「無題」 (五)―④

2012-05-22 19:55:39 | 小説「無題」 (一) ― (五)



          「無題」


           (五)―④


 サラリーマンが首に締めるネクタイは、もしも仕事で取り返しの

つかない失態を犯した時に自ら身を処すために予め用意されたア

イテムなのかもしれない、などと思いながら春の風を満身に浴びて

腕をのばして伸びをした。山の斜面を垂直に切り取って舗装された

道路からは遥か霞の向こうに大海原が一望でき、絶景の先に斜め

に傾いた水平線が見渡せた。その水平線を眺めていると、自分がい

ま立っている道路が傾斜しているのに気付いた。上空では鴬が近く

で囀ったと思ったらしばらくして彼方の方から声が聴こえてきたり

した。しかし、どうもその鳴き声が何時まで経っても鴬本来の鳴き

声には到らなかった。否、そもそも本来の鳴き方などというものを

彼らは持っているのだろうか?我々が地方によって方言が違うよう

に、彼らも自分たちの鳴き方こそが正調だと思っていても全然おか

しくはないではないか。例に日本中の鴬の鳴き声を集めて聴き比べ

てみれば、それこそ様々な個性の鳴き方があることに気付かされる

のかもしれない。まるで私に付き纏うように囀り、私はその声に励

まされて黙々と歩いて喉が渇いてしかたなかった。

「しまった、街で飲み物を買っておけばよかった」

と悔やんでいると、はるか前方の片隅にポツンと自動販売機が置か

れていた。まさか、砂漠にオアシスの蜃気楼を見るように幻ではな

いかと疑いながら近付くと、古い自販機だがちゃんと無駄な光を点

滅させてスポーツドリンクさえ用意されていた。「おお、さすが日本!」

と、思いながらズボンのポケットに小銭を探ったが運悪く五十円硬貨

と後は十円硬貨ばかりで百円硬貨の持ち合わせがなかった。

「しまった!」

そうだ、さっきタクシーを降りる時にお釣をもらえばよかったと思

い返しても後の祭りだった。しかも、ロッカーの百円を忘れずに取

っておれば何のことはなかったのに。私は、仕方なく内ポケットか

ら財布を取り出して千円札を投入する決心をした。ただ、それは結

構勇気のいることだった。実際デンキが点滅しているが、置かれた

場所や使われた形跡からして正しく作動してくれるかどうか甚だ心

許なかった。仮に、百五十円を投じて水泡に帰してもまあ諦めがつ

くが千円札を賭けるのは博打だった。私は、恐る恐る紙幣投入口へ

千円札をあてがった。すると、私の思いなど気付かう様子も見せず

に飢えたウワバミが獲物を一飲みするようにスッと吸い込んだ。しば

らく固唾さえ飲み込まずに様子を見ていたが何の変化も起こらない。

仕方なく「返却ボタン」を押してみたがまったく吐き出す気配もない。

「あああ、やってもうた」

不安は実現した。

                                  (つづく)

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