「悔い改めの実」 マタイによる福音書 3章7~12節
苦しみが大きければ大きい人ほど、無条件で救われたいと願うものではないでしょうか。ユダヤ社会の指導的立場であったファリサイ派やサドカイ派の人々もまた、救われたいと願っていたようです。しかし、彼らは救われる条件を「我々の父はアブラハムだ」という思いに置いていました。それは、他人を見下す選民意識や特権意識を拠り所にする考えでもありました。彼らは、たいして苦しんでもいないのに、救われたいと願っていたのでした。
バプテスマのヨハネは、罪の悔い改めもなければ、たいして苦しんでもいないファリサイ派やサドカイ派の人々に向かって、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」と言って、厳しく叱りつけました。
悔い改めの実とは、愛の神さまによる裁きが平等に行われることを信じ、おごり高ぶらず、平安のうちに信仰生活を送り、互いが差別をせず、助け、愛し合えるような社会になるために奉仕をするということではないかと思います。