森友学園に関する財務省の決裁文書の改ざんに関与させられ、一昨年の3月に改ざんが発覚した5日後に自死した近畿財務局の職員が書き残した文書が遺族によって公開されました。抵抗むなしく自死せざるを得なかった54歳の家族のある赤木さんのことを思うと、私と近い年齢ということもあり、涙なくしては読めない文書でした。同時に、改ざんされた元の文書に安倍昭恵氏の名前や、首相案件といった表現が多数記されていたのだろうことを思うと、まるで自分の身に降りかかった悪夢のようにも思えて、怒りに打ち震えます。
自死当時から、この文書の存在について毎日新聞社の記者が伝えていたのですが、官邸からの圧力が毎日新聞社にかかり、結局この記者は社内で配置転換をさせられ、記者を辞めざるを得なくなりました。けれども、この記者は根性のある人で、大手である毎日新聞社を退社後、小さな地方新聞社である大阪日日新聞の記者になり、この度、遺族が佐川氏と国を提訴したタイミングで、この問題を記事として世に問うことに至りました。まだまだ気骨のある記者もいるのもですね。世の中、捨てたものではありません。
3月15日(日)は、主日礼拝です。午前9時から教会学校、午前10時30分から礼拝があります。メッセージの題は「委ねる思いが人を助ける」、讃美歌は「主よ、いのちのパンをさき」、「十字架のもとに」、「うつりゆく世にも」です。礼拝後には、祈りの一時、お茶の一時があります。ご興味のある方は、どなたでもご参加ください。
ただし、コロナウイルスによる新型肺炎が流行していますので、少しでも体調に異常を感じられたり不安を感じられたなら、遠慮なくお休みしてください。教会学校も、このような時期ですので出席を控えられてもかまいません。それぞれのご家庭においても、手洗いや消毒などで予防し、流行を防ぐように心がけるようでありたいと思います。
病気になっている方々の一日も早いご快復をお祈りいたします。
「明日からの自分」 ヨハネによる福音書 9章1~12節
聖書の時代、ユダヤ教では病気や障がいを持っている人は本人か両親が罪を犯したからだと考えられていました。さて、通りすがりに、生まれつき目の見えない人が物乞いをしていました。弟子たちは、この人が罪を犯したのですか、それとも両親が罪を犯したのですかとイエスさんに尋ねました。イエスさんは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と言って、唾で土をこねてその人の目に塗り、「シロアム(「遣わされた者」という意味)の池に行って洗いなさい」と言いました。
イエスさんの言葉に従ったその人は、目が見えるようになり、もはや本人や両親までもが「罪を犯したのではないか」と言われる理由さえなくなってしまいました。病気を癒やされ、罪までも赦された者が、再び罪を犯したのかどうかを問う当時のユダヤ教的な生き方をするのか、それともイエスさんが教える愛と赦しの生き方を選択するのか、目が見えるようになった人は、明日からの自分がどのように生きるべきなのかの選択が迫られているように思います。
60歳に手が届きそうになり、両親が天に召されるとか、介護が必要な年齢になりました。先に母親が天に召され、92歳の父親が独りで生活を続けるにも限界を感じ、思案していたところグループホームへの入所が実現し、ほとんど奇跡だと受け止めています。それで、住み慣れたアパートを退去する必要があり、母の遺品整理もあって荷物整理に帰省したりしていました。
20数年暮らしたアパートは、ちょうど親からすれば孫の成長を見守った20数年でもありました。毎年、子どもを連れて帰省し、普段使わないテーブルやお皿を出して、孫と一緒に囲んだ食卓は、両親の喜びであり、数少ない親孝行であったと思っています。荷物整理をするうちに、あれも持って帰ろう、これも持って帰ろうとなってしまい、結構な量を車に積んで持って帰りました。
母親の葬儀の時は、認知症の父親が悲しまないように、看病をし続けた兄の心が折れないようにと、天国へ旅立ったのだからと努めて明るく振る舞っていたのですが、一人でアパートの整理をしつつ、いよいよ思い出の詰まったこの場所を引き払い、もうここに来ることが出来なくなると思うと、涙が止まりませんでした。兄に、その思いを電話で伝えたところ、「また新しい人が入って人生を紡いでいくのだよ。」と返事が返ってきました。脱帽。
両親のことと言えば、連れ合いもまた同様なことであろうと思います。ちょうど、同じような課題が重なっているところです。それなりの年齢になれば、否応なしに引き受けなければならない課題ではありますが、私のこと、連れ合いのこと、年度末のこと、それに世の中のコロナのこと、よりによってこの時期にと思ったりもしています。ちょうど3.11のことを想像すると、それぞれの一生懸命の生活の最中に、地震や津波があり、原子力発電所が爆発して放射性物質が飛散するという出来事に見舞われ、心が折れるくらいの大変さだったのだろうと思います。
ちょうど、教会暦でレント(受難節)を過ごしています。こんな状況だから、なおさら信仰が問われているのだと受け止めたいと思います。あぁ、礼拝のご案内を一回失念してしまいました。しかしまぁ、頑張るのも程々に、支え合って乗り切ることができるようにと願っています。