ヘアサロンうつのみや・オーナーのスポーツやヒーローもの、雑談ネタを徒然なるままに
こーじ苑
鬼塚勝也のラストファイトから20年
今から20年前の今日94年9月18日はWBA:Jバンタム級
王者の鬼塚勝也が1位の李炯哲に9RTKOで敗れてタイトルを失い、
試合後に網膜剥離だった事を明かして引退を表明した日である。
鬼塚勝也は個人的に蒲田で働いていた時にデビュー戦から4試合
ばかり会場で観戦した縁で注目していた選手だったし、片岡鶴太郎
がセコンドに付いている事から目立ったいただけでなく実力も他の
選手とは段違いで‘世界を取れるのでは'と思うほどだった。
その後13戦目に元東洋王者の杉辰也に7RTKOで勝って世界ラン
キング入りし、中島俊一との日本タイトルを賭けた激闘で連勝する
などランクを上げて行き92年4月に19度防衛していたカオサイ・
ギャラクシーが返上したWBA:Jバンタム級タイトルの決定戦を
2位のタノムサク・シスボーベーと争う。
この試合は2Rから6Rまで一方的に打ちまくられたのに対し7R
以降反撃したのだが明確なクリーンヒットがなく、イーブンを付け
る日本式の採点では完敗だったものの僅差でも差を付ける現行の
方式では勝ちというラウンドマストシステムに救われた勝利だった。
2度防衛した後に林在新戦やタノムサクとの再戦でも僅差の判定で
防衛を続けていたので‘目でも悪いのでは’という疑念が私に生まれ
ていた。
というのも鬼塚は中島俊一との2試合で共に場内を沸かせた激闘で
勝ったにも拘らず‘激闘をするようではダメ’と言っていたのだが、
世界戦の直前ぐらいからガードを固めて自らロープを背にして戦う
ようになりタノムサクとの再戦となった4度目の防衛戦以降は自ら
打ち合いに持ち込むようになっていた。
日本王者の頃までは動きながら相手のパンチを外し高速のジャブや
左アッパーのボディブローに右ストレートから左フックの返しなど
多彩なパンチを打っていた姿からは考えられなかったのだ。
だから李承九との5度目の防衛戦でダウンを喫したのは意外
だったし、そろそろヤバイのではと思い始めていたのだ。
だから李炯哲戦でファイター化しても驚かなかったしストップ
負けした時点で‘終わったな’と思ったし実際その後2年前から
網膜剥離の症状が出ていた事を明かした。
つまり世界戦に臨み始めた頃から網膜剥離の症状を抱えていた
わけで、だからこそ日本王者だった頃の輝きが失われたまま写真
判定で生き残っていたのかと納得したし当時 辰吉が問題にして
いた網膜剥離=即引退というルールが鬼塚を追い込んだ事になる。
ただし防衛戦の中では最強の相手だったアルマンド・カストロと
の2度目の防衛戦は素晴らしい激戦だったし、際どい判定が多かっ
たにも拘らずストイックな姿勢もあり辰吉丈一郎やピューマ渡久地
らと人気を分け合っていた。
また本人としては不本意だろうが既に世界では主流だったにも
拘らず、日本では認知されてなかったラウンドマストシステムを
一般ファンに認知させる事になったボクサーでもあるだろう。
« 次男の体験学... | 親玉が死んだ... » |
鬼塚は日本王者の頃が今にして思えば一番強かったですね。
世界戦をやる前ぐらいから目の違和感を持っていたようですから、打ち合うカストロには相性はよかったけど
距離を取る林在新には苦戦してました。
ラウンドマストシステムは80年3月に中島成雄がイラリオ・サパタからタイトルを失った時に気付きましたし、
WOWOWで解説をしているジョー小泉氏は81年4月の上原-セラノ戦からラウンドマストを連載誌で紹介してます。
ところが日本人の元世界王者が解説をする民法地上波
では自分達が現役時代にラウンドマストを経験してないので10-10ばかりをつけるミスリードばかりをやってました。
結局ボクシングの基本であるジャブをしっかり打ったり、外したりする事が振り分けられるのですからボクシングの基本をしっかりやってないとダメという事になりますね。
日本では柔道の感覚でボクシングを輸入しているので
ラウンドマストに未だに抵抗がある評論家は多いです。