仁志敏久選手お疲れ様でした

元巨人の仁志が引退表明=米野球独立リーグ(時事通信) - goo ニュース

 今日ネットを開くとアメリカの独立リーグでプレーしていた元ジャイアンツの
仁志敏久が引退を表明したらしい。

 昨シーズン終了後に横浜を退団してMLBへの挑戦を表明したものの手を
上げるチームがなかったため独立リーグでのプレーを選んだが、右太股
痛が完治しなかったのが原因のようだ。

 170㌢と決してサイズ的には恵まれなかったがファイト溢れる熱さと、相手
打者のクセなどを熟知して頻繁に守備位置を替えてアウトにしてしまう冷静
さを兼ね備えていた。

 最初に仁志を知ったのは常総学院時代の87年夏。
 1年生ながら7番ショートで起用されて特にQファイナルの中京戦では後の
チームメイトである木村から打ちまって逆転勝ちの立役者になり、初出場で
準優勝する原動力になった。

 2年では1番で開幕戦では第1球を3ベースヒットして圧勝する流れを作ったし、 3年夏も初戦で敗れたものの3番打者として出場している。

 早稲田に進んでキャプテンを務めて4番を打ち、日本生命時代は全日本の
3番を打っていたがリードオフマン不在だったジャイアンツに逆指名で入団し
1番に定着した。

 当時の長嶋茂雄監督は理想的な1番としてファウルで粘るなど球数を多く
投げさせるタイプより、初球からフルスイングしてどんどん打って行く真弓
明信タイプを好み緒方耕一ではなく元木大介などを1番に起用しようとしたが
元木はケガが多く断念していた。
そういう意味では1番不在の時に入団しているのも何かの縁だろう。

 守旧派の評論家からは‘1球目からフルスイングし過ぎる’や‘もっとじっくり
ボールを見るべき’などと否定的な意見が出て叩かれがちだったが、それに
めげず自分のスタイルを貫き通したのは素晴らしいと思う。

 だから現在の坂本勇人の1番は仁志の流れを
汲んでいるのがよく分かる。

  また守備では度々大胆なポジショニングでヒット性の打球をアウトにして
いたが、忘れられないのは2000年と2002年の日本シリーズ。

 2000年は連敗で迎えたG3で同点に追い付かれなお2アウト2塁から1・2塁
間の打球を好捕すると1塁送球を諦め、一気に3塁を回っていたランナーを
刺したシーン。

 普通の2塁手なら1塁送球するが仁志は冷静に2塁ランナーが3塁を回る
のを見ていたからこそバックホームしたのだが、仮に1塁に送球していたら
内野安打となって2塁ランナーも生還して勝ち越されていただろう。 

 そうなると過去2試合とも逆転負けだったジャイアンツはムードが悪くなり
ホークスに勢いが付くところだったが、仁志のプレーで同点止まりになり直後
の 3回に4点を勝ち越し そのまま流れを渡さずに4連勝となったのだから
シリーズの流れを変えたプレーだった。

 また2002年にはG1の1回に立ち上がりの悪い上原浩治が2アウト1・2塁の
ピンチを招き、5番の和田が放ったセンター前に抜ける打球を2塁ベースの
真後ろで守るという絶妙のポジショニングで2塁ゴロに終わらせ先取点を
与えなかった。 

 これが効いてG1を4-1で取ると一気に4連勝でジャイアンツが圧勝するの
だが、キーマンと思われた4番アレックス・カブレラの後ろを打つ和田一浩が
4試合連続ノーヒットに抑えたのが最大の勝因で和田のリズムを崩したのが
G1での仁志のポジショニングだったのは言うまでもない。

 こうしてみると数字もすばらしかったが、何より記憶に残る
名選手だろう。

 本当に長い間ご苦労様でした。

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