白石区東米里にある神社です。
東米里八幡神社
(札幌市白石区東米里2124)
明治26年に山田三之助氏が開拓者として入植する折、富山県宇佐八幡宮から勧請して祀ったのが
始まりだそうです。
御祭神は 八幡大神 比売大神 神功皇后 です。
鳥居
社務所がありますが、無人です。
社殿
境内には碑がひとつあります。
馬頭観世音碑
この神社のすぐそばには、旧札幌市立東米里小中学校がありました。
昭和24年12月27日に東米里小学校が創設され、翌年4月、信濃中学校東米里分校が併置されました。
昭和34年4月には中学校が独立して、小中併置校として卒業生を送り出してきましたが、平成23年3月末
に閉校しました。
米里地区の開拓は、明治23年(1890年)から米作りを中心に始められ、水田にちなんで『米里』と
名づけられそうです。
札幌市中央区にある神社です。
伏見稲荷神社
(札幌市中央区伏見2丁目2~17)
明治17年4月に、札幌神社の禰宜(ねぎ)であった、初代神主の野村茂氏が京都の伏見稲荷神社の
御分霊を奉戴し札幌区南5条東1丁目に奉斎しました。明治33年に琴似村十二軒(現在の中央区宮の森)
に遷座し、さらに明治40年に現在地に遷宮されました。
以来、この辺りはこの神社にちなみ、伏見と呼称されるようになりました。
御祭神は 倉稲魂命・大山祇命・大國主命・事代主命・天鈿女命 です。
例祭は 9月9日です。
鳥居の数は25
石段が続きます。
石段を登りきる手前に小さな石碑が
御遷座記念
裏には明治四十年二月と刻まれています。
石段を登りきると社殿と社務所があります
社殿の前には 願石
元々は、社務所のある場所に半分ぐらい顔を出して埋まっていたそうですが、ある人がこの石は
生き石だから大事にしなさいと言われたそうで、掘り出してしばらくは社殿の横に野ざらしで置かれ
ていたそうです。氏子さんがこの石に願掛けをしたところ成就したとの事で、いつしか願石と呼ばれ
社殿の前に屋根もかけられました。パワースポットとして人気があるそうです。
社殿
社殿の右側には
左から 明治天皇歌碑 荒魂社 大山祇神
明治天皇歌碑 (大正5年建立)
刻まれている文字は雨風で見えなくなっています。
資料によると 我国は神のすゑなり神まつる むかしのてぶり忘るなよ夢 と言う歌だそうです。
荒魂社
大山祇神
社務所の前には
藻岩白龍大神 (昭和29年5月建立)
昔はこの場所に湧水が出ていたそうです。龍神様です。
駐車場の脇に碑がたくさんあります
左から
上田一徳翁之碑 (明治43年5月建立・のちに境内に移設)
円山村の発展に尽力した人物です。
阿由葉宗三郎翁之像 (昭和9年9月建立 銅像部は金属供出され 昭和59年3月像が復活)
札幌の火災予防運動に尽力した人物です。
火防碑
火災予防組合連合会の活躍を称える碑
火産霊神 (ほむすび)
火の神様です
石狩調役 荒井金助之碑 (昭和元年12月建立)
箱館奉行所の石狩調役だった荒井金助、江戸時代末期に石狩や札幌の開拓に貢献した人物です。
御朱印
神主さんに御朱印を戴いた時に、境内の碑についてお聞きしたところ、とても丁寧に教えていただきました。
ありがとうございます。
地域の地名にもなった歴史ある神社です。
神社って地域の歴史も学べるとてもいい場所です。
撮影 4月30日 6月23日
続きです・・・大通公園を8丁目からさらに西に歩いていきます。
8丁目
8丁目と9丁目の間は、今は道路が無くひと続きの空間になっています。
その訳とは・・・
西側にはオブジェが1基あります。
ブラック・スライド・マントラ (平成4年設置)
イサム・ノグチ作
世界的芸術家のイサム・ノグチの作品で、この彫刻は滑り台になっています。
札幌郊外にあるモエレ沼公園を設計することになったノグチは、札幌の子供達へのプレゼントとして
大通公園に彫刻を置くことを提案しました。大通公園を訪れたノグチが「ここなら置いてもいいね」と
言ったのが8丁目と9丁目の間にあった道路上でした。8丁目と9丁目をつなぎ、子供達が安心して
遊べるように、また東西南北どの通りから見えるようにと考えたそうです。ですが、道路を遮るのは
難しく、当初は8丁目に設置されましたが、ノグチの遺志を尊重し、8丁目と9丁目をつなげ、現在の
場所に移されました。
ちなみに、ブラック・スライド・マントラは、古いインドの天文台「YANTRA MANTRA」にちなんで
名づけられたそうです。
9丁目
中央部東寄りにあるのが
プレイスロープ(滑り台)
中央部西寄りにあるのが
遊水路
昔、9丁目の辺りは原生林に囲まれ、湧き水がある自然の森でした。遠くから見ると、小高い森が
