「後退した自由」
「自由」という言葉によって連想されるあらゆる特殊な自由の中
で、歴史的に最も古くまた基本的なものは運動の自由です。望む所
に向けて出発できるということは自由であることの原型であり、そ
れゆえに有史以来運動の自由を制限することは奴隷化のための前提
条件となってきています。運動の自由はまた行動のための不可欠の
条件であり、人々が世界のなかで自由を経験することは何よりも行
動においてです。人々が公的な空間――共同の行動によって構成さ
れ、歴史へと発展すべき出来事と物語とでおのずから満ちあふれて
いる――を奪われるとき、人々は思考の自由へと後退します。
ハンナ・アレント「暗い時代の人々」
思考とは行動の自由の制限がもたらした後退した自由だと彼女は
言う。ならば、機械文明によって運動の自由を放棄した近代人は文
明の奴隷であると言えなくもない。斯くも思考が持て囃されること
は運動の自由を失ったからに違いない。何れわれわれの思考までも
コンピューターに取って替わられるとすれば、われわれには無為の自
由しか残されてはいないだろう。否、すでにわれわれは自由とは無為
のことだと後退してはしてはいないだろうか?彼女はこう言います、
「人々が世界のなかで自由を経験することは何よりも行動において
です」と。