{なつめろダイアリー}様、記事より
太田節三氏と佐藤千夜子さんの最初の出会いがロサンゼルスなんですね驚いています。
名曲『影を慕いて(古賀正男=古賀政男作詩作曲編曲)』
『日本橋から(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』を
古賀正男指揮・明治大学マンドリン倶楽部伴奏で佐藤さんが初録音されて一週間後の
1930年10月28日、佐藤さんは海外音楽留学のため日本を離れ。
①結城亮一氏(NHKドラマ・いちばん星の原作者)の原作に描かれた
太田氏と佐藤さんの出会いは全く異なるんですね。
結城亮一氏が伝えられた定説では客船に太田氏もおられ、
佐藤さんの船上独唱会後の御二人の会話も出てくる=船上で出会ったことになっているのです。
もう一説の1932年ロサンゼルスオリンピック出場レスリング選手・八田一朗氏の
述べられたエピソードのほうが、Toyoguchi様の記事の内容に近いですね
②(「佐藤さんのイタリア留学は太田氏の支援で行ったんではないか」と八田一朗氏が述べられた部分は噂話と思われます。
当時の佐藤さんは大ヒット連発で専属での印税が莫大だったと言われているからです)。
佐藤さんの生涯を描いた新説著書を
古賀政男研究家第一人者・菊池清麿氏が最近発表され、
「いちばん星」原作者・結城氏との対立が話題になってました
(結城氏が菊池氏に対する批判のような文章を掲載)。
佐藤さんはビクターの反対を吹き飛ばして古賀政男作品を録音、
無名な一青年作曲作品レコーディングを
中山晋平作品代表歌手の佐藤さんが歌うことは
ビクター側にすれば考えられないことだったのです。
それをきっかけに古賀政男氏はコロムビアから専属の話が出て、
古賀氏御自身「佐藤さんのおかげで作曲家になることができた」と述べています。
佐藤さんは音楽に対する意識の向けかたがものすごかったようです。
結城氏著書の一場面に次のような部分が出てきます、
③「太田節三のロサンゼルスの家はラジオも聴ける最高級の電気蓄音機が最新の音楽を奏でていた。
千夜子は、ミラノに行かなければ、と思った・・・」。
Toyoguchi様、英語文章記事を再掲載致しました。ありがとうございます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
{toyo0181}より
いつもありがとうございます。
大衆音楽史に「慧眼の士」と言わさせていただきます。
のほほんと生きることの憧れに身を置く私の背筋を張らせる、真摯な記事に、
敬意を感じます。
上記、記事にブラウンで色付けしました文に関してですが
① ご理解いただけたようですね。萱島氏の紹介で節三と、佐藤さんは出会っています。
② こ推察の通り八田氏が推測されたものと思われます。噂話でしょう。
1932年のロサンジェルスのオリンピックには、私の叔父・横田正行(当時法務省剣道師範)が
行ってまして、節三としばらくの間、節三に世話になっております。
佐藤さんのイタリア留学は、節三の支援ではありません。
当時、あなた様が推察していた通り、佐藤さんは8年余りは
優に暮らせる資金を持ち合わせていたようです。
③ 佐藤さんのイタリア留学のきっかけは、高級な蓄音機が・・・と!美化されていますが
オペラの修業の志向だけではなかったと思われます。
もっと、もっと男と女が繰り広げる感情のもつれが起因します。
ここで中山晋平も関係してきます。
結城氏著書はこの期間の出来事をティフォルメし、記事にされていると思われます!