クジラのような形に見えたことから、「クジラの森」と呼ばれていました。現在では、クジラをかたどった
大きなプレイスロープや湧き水を再現した遊水路が出来て、子供達の人気の遊び場になっています。
南側と北側には遊具があります。
南東角には碑が一基あります。
有島武郎文学碑 (昭和37年設置)
彫刻 藤川 基 作 台座 山本 一也 作
作家の有島武郎は明治29年に東京から北海道へ渡り、札幌農学校(現・北海道大学)で学びました。
その後、母校の教師となり、大正3年札幌を離れました。「カインの末裔」「生まれ出づる悩み」など代表
作の多くは北海道が舞台になっています。この碑には、「小さき者へ」の一節が有島の友人であった
武者小路実篤の書で刻まれています。
碑文 小さき者よ 不幸なそして同時に幸福なお前達の父と母との
祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ 前途は遠い そして暗い
しかしおそれてはならぬ おそれない者の前に道は道は開ける
行け 勇んで 小さき者よ
すばらしい・・・こんな碑があったんですね。
10丁目
中央部に像が2基あります。
北側にあるのが
黒田清隆之像 (昭和42年設置)
雨宮 治郎 作
黒田清隆は薩摩藩出身で、箱館戦争で指揮を執り政府に認められ、開拓使の次官、後に長官を
務めた人物です。後に第二代内閣総理大臣となりました。
ホーレス・ケプロン之像 (昭和42年設置)
野々村 一男 作
ホーレス・ケプロンは、アメリカのマサチューセッツ州生まれ。米国の農務長官を務めていましたが、
開拓使次官を務めていた黒田に招かれ、日本にやってきました。麦の栽培の奨励・魚の缶詰工場の
建設・札幌本道(現在の国道5号線)の整備・鉄道敷設の進言・石炭の採掘・札幌農学校(現・北海道
大学)の設立と、北海道開拓の基礎を築いた人物です。
この2基は北海道開拓功労者顕彰像建立期成会が北海道100年を記念して建立しました。
11丁目
東側にモニュメントがあります。
マイバウム (昭和51年設置)
姉妹都市であるドイツのミュンヘン市から贈られたものです。「マイバウム」とはドイツ語で、五月の木
を意味しています。ドイツでは5月に高い木を切り出して飾り付けをしたマイバウムを立て、その周りで
歌や踊りを楽しみます。樹木には精霊が宿り、災いから家を守り豊かさをもたらすと言う樹木信仰から
だそうです。
このマイバウムは、高さ23mの支柱にミュンヘン市の旗や、風俗、行事などを表した絵が飾りつけて
います。支柱は樹齢130年のエゾマツを切り出して作られましたが、昭和56年の台風で折れてしまい、
木製から鉄製に替えられました。その後老朽化が進み、平成12年に撤去されましたが、翌年の平成
13年に札幌市立高等専門学校(現・札幌市立大学)の生徒が中心となって復元され再設置されました。
中央には
噴水 (昭和43年設置)
中央のドームは地下鉄の換気施設を兼ねているそうです。
公園の四隅には
小さな噴水 (平成5年設置)
中央の噴水が補修された際に設置されました。
12丁目
姉妹都市がテーマになっています。
公園の東側には
瀋陽友好交流ゾーン (平成20年設置)
中国の瀋陽市と姉妹都市提携をして30周年を記念して整備されました。
公園を東西に横切るのが
カナール (平成6年設置)
山田 良定 作
全長82m 幅2.1mの修景水路で、水路の両端に湧水口と中心に噴水があります。
水路の両脇の庭園はサンクガーデンと呼ぶそうです。
写真の左側がミュンヘンゾーン。
右側がポートランドゾーンと呼ぶそうです。
ポートランド市はアメリカ・オレゴン州の都市で、昭和34年に姉妹都市となりました。札幌市初の
姉妹都市提携でした。
どちらのゾーンもバラ園になっていて、約30種・1300株以上のバラが咲き誇っています。
西側に像が1基
若い女の像 (昭和59年設置)
佐藤 忠良 作
第23回東洋東南アジアライオンズフォーラムを記念し、同組織委員会が寄贈しました。
都市公園としての大通公園はこの12丁目までです。
13丁目
札幌市資料館
この建物は、大正15年に札幌控訴院(のちの札幌高等裁判所)として建てられました。
詳しくはこちらの記事をご覧ください
資料館の建物の裏側には
裏庭
昔は、渡り廊下で繋がっていた木造の別棟があったそうです。
現在はこの空間は「カッコーの森」と呼ばれて親しまれているそうです。
都会の中の森です。
私なりに、大通公園を1丁目から紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか?
