風邪のようで、今日はさすが在宿です。
熱は下がり、「知恵熱じゃないかと!」と悪態をつかれる始末。
今日の八王子昼過ぎから、温度が上がり、明日は熱中症にも気を付けるようですね。
ダカール・日野レンジャーが乗り、優勝した、車の写真を撮影できた、
日野自動車工場の仕事を引き受けている会社の所長さんの趣味。
3月3日のひな祭りは着物を着ていましたが、今回は、すっぽんぽん!で
恋人と逢うようです。
オットトトト・・・・! ⇓
昔は、「医者」と「坊さん」は「助べぇ~」と云いましたが、
裏付ける証拠でしょうか?
昭和29年、「小説新潮」の企画で、写真家12人に、1年間、交代で、読者投票のコンテスト、
木村伊兵衛、土門拳、濱谷浩ら気鋭の先輩達を制して、
「色」「金」「笑」「食」の4つの欲望の「お題」の中から、林忠彦が選んだ、「色」の写真です。
1等賞になり今のお金、200万円を手にした一枚ですが、
林氏、松竹の衣装部から借りた衣装は本物に見えなく、本物の坊さんから借りて、
医者の卵に着せ、雪の降る日、因果を含めて歩かせた、まったくの、演出!
ヘッ!
場所は、人気の出始めた、浅草ロック座の前であります。
「坊主と医者はスケベ」は死語でしょうか?
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【節三メモの疑問にお答え致します】
なつめろ様の記事より
記事を拝見致しました。とても素朴なことでなのですが、以前お知らせしました
「米国ページ」では太田節三氏とlucy Banningさんが初めて会われたのが
1925年と記述されているのです。御二人の出会いは1924年でしょうか。
1924年でしたら、文章抜粋ではなく「ブログ近況お知らせ記事」の掲載をと思っています。
米国ページの内容は太田氏の米国の華やかさがほぼ伝わる記述ですが、
格闘家としての関連記述はとても少なく1926年の興行記録がひとつ出てくるだけ。
そのためか、ルーシーさんの一目惚れは「1925年」と記述されています。
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Toyoguchiより
遅くなりました。
私の記事1924年10月10日、サンテル戦でルーシーがリンクサイドまで節三を
応援したと書きました。
なつめろ様記事の1924年は、まったく新説と思われたと思います。
お願いがあります。
1924年10月10日の日付の私の記事はペンディンクさせてください。
私の貴重な資料がこの日です、が
サンフランシスコ1926年「羅府新報」はサンテル戦を報じています。
これが、格闘家節三の興行記録のラストですね。
緒説では、このサンテル戦がルーシーの「一目惚れ」とされています。
1925年は、日本人同士の柔道対決の興業がサンフランシスコで、
開かれていて、節三はこの時期、格闘家かなりの人気者と扱われています。が
この年のルーシーの「一目惚れ」はなかったのではないかと思います。
以前私の記事で、ルーシーは節三とアメリカ本土で出会う前に、
日本に来ていると、書きました。
当時、節三が講道館で修練しているとき、結婚していたロッス氏とルーシーは、
講道館に立ち寄っている・・・
案外、「一目惚れ」ではなかっのではないか・・・・。
この疑問から、ペンディングお願いの理由なのですが。
節三の意気軒昂の時代から、転落し、節三の心境に重きを置いています。
私にとって、年代等は、節三60数年の生涯を語るとき、僅かの時間ですが、
「なつめろ様」と同様に、裏付けで確信を得たい思いは、強く、
稚拙な「創作」もなかなか進みません。
※節三記事のブログ登載記事は、削除しませんので、
これからも疑問点を投げくだされば、それ以上の至福はありません。
※期待に応えて無いようです・・・・・・・無念です! {end}