例の如く、googleマップを眺めていたところ偶然発見してしまいました。
画面中央に 「サッポロビールホップ園跡地」との表示が。
(札幌市豊平区西岡3条8丁目13)
サッポロビールのホップは札幌で生産していたんだ!と思って調べてみると・・・。
国内では岩手県が最大の生産地だそうです。
この場所は一体何なんだ?と思い、図書館で調べた内容を元に現地で取った写真を交えて
札幌のホップ園の歴史を辿ってみたいと思います。
日本における、ホップ栽培の歴史は開拓使が始まりです。
きっかけとなったのが開拓使のお雇い外国人のトーマス・アセンチルが明治4(1871)年に地質調査で訪れていた
岩内町堀株川の河畔で野生のホップを発見したことでした。アセンチルは北海道がホップ栽培の最適地で国内の
ビール醸造にも使え、輸出できるほどの収穫が見込まれると当時の開拓使長官・黒田清隆に提言します。この提言
もあり、大麦とホップの自給を前提に開拓使麦酒醸造所(現・サッポロビール)が作られることになります。
明治5年、開拓使は札幌周辺の野生ホップを横浜の外国人経営の醸造所へ送り、試験製造を依頼しますが採取の
時期が遅く、乾燥も天日で行われた為、変色して使い物になりませんでした。
園芸技師であったお雇い外国人のルイス・ボーマーは、札幌官園および東京官園で外来園芸植物の導入や栽培
指導に当たった人物です。ボーマーはイギリスからホップの苗を調達しますが、明治8年8月に日本に到着した時に
苗はすべて腐っていました。赤道を経由しての苗の輸入は困難と判断し、ヨーロッパからは種でアメリカからは苗
で輸入することにしました。
札幌葎花園(ホップえん)を設けて自給する計画を立て、明治10年にアメリカ種23,308本・ドイツ種100本の苗を
アメリカから輸入して、ひとまず東京官園に移植しました。
札幌ホップ園は、現在の道庁正門前・北2条西3丁目~北3条西3丁目付近に明治10年4月に圃場が設けられ
広さ5500坪(1万8,183㎡)でした。
明治14年頃の札幌の地図
資料には道庁正門前・小樽通の東側(現・札幌駅前通り)との記載あり
既に別途入手してあったアメリカ種644本・ドイツ種201本を5月上旬に植え付けし、6月には東京官園のアメリカ種
の一部500本を植え付けたが、時期を失した為に12本を残して全部枯れてしまいました。
東京官園に植え付けた苗が無事に活着して、11年5月に札幌ホップ園に移植できたのは、アメリカ種23,308本中
6,777本・ドイツ種が100本中70本でした。
明治12年には最初のホップ園の周辺に第2~第4のホップ園を増設し、合計面積は1万4,265坪(4万7,160㎡)となり
明治14年に北海道産ホップで開拓使麦酒醸造所のビール生産の全需要量を賄う程になりました。
(明治9年に操業した開拓使麦酒醸造所ですが、当初はドイツ産ホップを輸入して醸造されました)
ホップの苗の移植に苦心した開拓使のホップ園ですが、明治15年2月に開拓使が廃止されホップ園は農商務省農業
事務所に移管されました。明治18年に札幌育種場と合併され、明治19年に札幌ホップ園は廃止されます。
現在の道庁正門前・北2条西3丁目~北3条西3丁目付近
今となっては、miredoやsitatte sapporoなどの商業ビルが立ち並ぶ札幌の中心部にホップ園があったとは。
追記
明治4(1871)年9月に設置された開拓使の東京官園ですが、青山南町の第1号地(3万7千坪)、青山北町の第2号地
(5万坪)、麻布新笄町の第3号地(4万7千坪)からなり、明治8年3月東京農事試験所と改称されます。
主に、1号・2号官園は植物、3号官園は牧場として使用されました。
1号官園は現在の、青山学院大学青山キャンパスとなっています。2号官園は現在、国際連合大学や旧こどもの城付近
となっています。
まさかの青学のキャンパスでその昔、ホップが栽培されていたとは・・・またもやびっくり!
つづく
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