佐藤千夜子さんの、実像をとらえておりません。
それが、「NHKの一番星」をご覧になった佐藤さん遺族の方の
不満にもなったのでしょう。
太田節三氏と佐藤千夜子さんの最初の出会いがロサンゼルスなんですね驚いています。
名曲『影を慕いて(古賀正男=古賀政男作詩作曲編曲)』
『日本橋から(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』を
古賀正男指揮・明治大学マンドリン倶楽部伴奏で佐藤さんが初録音されて一週間後の
1930年10月28日、佐藤さんは海外音楽留学のため日本を離れ。
①結城亮一氏(NHKドラマ・いちばん星の原作者)の原作に描かれた
太田氏と佐藤さんの出会いは全く異なるんですね。
結城亮一氏が伝えられた定説では客船に太田氏もおられ、
佐藤さんの船上独唱会後の御二人の会話も出てくる=船上で出会ったことになっているのです。
もう一説の1932年ロサンゼルスオリンピック出場レスリング選手・八田一朗氏の
述べられたエピソードのほうが、Toyoguchi様の記事の内容に近いですね
②(「佐藤さんのイタリア留学は太田氏の支援で行ったんではないか」と八田一朗氏が述べられた部分は噂話と思われます。
当時の佐藤さんは大ヒット連発で専属での印税が莫大だったと言われているからです)。
佐藤さんの生涯を描いた新説著書を
古賀政男研究家第一人者・菊池清麿氏が最近発表され、
「いちばん星」原作者・結城氏との対立が話題になってました
(結城氏が菊池氏に対する批判のような文章を掲載)。
佐藤さんはビクターの反対を吹き飛ばして古賀政男作品を録音、
無名な一青年作曲作品レコーディングを
中山晋平作品代表歌手の佐藤さんが歌うことは
ビクター側にすれば考えられないことだったのです。
それをきっかけに古賀政男氏はコロムビアから専属の話が出て、
古賀氏御自身「佐藤さんのおかげで作曲家になることができた」と述べています。
佐藤さんは音楽に対する意識の向けかたがものすごかったようです。
結城氏著書の一場面に次のような部分が出てきます、
③「太田節三のロサンゼルスの家はラジオも聴ける最高級の電気蓄音機が最新の音楽を奏でていた。
千夜子は、ミラノに行かなければ、と思った・・・」。
Toyoguchi様、英語文章記事を再掲載致しました。ありがとうございます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
{toyo0181}より
いつもありがとうございます。
大衆音楽史に「慧眼の士」と言わさせていただきます。
のほほんと生きることの憧れに身を置く私の背筋を張らせる、真摯な記事に、
敬意を感じます。
上記、記事にブラウンで色付けしました文に関してですが
① ご理解いただけたようですね。萱島氏の紹介で節三と、佐藤さんは出会っています。
② こ推察の通り八田氏が推測されたものと思われます。噂話でしょう。
1932年のロサンジェルスのオリンピックには、私の叔父・横田正行(当時法務省剣道師範)が
行ってまして、節三としばらくの間、節三に世話になっております。
佐藤さんのイタリア留学は、節三の支援ではありません。
当時、あなた様が推察していた通り、佐藤さんは8年余りは
優に暮らせる資金を持ち合わせていたようです。
③ 佐藤さんのイタリア留学のきっかけは、高級な蓄音機が・・・と!美化されていますが
オペラの修業の志向だけではなかったと思われます。
もっと、もっと男と女が繰り広げる感情のもつれが起因します。
ここで中山晋平も関係してきます。
結城氏著書はこの期間の出来事をティフォルメし、記事にされていると思われます!
佐藤千夜子さんの、実像をとらえておりません。
それが、「NHKの一番星」をご覧になった佐藤さん遺族の方の
不満にもなったのでしょう。
最新の記事を拝見しました。佐藤千夜子さんは作詩家の西条八十氏から「歌いかたが、のっぺりしている。恋したことがあるの?」と言われ、「どうせ私は恋をしたことがございませんから、恋をしたことのある方に歌っていただいてください」と言われたエピソードが伝えられています。『愛して頂戴』の録音でのエピソードで、いわゆる「感情移入」の歌いかたを佐藤さんは苦労なさったようです。ミラノ滞在時の佐藤さんを、『無情の夢』が大ヒットの歌手・児玉好雄氏が述べています(結城亮一氏が児玉氏に直接会われてインタビュー)。児玉氏をビクターに推薦されたのも佐藤さんです。
佐藤千夜子さんと太田節三氏の恋愛は、結城亮一氏が描かれた定説からサバサバした雰囲気ではと思っていました。"toyo"様の更新記事での「男と女」という個所で、御二人のあいだにはいろんなことがあったんだろうなぁと素朴に思います。太田氏はすごくモテておられたでしょうから、佐藤さんは気が気でなかったかもしれませんね。佐藤さんは「歌謡曲の女王」だった方ですが中山晋平氏と野口雨情氏の力は大きく、日本ビクター側は中山晋平氏の機嫌を損ねないような配慮。そのため佐藤さんはイタリア滞在中にクラシック独唱会を開催できなかったとも言えるようです。日本ビクターは、イタリアのグラモホン本社(ミラノ・スカラ座スタジオ)へレコーディングの依頼ができる状態にあり、佐藤さんのクラシックデビューをさせないよう会社側の考えをミラノへ知らせていたのではと思われるのです。また、イタリアの佐藤さんの様子は当時ミラノに家があった藤原義江氏も日本へ伝えていたようです。中山晋平氏は佐藤さんのイタリア滞在中に、鹿児島で新橋喜代三さんと知り合われています。