新・空と鷹と鉄の間に

ヒコーキ、ホークス、鉄道好きのブログです。

冬の富山・金沢ふたり旅〜4

2018-01-15 20:22:06 | 旅行


兼六園側から金沢城に入るとなるとやはり石川門からになります。石川門は典型的な枡形門で、橋を渡って石川櫓を見ながら高麗門をくぐり枡形の中に入り、

右に曲がって櫓門をくぐって城内に入ります。世が世なら、この枡形の中では取り囲む櫓の中から前田家のご家来衆に監視されていることでしょう。

さて、この石川門を入るときにどうしても目につくのは、左側と右側で石垣が全く異なる様相を呈していること。普通ならばどちらかに統一されているはずです。
1759年の金沢大火の際にこの石川門も被害を受け、比較的損傷の少なかった左側の石垣を残し、損傷の激しかった石垣は作り直しています。右側は三代藩主利常公の時に作られた粗加工石積みと呼ばれる積み方。それ以外は加工した石を積む切石積みで作り直されているために生まれたもの。ちなみに粗加工石積みの方の石垣には、刻印のある石が多く見られますが、この手法は利常公の時代の特徴ともなっています。

その利常公の時代の石垣の象徴とも言えるのが、五十間長屋の石垣。パッチワークのようにも見えるカラフルな石垣で、石の刻印を見せています。この刻印が出ている意図は謎のままですが、関ヶ原以後の平和な時代に作られた遊び心のある石垣ではないでしょうか。

五十間長屋に続くように建つ橋爪門。金沢城二の丸の表門にあたる門で、金沢城の中でも一番格式のある門だそうです。高麗門の一ノ門をくぐり、枡形の先にニノ門が現れます。

この橋爪門の高麗門には正月のしめ飾りがつけられていました。
このしめ飾りは「加賀藩儀式風俗図絵」の元日登城の絵を参考に再現したもので数の子飾りと呼ばれているしめ飾りです。これもまたお正月らしい演出です。

こちらは二の丸と三十間長屋のある場所を隔てている堀の石垣。この石垣にも刻印のある石が使われ刻印のある方が表にされています。これも利常公の時代の石垣と思われます。
そして兼六園の基礎を作った五代綱紀公の時代になると切石積みが主体となりますが、この綱紀公。奇抜なアイデアの持ち主のようで…。

玉泉院丸庭園へ降りてゆくと現れる石垣。色紙短冊積みと呼ばれるものですが、石垣本来の防御性を求めるのであればタブーとされている縦に石を積んでしまっています。こうなると完全に趣味性が入った石垣。実際、この石垣は観賞用の石垣で、石垣の上部にある樋から水を流して滝のように見せていたとか。ここまでくると一つの絵を見ているのような感じになります。

庭園の側から石垣を見るとこんな感じ。ここから見ると防御のための石垣ではなく、観賞用の石垣であることがよくわかります。玉泉院丸庭園は綱紀公の時代以後「殿様のお庭」と呼ばれていたそうですから、加賀藩のお殿様はこのお庭を楽しんでいたのでしょう。


玉泉院丸から城外へ出ると石垣の一部が解体されており、発掘調査が行われています。この辺りには玉泉院丸鼠多門の遺構があり、その以降の調査を行なっているようです。調査後には鼠多門と櫓が復元されるのでしょうか。
金沢城を後にして道の反対側へある尾山神社へと向かいました。