さまざまな像や碑が建っている事が解り、こうやって記事作りをすることによって私自身も
勉強になりました。
撮影 5月12日 一部 6月19日
続きです・・・大通公園を4丁目から西に歩いていきます。
4丁目
地下鉄大通駅5番出口のすぐ横に碑があります。
日本の道100選の碑 (昭和62年設置)
「道の日」制定を記念し選定され建てられました。
金属と水のモニュメント (昭和43年設置)
箕原 正 作
この噴水は、昭和43年、北海道と札幌の創建100周年を記念して設置されました。
南側に碑が1基
吉井勇歌碑 (昭和56年設置)
小谷 博貞 作
歌人・劇作家の吉井勇は、昭和30年に札幌を訪れ「北遊小吟」5首を詠みました。その中の一首です。
ライラックは「札幌の木」に選ばれています。
碑の歌 家ごとに リラの花咲き札幌の 人は楽しく生きてあるらし
「リラ」とはライラックのフランス語での呼び方です
5丁目
中央に碑があります
聖恩碑 (昭和14年設置)
昭和11年、札幌に天皇陛下(昭和天皇)が行幸され、陸軍特別大演習が行われました。
この碑は行幸を記念し、明治・大正・昭和の三代に渡る天皇陛下の御恩に感謝して昭和14年に建てられ
ました。高さは16.3mです。
碑の正面には「聖恩無彊」(せいおんむきょう)と刻まれています。
「聖恩」とは天皇の恩・「無彊」とは無限という意味です。題字は大演習にお供した閑院宮戴仁親王の書。
昭和12年の市営水道の通水開始も記念しているそうです。
舞楽の面(蘭陵王)が彫刻されています。
舞楽面蘭陵王(首領) 舞楽面蘭陵王(家来)
6丁目
西側に日時計があります
日時計の軸は札幌の緯度と同じ43度の角度で立てられています。
北側には野外ステージがあります
野外コンサート・イベントなどが開かれています
野外ステージのすぐ左側に
開拓紀念碑 (明治32年に移設設置)
明治15年に開拓使や屯田兵幹部が発起人となって碑の建立を計画して、明治19年に建てられました。
碑の石は、明治初期に札幌と虻田を結ぶ本願寺道路(現在の国道230号線)を開削した時に掘り出された
安山岩です。元は札幌で最初の公園である偕楽園(現・北区北7条西七丁目付近)の中にありましたが、明治
32年に大通に移されました。
西側に像があります
奉仕の道 (昭和57年設置)
峯 孝 作
札幌ロータリークラブ創立50周年記念として寄贈されました。
四つのテスト(職業道徳向上のための国際ロータリー行動基準)について話し合う北の動物達を
表しているそうです。
7丁目
公衆トイレの横に、大通公園管理事務所と大通公園インフォメーションセンター&オフィシャルショップ
があります。
オフィシャルショップ営業時間 10:00~16:00(イベント時延長あり) 定休日 12月29日~1月3日(年末年始)
北側に像があります
漁民之像 (昭和44年設置)
田畑 一作 作
北海道開拓100年と、北海道漁協婦人部創立10周年を記念して建てられました。
中央には
噴水と広場
夏は子供達の水遊び場に。
ヨサコイソーラン祭りの輪踊りソーランやお盆の北海盆踊りなど、踊りの広場でもります。
(撮影時(5月12日)は噴水は稼働していませんでした)
そして、南西角にある公衆電話の陰に碑が一つあります。
集団帰国記念碑 (昭和34年設置)
朝鮮総連札幌支部が建てた碑です。
戦時中に労働力不足を補う為に、多くの朝鮮人が連れてこられ、北海道では炭鉱を中心に過酷な
労働を強いられました。北海道には17~20万人の朝鮮人がいたと言われています。昭和34年に
日本赤十字社と朝鮮赤十字社の間で帰国協定が成立し、その年の12月に新潟から帰国第一船が
出ました。これを機に北海道からも2千人程が帰国したそうです。
撮影 5月12日 一部は6月19日
もうちょっと続きます。
今まで札幌の名所について紹介してきましたが、過去記事を検索すると、雪まつりの雪像紹介はして
いましたが大通公園自体の紹介はしていなかったようです・・・。
何てこった!
