「原発事故と経済成長」
時が経って忘れかけた頃に、ものごとの真相が見えくることはよく
ある。例えば、前の敗戦にしても勝てるわけがない戦争だったと、平
和を取り戻した暮らしの中で冷静に思い知る。過ぎ去ったことは、た
とえ自らのことであっても既に自らではどうすることも出来ないこと
なので他人事のように見ることができる。今や世間は、原発再稼働の
是非を巡って侃々諤々の議論が喧しいが、無責任なことを承知の上で
他人事のように言えば、例えば、原発の再稼働を止めれば日本の経済
成長が失速するというが、福島原発事故の後であれば、そんなことは
当たり前のことで、寧ろ、斯くも深刻な事故が起こったにも拘らず、
見直されることもなく、まるで何事もなかったかのように原発が再稼
働されて、以前と変わらぬ経済活動を望むことの方が異常ではないだ
ろうか。地震大国の日本にあって、その専門家が散々巨大地震の危険
性を指摘していたにも拘らず、それでも、原発関係者は耳を貸さずに
安全であると言い張った。しかも、その地震によって深刻な原発事故
が起こっても、今度は大津波による被害を想定外だったと弁解するが、
しかし、過去を振り返れば到る所で大津波による爪痕が記録されてい
るではないか。かつて、真実を隠蔽して国民を欺き続けた大本営発表
さながらに、またしても我々は国家繁栄のエネルギー政策のために生
存を犠牲にしてまで(経済)戦争を戦わなければならないのだろうか。
原発推進派の人々は他国の例を引き合いに出すが、地震大国である
我が国は他国と同列に考えてはならないはずだ。更に言えば、我が国
は世界で唯一の被爆国ではなかったか。そんな地震大国でありながら
経済を優先させるためだけに原発を再稼働させてもいいのだろうか?
福島原発の事故は、生命の存在そのものを脅かし、社会の在り方を根
底から覆すほどの大きな出来事であり、未だ終わっておらず、それどこ
ろか放射能の恐怖は未来に亘って影響し続ける。「9・11」は如何に悲
惨であったとしてもその時限りの出来事だが、「3・11」は未だ続
いているのだ。不謹慎な事を言えば、たとえ大津波で何万人の人々が
亡くなろうとも、これから生まれてくる人々には被害は及ばないが、
放射能汚染は時を越え地域を超えて拡散し続けるのだ。この国が今後
どういう社会になっていくのか知る由もないが、否、その選択こそが
現在の我々に問われているのだが、経済発展の為とか技術開発の為と
か、その被害の深刻さを矮小化して、まるで自動車事故や飛行機事故
などと同列に論じるのは誤りである。私ははっきり言って「フクシマ」
には住みたくない。豊かさの代償に生命を犠牲にしなければならない
なら豊かさなど要らない。未来の不安を払拭できないまま、現在を拙
速に取り繕ってはいけないと思う。「フクシマ」以後、我々が考える
べきは現在をどうするかではなくこの国の未来をどうするかでなけれ
ばならない。我々は、未来の可能性を狭めても現在の豊かさを手放す
べきでないのか、それとも、現在は豊かさを失うことに耐え忍んでも、
未来の可能性を潰さずに新しい人々へ夢を託すべきなのかが問われて
いるのだと思う。ただ、高々0. 何%かの経済成長を稼ぐために、再
び原発事故の不安に苛まれながら開かれた未来に夢を描くことなどで
きるのだろうか?未来を生きるこの国の人々は、果たして、現在を生
きる我々の判断をどう評価するだろうか。彼らの冷静な目に、我々は
どう決断すれば英断であったと映るのだろうか。ただ、生命の原点を
失って進化も繁栄もないではないか。現在の我々は「安楽で便利な」
生活を営むだけの為に、未来の人々の生存権を奪う権利までも有して
いない。