「社会的自我と個人的自我」

2011-11-03 13:31:43 | 従って、本来の「ブログ」

         「社会的自我と個人的自我」


 藤原紀香と陣内智則の記事がことのほか人気だったので味を占め

て便乗します。基本的に私は、幸福とは本能で感じるものだと思っ

ていますので、理性的な判断とは言えないかもしれません。

 そもそも、芸能人という職業は社会が無ければ成り立ちません。

つまり、社会が先にあって芸能人という職業が生まれてくるのです。

もちろん、全ての職業は社会がなければ成り立ちませんが、社会

が安定した後に芸能文化が生まれます。ただ、職業が社会に提供

するのはモノやサービスであって自分自身ではありません。たとえ

奴隷であっても提供するのは労働力であって自分自身ではありませ

ん。ところが、芸能人は自分自身が商品なわけです。極端に言えば

人格を売っているのです。モノやサービスを売る者は売れなければ

モノやサービスを改善したり諦めて新しい商品を開発したりしますが、

芸能人は自分自身の人格を変えたり自分以外の者に変わることがで

きません。それでも売れるためには自分自身の感情を押し殺してでき

るだけ社会に受け入れられるように自分を作り変えようとします。そこ

で社会との共感意識が強くなって個人的自我が失われてしまいます。

それは何も芸能人だけでなく一般の社会人でもそうですが、社会の

中で生活する限り誰もが自分勝手な振舞いや欲望を自制しようとす

る意識を持ち合わせています。ところが、先ほど言いましたように芸

能人は本来の個人的自我を矯めてしまって社会的自我がすべてに

なってしまう。

 さて、藤原紀香という商品は多くの人々から人気を博して、彼女

の個人的な言動さえも社会性を持つようになる。彼女が陣内智則と

結婚をするということは極めて個人的なことだが彼女という商品に

憧れを抱いて見ていた者たちにとっては衝撃だった。それは藤原紀

香という商品の値打ちを下げることになる。そうは言っても、彼女に

も個人的な生活は保障されている。そこで一般に芸能人はその決断

に悩むのですが、彼らは社会的自我の意識が強いために大抵は築

き上げた社会性を失うことを恐れて個人的自我を諦めようとします。

自らの社会的価値に見合った愛を得ることができないからです。そも

そもそれ自体が理性的な判断によって愛を相対化させているのです。

しかし、われわれは幸福を第一義に考えるなら、幸福とはそれぞれ

個人の本能から萌え出でる個人的幸福なのです。お金を払って買え

る幸福は決して第一義の幸福ではありません。社会が幸福だと認め

ている幸福は本能にとっては二義的な社会的幸福なのです。たとえ

ば、母親のわが子への愛は如何なる社会的な幸福によっても補える

ものではありません。それは子が親に寄せる愛も同じですが、それ

を絶対的な愛情だと言うなら、絶対的な愛を棄てて、果たしてそれ

に代わる如何なる幸福が社会の中で見つかるというのでしょうか?

われわれは社会的自我に洗脳されて個人的自我を見失い、本能的な

愛を諦めて理性による愛を求めようとするが、本能的(絶対的)な愛

がもたらす幸福を忘れさせる社会的な幸福など在るはずがない。こ

うして社会的自我に委ねられた理性的な愛はすぐに冷めてしまうが、

それでも社会的自我は愛など無くても幸福を装おうとする。

 


                                  (つづく) 

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