まずは大通公園の歴史を
札幌市の街は、開拓使の開拓判官の島 義勇が碁盤の目状の区画を構想したことにさかのぼります。
東西の基軸が創成川で、南北の基軸は大通公園です。
明治4(1871)年、中心部を北の官庁街と南の住宅・商業街とに分ける大規模な火防線がつくられました。
これが大通公園のはじまりです。つまりは火事の延焼を防ぐための緩衝地です。
明治5(1872)年には、道内の国郡名をとって道路の名前にしています。大通は後志通・北一条通りは
浜益通・南一条通りは渡島通と名付けられました。
ですがあまりに煩雑になったために明治14(1881)年、これらの名称は廃止されて現在の条丁目に変更
され、後志通から大通に正式に改称されました。
では・・・大通公園を1丁目から西に歩いていきます。
1丁目
1丁目と言えば、さっぽろテレビ塔
昭和32(1957)年に開業しました。テレビ電波を発信するアンテナを設置していました。
現在は、札幌のテレビ電波は手稲山から送信されていて、テレビ塔はテレビ・ラジオの中継基地として利用
されています。
高さは、147.2m 展望台の高さは90.38mです。
(テレビ塔の敷地は公園用地ではないそうです)
南側には、札幌を代表する川、豊平川(とよひらがわ)の水位を表示する
豊平川水位表示塔があります。
北側には、交番があります。
2丁目
北側に彫刻・碑・などがあります。
花の母子像 (昭和46年設置)
山内 壮夫 作
札幌の百貨店・丸井今井が創業100周年を記念して寄贈しました。
壁泉
北海道電話交換創始の地碑 (昭和48年設置)
明治33年に大通西2丁目の札幌逓信局(電話局)で北海道初の電話交換が行われました。
北海道の電話が100万台に達した記念に、逓信局の跡地であるこの場所に碑が建てられました。
ベンソンの水飲み (昭和41年設置)
札幌の姉妹都市・アメリカのポートランド市から贈られた水飲みです。この型の水飲みは1900年代の
初め、ポートランド市のベンソン氏が街でのどが渇いて泣く少女を見かけ、哀れに思い水飲み場を作り、
ポートランド市に寄贈したのがはじまりと言われています。
開拓母の像 (昭和38年設置)
佐藤 忠良 作
北海道開拓を陰の力となって支えた母達を讃え、北海道農協婦人部の寄贈で建てられました。
3丁目
北側に彫刻が二基あります
牧童の像 (昭和31年設置)
峯 孝 作
牛乳生産100万石突破を記念し、酪農関係者によって建てられました。
戦後に大通公園に建てられた像の第一号です。
石川啄木歌碑 (昭和56年設置)
坂 担道 作
北海道ゆかりの歌人・石川啄木の没後70年を記念して建てられました。
明治40年、啄木は函館から札幌へ来て2週間程過ごし、小樽へと旅立ちました。
碑の歌 しんとして幅広き街の 秋の夜の 玉蜀黍(とうもろこし)の焼くるにおひよ
南側に彫刻が一基
湖風の像 (昭和51年設置)
山田 良定 作
昭和50年の日展で特選を受けた青年像です。
中央には噴水と像があります。
噴水
昭和37年に大通公園初の噴水がこの場所に作られ、現在の噴水は平成3年にリニューアルされたもの
です。
泉の像 (昭和34年設置)
本郷 新 作
元ニッカウヰスキー会長の竹鶴政孝氏が寄贈したブロンズ像です。この作品について作者の本郷は
「踊り子が先にあったのではなく、地下から天空を支え、雲や風と遊ばせたかった。雨や雪を呼びたかった」
と語っています。札幌の代表的な彫刻作品です。
撮影 5月12日