だから、「中学受験」と言う文字をなるべく見ないようにしてるけど、Facebookでも、ネットニュースでも、学校からの県立中高一貫校の案内とかで、押し寄せてくる。
心が黒く染まりそうだ。
学校に普通に行くことすらままならないのに、中学受験など受けられるはずもない。高校受験でさえも難しい。
一生懸命、自分の気持ちをなだめて、納得させようとしている。
羨望が妬みに変わるのがとても怖い。
だけど、どうしてもうらやましいし、そう言う子になって欲しいと本当は願っていたのだろう。それは、紛れもない本当の私の気持ちだ。
でも、残念ながら子どもたちはそうじゃない。
認めざるを得ない現実だ。
こう言う気持ちにさせるのはなぜなんだろう?
やはり社会構造のせいだろうか。
だけど、きっとその価値観は変わる。
息子たちが幸せを感じて暮らせるようにすることが一番大切なこと。いい学校や会社に行かせることではない。
中学受験はひとつの手段でしかないし、社会に出てからどうするかが一番大切。
息子たちは自分にハンデがいっぱいあるから、できない人に優しくできる人になると思う。それでいい。
成績優秀な子どもや中学受験ができることは、うらやましいけれど、でも、息子たちには必要ないことだ。
息子たちができないことではなく、できることに目を向けていこう。
私にこれだけの困難を与えられたのには、何か理由があるのだろう、きっと。
すべての事象は必要にして善だから。