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新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

「罪が赦され義とされた」

2015年03月19日 | 聖書のお話

「罪が赦され義とされた」 ルカによる福音書18章9~14節

 イエスさまは、自分のことを「正しい」として、他人を見下している人々に対して教えられました。この場合の「正しい」とは、信仰的に正しいかどうかということです。イエスさまは、信仰的に「正しい」かどうかは、神さまだけが判断できることなので、人がそれを判断することは「うぬぼれ」であると教えています。そもそも信仰とは、神さまに対する信頼であり、一切のことを神さまに委ねるということです。自分で信仰を「正しい」かどうか判断するということは、神さまが判断すべきことを自分で判断するということで、実は神さまを信頼していないということになってしまいます。

 「赦し」について考えてみたいと思います。「赦し」とは、誰がするのでしょうか。それは、人を「正しい」と判断することができる神さまが、人を「赦す」こともまたできるということではないでしょうか。人が、誰かを「正しい」とすることができないように、誰かを「赦す」こともまたできないのです。信仰者ができることは、ただただ神さまの赦しを乞い求めながら、共に祈ることではないでしょうか。

 イエスさまは、たとえ話を通して、ファリサイ派の人が他の人を罪人と決めつけ、見下し、自分の幸せだけ考えて祈る姿を伝えました。それが「うぬぼれ」であり、神さまから「正しい」とされることではないと教えられました。反対に、徴税人は、社会から「罪人」というレッテルを貼られ、自らを小さくして生きるしかありませんでした。喜びもなく、平安もない、だから神さまだけを頼りにして、ただ憐れみを乞い求め続けました。イエスさまは、たとえ話を通して、このように神さまに対してへりくだる者こそ、神さまは「正しい」としてくださることを教えられました。心に留めておきたい御言葉です。

 


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